3.公園
言っておくが、俺は入院患者である。病状が軽かろうが重かろうが、病院を抜け出すことは禁じられているはずだ。
「洋介さん洋介さん、赤とんぼ飛んでますよー」
無論、その抜け出し禁止の規則は、同じく入院患者である可奈も守らなければいけないものだ。それに――俺よりも症状は重いはずだし。
「もうすっかり秋ですねぇ……。私、秋が一番好きなんですよ」
にへへと子猫のように笑う可奈。いつの間にか、そのほっそりとした指先には赤とんぼが羽を休めていた。心なしか赤とんぼも嬉しそうに見える。
ああ、秋だな。
可奈の言う通り、すっかり秋だ。
でもさ、俺達は一応入院患者だぜ?
「なあ、可奈」
「はい? 何ですか洋介さん」
「――病院って抜け出していいものなのか?」
「……洋介さん、とんぼがあっちにもこっちにもいますよ! もう規則なんて話はしていられません! 一緒にあれを捕まえましょう!」
とてとてと可奈は走り出した。生憎可奈は体力がないので、その速度は歩くのと何ら変わりない。
俺は可奈の背後に忍び寄り、おい、と声を掛ける。
「はひゃっ!」
「……ちょっと待て」
「うぅ、洋介さんは意地悪です……」
振り向いた可奈の、黒曜石のような双眸には、薄っすらと涙が浮かんでいる。だが俺はお構いなしに可奈を促し、そのままベンチに座らせた。
――言うまでもないが、俺達は今、公園にいる。
あの後、俺達は病院を抜け出した。これが意外なのだが、あっさりと抜け出す事ができた。まず下準備として、病室のベッドに丸めた毛布を横たわらせ、回診の時間帯のチェックをする。その結果、ぎりぎりでバレない時間帯――午後三時から午後五時――があることが分かった。あとは着替えて裏口から出るだけである。
――何ともまぁ、すばらしいと言うかなんと言うか。
「……ったく。わざわざ公園まで抜け出さなくてもいいだろうが」
「いいじゃないですかぁ。どうせ近いんですし」
確かに病院から公園まで、歩いて十分もかからない。
しかし、本当にいいのだろうか?
……止めた。考えるのはよそう。いくら考えたって、こうして抜け出してしまってるのだし。それよりも楽しんだ方が得策だろう。
「ん、またそれを捕まえてたのかよ、可奈」
視線を横にずらすと、可奈の手にはとんぼが一匹、ぱたぱたと羽ばたいていた。反対側の手には他にも何匹か――って、もはや何匹ってレベルじゃないな。小さな手で十何匹ものとんぼを押さえているのは、男の目から見ても少しグロい。
そんなことはお構いなしにと、可奈は満足そうな顔でもう一匹。
「これが私の特技なんですよー。とんぼが好きなものでして」
言っている間に、もう一匹。流石に持ちきれなくなったのか、可奈は手を広げて一斉にそれを空へと放つ。それはまるで、紅に染まった枝葉が繚乱と舞うかのように鮮やかだった。おそらく力加減をしていたのだろう、飛び立てないものは一匹もいなかった。
「とんぼが好き?」
俺が鸚鵡返しに聞くと、はい、と可奈は頷いた。
「昔、お父さんが私をこの公園に連れて来てくれたんです」
可奈が一旦言葉を切った。
胡乱気な眼差しで、どこかを見つめている。
俺は戸惑いながらも続きを促した。
「何でだよ?」
すると、可奈は男っぽい声で応えた。
「可奈、ほら、とんぼが見えるだろう? どっちが多く捕まえるか、お父さんと競争しよう。え? 勝ったらお菓子が欲しいだって? いいぞ。よし、スタートだ」
照れくさそうに笑いながら、競争だ、と繰り返した。
そして可奈は、懐かしそうに言った。
「最初は簡単だなって思ったんです。でも、どうやっても逃げられてしまう。必死で、どんなに頑張っても手が届かない。で、その時思ったんですよ。私は一生、とんぼを捕まえる事ができないんだって。何だか悲しくなって、泣き出してしまったんです」
バカみたいですよね、と言葉を紡ぐ。
「結局、一匹も捕まえれないままお父さんの所へ行くと、何か人差し指を上に向けて、ぼーっと立っているんですよ。お父さんどうしたのって聞くと、にっこり笑って言うんです。ほら、見てなさい。お父さんの指は魔法の指だから、って」
どこか、物悲しそうに見えるのは俺の見まちがいなのだろうか。
「私、本当にすごいって思いました。まるで吸い付くように一匹、とんぼがお父さんの指に止まったんです。……魔法でも何でもなかったんですけれどね」
子供でしたから、と照れくさそうに可奈は付け足す。
なんだかひどく――胸が苦しくなった。
「そっか。じゃあ、もう一回そのお父さんと競争してみたらどうだよ?」
「え?」
「だって、可奈も捕まえるの相当うまいだろ。果たしてどっちが多く捕まえられるのか、俺としては興味があるわけ」
「……無理ですよ。私じゃあもう、勝てません」
すう、と眼前を、一匹の赤とんぼが過ぎる。どこまでもどこまでも、紅蓮に染まる空へと昇って行く。たった一匹で行くのだろうか。寂しくはないのだろうか。
「やってみなきゃ分かんないだろ。絶対いい勝負すると思うけど」
「そう、ですか?」
「保障するって。病気が治ってからやったら、絶対に勝てる」
「――」
可奈が息を呑んだような気がした。俺が訝しげに表情を窺うと、そんな様子は微塵もなかった。ただ華やぐような笑みを浮かべている。
「……そうですね。じゃあ、早く治すためにもそろそろ戻りましょうか」
よいしょ、と、可愛らしい声を出して可奈が立ち上がる。同時に、その腰まである艶やかな髪が花弁のように広がった。
「そうだな」
ポケットから携帯電話を取り出し、時刻を見る。午後四時二十分。ああ、ちょっと長居しすぎたかもな。まあ今から病院へ戻れば何の問題もないだろう。
俺は立ち上がり、ふと空を仰ぎ見る。
蒼穹と真紅が混同する全天。まるで泳ぐように空を飛ぶ赤とんぼ。その光景を一瞬だけ見つめた後、先に歩いていった可奈を追いかけた。
願わくば、可奈の病気が早く治りますようにと祈りながら――。