4.残された時間と。
そうして一ヶ月が過ぎた。
相変わらず病院の食事は質素だったし、夜更かしも禁止だった。けれど、なぜかいつも俺の傍には可奈がいた。おかしな話だ。俺と可奈は赤の他人だってのに。
でも、いつからかそれが当たり前になっていた。
別段それを不思議に思ったことはなかった。可奈だって同じだろう。ただそれが当たり前になった、たったそれだけの事なんだろう。
いつまでもこんな日々が続けばいいと思っていた。
毎日が幸せだった。
でも――そんな日々が続くはずが無かったのだ。
最初から。
φ
カレンダーを見ると、もう十月はとっくに過ぎ去っており、段々と年の瀬が近づいてきていることが実感できる。十一月。まだ初めの週とは言え、秋の気配はその身を潜め始めていた。
「はぁ……暇だな――」
呟く。視界に映るのは、相変わらずただ白いだけの病室の天井。それと壁、ドア。テレビでも見ていればいいのだが、生憎俺には、千円もするテレビカードを買うほどの余裕はない。――別に貧乏って訳じゃないぞ。ただ小遣いがちょっと減らされているだけなのである。
いつもならいるはずの可奈も、夜までいない。別のもっと大きい病院へ、検査の為に出かけていったのだ。えへへ明日は検査なのですよー、と可奈はなぜか誇らしげに言っていたっけ。全く、相変わらずよく分からない奴だ。
「……」
――分からない、けれど。
いつの間にか、そんな可奈と一緒にいることを無性に楽しく感じている俺がいた。何だろう、ただ楽しいとは少し違う、嬉しいに近い楽しさがある。俺にだって女友達はいるさ。しかしそれとも違う気がする。考えれば考えるほど、底なしの泥沼に嵌ってしまう。
「……はぁ」
本当に――よく分からない。
でも、きっとそれでいいのだ。
無理に理解する必要はない。今が楽しい、ただそれだけが佐藤洋介の全てなのだから。
コンコン。
唐突に響くノックの音。そういえば、すでに回診の時間帯になっている。あまりにも暇すぎて時間に気が回らなかったみたいだ。
俺は身体を起こしながら、はいと答えた。
「佐藤さん、失礼しますね」
そんな声が、ドアの向こう側から聞こえてきた。何か変な感じだ。佐藤さん、って苗字で呼ばれることだけは、何度やっても慣れる事がない。
俺の病室に入ってきた看護婦さんは、今まで見たことがない人だった。もしかして新しく来た人なのだろうか。年齢は三十歳を少し過ぎた辺り。可奈より高いが、俺よりも低い上背。顔つきは別段普通で、これといって特徴もなければ欠点もない。一般的に看護婦と聞いて、思い浮かべるイメージそのままの人だった。
「はい、じゃあ体温測ってくださいね」
てきぱきと、慣れた様子で俺に指導してくる。毎日の日課となったこの行為を、俺はただ黙って行う。
「……」
脇の下に体温計を挟むと、必然的に動きが制限される。ふと、何気なく看護婦さんを見やると、どうやら部屋の片づけをしてくれているようだ。俺はそのまま黙って天井を見上げながら時が過ぎるのを待つ。
――ほんの少しだけ、可奈の顔が頭に浮かんだ。
もう検査は終わったのだろうか。ぼんやりと考える。終わったとしたら、何をしているんだろう。大きい病院に行くと言っていたが、それはどこだろう。検査って何? どんな病状なんだよ?
なあ、可奈――。
ぼんやりと考えていはずが、今では疑問が止めどなく沸いてくる。止めようとすることさえ無駄、止めることをやめてしまう。
そして気づく。
俺は、可奈の事を何も知らないという事に――。
改めて考えてみればそうなのだ。年齢も、病状も、病室の番号さえ分からない。考えつく限り殆ど全てのことを俺は知らないのだ。話をするときでさえ、可奈は自ら俺の病室へやってくる。自分の病室に戻るときも、じゃあねと言って、まるで蜉蝣のように消えていく。
別にそんな事を知らなくても、俺には全く関係ない。俺と可奈は赤の他人なのだ。たまたま入院している病院が一緒で、気が合う友達。それ以上の関係の存在は皆無だ。
なのに、なぜ。
こんなにも可奈の事を知りたいと思ってしまうのだろう――?
と、
「……佐藤さんって、坂下さんと仲いいですよね」
そんな声と共に、看護婦さんが俺の顔を覗き込んできた。どうやら部屋の整頓が終わったようだ。しかし坂下さんとは誰の事なのか、俺には皆目検討がつかない。あれほどにも迷走していた思考が止まる。
「あの、坂下さんって、誰っすか?」
「んー? ほら、坂下可奈ちゃん。佐藤さんの病室によく来てるって聞いたものだから」
もしかして違かった? と、看護婦さんは困った笑みを浮かべた。
そうか、坂下って言うのか。
「あ、そうです。最近仲いいですけれど……どうかしました?」
「やっぱり。私ね、坂下さんの担当もしてるんだけど、佐藤さんの話をよく聞くのよ」
うふふ、と、何だかニヤけた笑いを浮かべている。
むう、俺の顔もニヤけているかもしれない。
まあ、全然悪い気はしないから、いいんだけれどさ。
「そうっすか」
一分くらいその状態が続いた後、何だか空気が変わっている事に気がついた。あれ、なんだこの空気は。まるで空気中に鉛を混ぜたかのよう。重い。息をするのがなぜか苦しい。看護婦さんの顔はニヤけているのに、あれが作り笑いだと直感する。
「だからね」
ニヤけた笑いを急に消し、真剣な顔で看護婦さんは言葉を紡ごうとする。
やめてくれ。何だか嫌な予感がする。
続くと思っていた足元の道が、目の前で崩れ去っていくような予感。
聞きたくないのに。
俺は、ついぞ言葉を止めることができなかった。
「時間がもうないから、思い出を作ってあげてね――」