お仕事開始
サファイアの教育の為に買収した企業は、第一次世界大戦までに大小合わせて18社にも及んだ。
買収の仕方は簡単だった。銀河社を通し巨額の資金をバックに強引に株を買い占め、株主総会等で
現社長、重役達を配下に置き、表向きは何ら役員の変更を行わないが、経営方針や人事については
銀河社からの指示を優先させるやり方だった。
この方法により世間的には、大株主は変わっていったが社内的には何も変わらず、ただ新規事業を大規模に行うようになった、としか思われなかった。
しかし最終的には、買収した全ての企業が第一次世界大戦の戦争好景気の波に乗れたわけではなく、
生き残りをはかる為に、統廃合したり、将来性のある部門だけ独立させたり、他社に身売りしたりしてみたが、
それでも倒産した会社は15社になってしまった。
その中で大きく時代の波に乗り倒産せずに生き残ったのが、
大阪の木津川河口にある中堅どころだった木津川造船株式会社
鈴本商事からタダ同然で譲り受けた、神戸にある赤字まみれの中規模な播磨製鋼所、
大阪港に本社のある倒産の瀬戸際だった、なにわ汽船株式会社の3社だった。
あと、ベンチャー企業の位置付けで銀河社の100%子会社として、
大阪精錬所、浪速電気精密加工株式会社の2社を設立した。
その他には買収ではなく業務協定をした会社として
木津川造船株式会社と業務協定を結んだ企業、石油問屋の國光商店とディゼルエンジン製作会社の岡山発動機株式会社の2社
なにわ汽船株式会社と業務協定を結んだ企業、義兼商店
有限会社銀河社と業務協定を結んだ企業、大阪航空会社
有限会社銀河社と資本協定を結んだ大阪第一飛行場
となっている
木津川造船株式会社は、大阪市内に本社を置き営業所を東京、名古屋、福岡の3か所構えた
中堅の会社で、事業内容は船舶造船のみで大きな借金もなく、大財閥の傘下にも入ってない堅実な会社だった。
社長以下大した野心もなく、お客様からの注文の船を実直に造る造船会社として、船会社からも
信頼があり堅調に会社の運営をしていた。
そんな会社だったが、第一次世界大戦が起き、造船景気が起きるとことを知っている銀河社が
強引に会社買収したあと、大型貨物船の需要が増えることを見越して、今まであった1万トン級ドックの
横に、10万トン級のドックを2つ建設するよう指示。
会社が乗っ取られたと不満を持っている重役達と、あまりにも急な会社の拡張路線に不信感を覚えていた社内の古参の社員とが結託して猛反発が起こり、一時は会社が分裂するか?といった危機に瀕したが、
幸一を中心に新経営陣が粘り強く社員全員を説得して纏め上げ、渡辺銀行から多額の融資を受け
建築したドックが完成した翌年に、第一次世界大戦勃発。
ドックができる前は心配をしていた船の注文が、ヨーロッパから大量に舞い込み、ドックがフル稼働状態になり、ドック建設等の設備投資にかかった費用が瞬く間に回収出来たので、一般社員は経営陣の先見の明に感動し、より一層仕事に精を出すことに。
会社の乗っ取り騒動と騒いだ重役のうち何人かは会社を去ったが、残った重役達は社長に詫びを入れ、これまで以上に社長を支え会社に貢献することを誓ってくれた。
最初の企業購入で、金に飽かせての強引な方法を取ったが為に、社員達から反感を絶大に喰らい、
会社経営どころか、一瞬にして破たんさせかけたことに、周知説明のない急な変革は存亡の危機と
思い知った幸一達だった。周辺の根回しという言葉が、この時ほど必要に感じたことが無かった。
この時の騒動を教訓に、銀河社では急ぎ過ぎない。と言う教訓を胸に刻んだ。
第一次世界大戦による造船景気で沸く日本で、鉄鋼などの材料が欠乏することなく、木津川造船が造船出来たのは、造船に必要な鋼材は全て播磨製鋼所から購入する契約をしたからである。
播磨製鋼所は、主に木津川造船への造船用鋼材の供給をベースに生産量を上昇。
まだ弱小で採算が取れず毎年赤字決算をしていた播磨製鋼所にしてみれば、定額で専属販売が出来るお客が出来た、ということは会社の安定経営に繋がり、タダ同然の身売りに近かった銀河社への
譲渡契約で悔し涙を飲んだ経営陣は、元親会社の鈴本商事に対し溜飲を下げるのであった
播磨製鋼所は、企業安定のめどが立つと共に造船、特に電気溶接に適した鋼材の開発に着手し、
将来を見据えて新鋼材の開発にも意欲的に推し進めて行った。
国策の製鋼所の八幡との兼ね合いで、なかなか大型高炉の建設が許可されなかったが、兵庫県の
加古川に建設の許可が下されると、大型高炉を申請通りに建設すると共に、付帯設備として申請していた
大出力火力発電所と大型電気炉もついでに建設してしまった。
完成してこれからの設備が御披露目式典で公開されると、国および日本中の鉄鋼関係各位が度肝を抜かれた。
なぜならば、鉄鉱石から粗鋼だけでなく鋼鉄まで一貫生産できる製鋼所の生産量では、八幡製鋼所など足元に及ばない東洋一の生産量を誇る製鋼所と成っていたのである。
それだけではなく、工場敷地内に作られた大出力火力発電所のおかげで、電気を電力会社から購入することなく大型電気炉を常時安定稼働出来ることにより、アルミニウム等の非鉄金属の生産も安定して大量生産に対応した工場としてもスタートした播磨製鋼所加古川工場だったからである。
大量に製鋼を生産する播磨製鋼所が、燃料として筑豊炭鉱からの石炭をコークスに加工して利用した。石炭から蒸し焼きにしてコークスに加工する際に出る可燃ガスの一部を、大阪ガスや神戸ガスなどのガス会社に都市ガス用に販売。残った分は敷地内の火力発電所の燃料として利用した。
当時の日本は鉄鉱石やボーキサイトの輸入先は、主にアメリカや中国からの輸入だったのに対して、
播磨製鋼所は、安定して輸入が見込めるか未知数の相手国だが、あえてオーストラリアを鉱物の輸入先に決めた。
此れが出来たのは、なにわ汽船株式会社と業務協定を結んだ義兼商店のおかげだった。
もともとなにわ汽船は、主に大阪と瀬戸内の島々を巡り九州門司を結ぶ、持ち船は旧式の2000トンの低速小型貨客船3隻しか持ち船のない小規模の会社だったが、
大型化する船舶の時代の波に乗り遅れ、主な取引先から見放されて経営が悪化、倒産直前に株主が変わり銀行からの巨額の融資を受け船舶の大型化、海外航路開発に着手した経緯がある。
もちろん新しい株主というのは、銀河社である。
一方で、債権者からの負債返済の計画として、小型船ながら九州から神戸間の航路を持っていたなにわ汽船が、筑豊炭鉱から播磨製鋼所に石炭を運ぶ貨物船として手持ちの貨客船3隻を利用し、会社に定額収入を得る航路として確立させた。
しかし、当初の目的の海外航路はなかなかスムーズに事が運ばず、アメリカへの太平洋航路は大手の日本郵船、大阪商船が押さえており、政府も航路の許可をする気もなかった。
ヨーロッパ航路も同様だった。
要するに儲かる航路には新参者を排除する動きがあり、政商とも言われる財閥が絡んでいたからである。
そこでなにわ汽船は、まださほど開発されてない南洋航路に目を付け、インドネシアを経由してオーストラリアまでの新航路開発に着手したのである。
その時に手を結んだのが、義兼商店だった。
当時義兼商店は、すでにオーストラリアのシドニーに海外拠点を持っており、オーストラリアの羊毛の
輸出を行っていたが、銀河社がオーストラリアで産出される鉱物の輸出を持ちかけ、それらを運ぶ
船としてなにわ汽船の船舶が投入されたのであった。
しかし当時のなにわ汽船は、太平洋のような外洋を航海できる船舶を持っておらず、ましてや海外航路のような外洋航海の経験者もおらず、ゆっくり船員を育ててから航路開発をしようとしていたが、
急に日本政府から南洋航路の充実を図れとの命令に近い指示と契約で、予定より前倒しで運営をしなければならない事態になった。
急遽オーストラリアと日本を結ぶ貨物船を、木津川造船が購入のキャンセルされ余っていた1万トンクラスで速度も10ノット弱の低速な貨物船2隻をなにわ汽船に購入させ、海軍を退役した軍人上がりの乗組員で何とか営業を開始にこぎつけ、契約違反を免れた。
戦争景気が終焉を迎えるころには、自社で鍛えた乗組員と5万トンクラスの新型の国産ディーゼルエンジンを使用した、
速度17ノットを超える高速貨客船を、大阪~シドニー間に4隻就航させていた。
ディーゼルエンジンのおかげで、従来の蒸気ボイラーと同じ大きさの船でも貨物の運搬量が増え、
高速化により欧米の貨物船との競合になり得て、徐々になにわ汽船の国際的な位置を押し上げて行った。
この国産船舶用ディーゼルエンジンは、ドイツからライセンスを購入した岡山発動機株式会社が製作を請け負った。
銀河社が岡山発動機に技術指南と資金を協力し、工作機械もドイツから最新の機材を輸入し、ドイツから技術者も連れて来る力の入れよう。
しかし出来たエンジンは、高純度の混じりけのない重油を必要とした。
そこで、船用の燃料油を販売しており、なにわ汽船も馴染みの九州にあった石油問屋の國光商店に話を持っていき、高純度の重油の入手をお願いした。
國光商店の社長は、会社が飛躍する好機ととらえ、当初は船舶用の高品質重油の輸入先の開発に
乗り出したが、重油を国外の石油会社から買うより、原油を買って日本で精油した重油を売った方が
儲かり、ひいては我国日本の発展になると、資金を集め大分に大型の製油所を建設し、原油から重油を
精製した後、硫黄分の分離させたA重油の生産に着手。
原油の製油の過程で軽油、ガソリンなども生産を始めた。
原油精製の副産物である硫黄などは、火薬の原料等として販売した。
國光商店は当初、原油の輸入先をアメリカにしていたが、アメリカの油田会社との関係が急激に
悪化し、アメリカからは國光商店を通しては原油を売ってもらえなくなった。
理由は定かではないが、國光商店の社長と油田会社重役との確執と言われている。
輸入先がなくなった國光商店の社長が、
「アメリカから買えないなら他から買うか、自前の油田が有れば問題がない!」
と言ってインドネシアに支店を開設し、オランダの石油会社から購入していたが、インドネシアの
無人島で油田開発を行い、運良くすぐに良質な油田を発見し、自社油田からの原油を日本に向けて
輸出を始めた。
(この時油田開発した部署は後に、中東に進出し油田開発に従事する開発会社の基礎を創ったのである。)
この原油を運ぶ油槽船の運行もなにわ汽船が担当し、木津川造船所に5万トンクラスの高速油槽船を
5隻発注し、船を授領次第インドネシア~大分間に就航させ、原油をピストン輸送し日本本土へ貴重な
石油を運んだのである。
木津川造船は、短期間に大量の造船を行っている。
それには、従来方法の造船ではなく、電気溶接を多用した造船技術に移行したためである。
木津川造船は新大型ドックが出来るまでの2年余りの時間を、当時の最新の技術、電気溶接を
選抜した社員達に完全習得を命じ、大阪商工技術高等学校に通わせた。
この大阪商工技術高等学校、有限会社銀河社を中心に、買収した企業から資金を出させて創立した
表向きは私学の高等技術訓練学校だった。
実態は世界中から技術者を呼び集めて、日本の技術者の育成をはじめ、最新の学問、技術を研究開発を行う民間の技術開発専門機関として設立。
潤沢な研究費を出す代わりにその学問、技術を学生に伝授させるという雇用条件で教員として雇っていた。
学校の講師は、外国人講師を集めてだけではなく、最新の研究をしていたが周りに理解されず研究資金難になっていた、地方大学の研究者や教授を集めて同条件での雇用して、地方で埋もれていた才能の開花に貢献してもいた
日本国外から優秀な技術者、研究者が入学して来た学生に直接教えるため、最新の技術の習得が出来ると、関西の各企業から研修の場として派遣されて来る社員や、これからの日本を背負う高い志のある学生が多く集まってきた。
その技術は主なものだけで、溶接、治金、機械構造学はもちろんのこと、マグネトロンによる電波の開発、真空管の開発、半導体の研究 ビタミンB類の精製等多岐に及んでおり、潤沢な予算もあり研究成果も順調だった。
ただこの学校は、講師は母国語にて講義するスタイルだったため、講習を受ける学生は必然的に多国語を理解せねばならず、教養学科に英語、ドイツ語、イタリア語、フランス語が必修となっていた。
明冶の時代に、男女共学で世界を見据えた国際的視野をもつ優秀な人材養成機関となっていくのであった。
順調そうに見える企業買収や学校運営も、サファイヤを社長とした幸一達率いる有限会社銀河社にとっては、当たり前のことだが初めて尽くしのことばかり。
高校生だった彼等は、会社経営については素人も当然、登記の書類1つにしても最初の内は渡辺銀行のお世話になっていた。
書類の書き方、役所の届け出方法、各所の根回しの方法等々、渡辺銀行の古参社員に教え御乞うていた。
これが出来たのも、成功した企業の裏には、全て渡辺銀行からの資金融資があったからである。
銀行としては、優良な融資先を見つけてきてくれる銀河社を歓迎していた。
書類の書き方やそれらに関するノウハウを提供しても、まったく損のない取引だったからである。
企業買収は銀河社の手持ち資本で行い、買収した会社の事業拡大における資本は、渡辺銀行からの融資で行うことが取り決めされていたからである。
企業買収という博打には金を出さないが、企業拡大の融資には資金提供することにより、渡辺銀行は融資リスクを最小限に抑えることができたのである。担保としての株券の価値が上がれば、さらに融資枠を広げ、融資を受ける企業側も資金の調達に困ることが無かった。
しかも、貸付金が焦げ付いたとしても、全額銀河社が保証するという契約だった。
銀河社自体は、さよりが地球外より持ち込んだ大量の金銀財宝があり、それらを元手にして企業買収を行っているので、銀河社も負債なしの優良企業なのである。
それに渡辺銀行には、急な大口の契約にも即時対応できる大量の現金が金庫にはあった。
その事は渡辺銀行のトップの一部しか知らない秘密であるが、通称『金のなる木』と言われていた。
それは本社の地下にあった。そのため渡辺銀行は銀河社からの頼みを基本的には断る事ができないでいた。
その金の成る木とは、さより率いる当初社員総勢4人の、渡辺投機投資会社の事だった。
元を正せば渡辺銀行にあった1部署だったのを、倒産寸前の渡辺銀行を立て直しの資金援助とともに、借金の条件に銀河社が独立させて起業した小さな会社だが、株、先物に投機して次々に成功を収めているのであった。
渡辺投機投資会社は、その投機投資に必要な資金をすべて渡辺銀行から高利で借りて、株や先物取引に投資して価値が上がると売却利益にて負債を返済し、また借りて投資すると言った具合に自転車操業のような資金運営をしていた。
この貸付金利が最低金利年70%というどこぞの闇金も驚く高利の為、渡辺銀行は渡辺投機投資会社に貸付すればするほど利息が大きくなって儲かる仕組みになっていた。
返済不履行にならず、期日迄に必ず返済する渡辺投機投資会社は、渡辺銀行にとって金の成る木と言って差し障りはなかった。
当時、他の銀行からはこの仕組みが解らず、倒産危機に陥った渡辺銀行が、現金準備高が異常なほど高く、業績も一定水準で上昇して、他行からはいかにして稼ぎ出している解らなかったので、「渡辺銀行は錬金術を使う」と呼ばれていた。
サファイアの経済に関する勉強は、理論は21世紀の書物から学び、実地体験でのトライアンドエラーにより経験値を高め、商人との駆け引きで商才に磨きがかかり、王女としてのカリスマ性と学んでいた帝王学と結び付き、向かうところ敵無しの状態に成りつつあった。
月日は流れ、その中で幸一達は自分達の身体の異常性に気付くことに。




