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曼珠沙華の花寺へ

作者: 山田摩耶

 夏の始まりに、少年が一人死んだ。

 病死だった。二年ほどの患いで、力尽きたように亡くなった。

 葬儀には中学の同級生が大勢来ていた。田舎の、山と海にはさまれた狭い街のことなので、クラスメイトでもなくとも、彼のことを全く知らないという参列者はいなかった。

浅木(あさぎ)さん、やっぱり来ないんだ」

 ひそめた声で少女たちが囁くのが、耳に入った。

 好奇心の中に、非難がましい響きをかすかに織りまぜながら――しかし、他人事らしい無責任な様子を漂わせつつ、

「幼稚園の頃からの、幼馴染なのに。彼女が海外に越してからも、仲良かったのにね」

「私、ちょっと吉岡君のこと好きだったな。足早かったし、格好良かったじゃん? 女子にも優しかったし」

「だよね。でも浅木さんが、なんだかんだで、ずっと彼とつき合ってたみたいだし」

「それなのに……お葬式、来ないんだ」

 少女たちはすこし言葉をとぎらせたが、

「コンクールも終わったらしいのに、どうしてだろうね」

 あまり好意的でない沈黙で、会話をしめくくった。

 雲が切れたらしく、陽射しが輝いた。俺は襟を少しゆるめて、彼女たちを背後に、きらきら光る海にむかって石段を下りはじめた。

 これが、今から二か月前の話だ。

 九月も終わろうとするこの頃では、学校で、とある噂が流行っていた。

 地元唯一の檀那寺に、幽霊が出るという。

 ここの中学の制服を着た少年が、寺界隈をふっと散歩しているらしい。

 学校は子供の領域だ。不謹慎という遠慮などなく、怪談またたく間に広まった。 

 しかしこの噂話には、俺もへきえきとしてしまった。先々月の葬儀を宰領したそのお寺は、今、曼珠沙華がうつくしい。そして困ったことに、俺の家なのである。


 寺は山の斜面に設けられている。

地域唯一の菩提寺といってよく、歴史は古い。石畳が敷き詰められた長い参道を上りきると、大きな山門がある。それをくぐると、曼珠沙華が――天に向かって花弁をひらく、奇妙な造形の赤い花が、そこかしこに群れている。寺の名物だ。 

「住職~、ただいまあ」

 学校から戻ると、作務衣に軍手という出で立ちで、体格の良いお坊様が土いじり、もとい、植木の手入れをしていた。しゃがんだまま振り返り、おう、と目顔でうなずいた。

 最近、四十代に突入したばかりの住職は、坊主にあるまじきほど精悍で、ひきしまった面つきだ。しかし人柄は温厚で、勤勉一途の住職様として、地元民の信頼をあつめている。

 住職は土まみれの軍手をぽいぽいと生垣にほうりこむと、メガネをはずし、きびきびと汗をぬぐった。

「ゆう君、学生さんがお参りに来てるんだが」

「へえ、信徒さん?」

「どうだったかな。まあ、まだいるかどうか、見てきてくれんか」

 遺伝のなせるわざで、住職と似てくっきりとした眉を、俺は不服気にもち上げた。幽霊話のおかげで、最近、意味もなく訪ねてくる生徒が多いのだ。

 ちなみに俺の名前は、坂本(さかもと)(ゆう)()という。

「しばらく、学生は出入り禁止にしたら?」

「ゆう君と同じ三年生のようだし、吉岡君の友達かもしらんだろ。ちゃんとお花まで持って来てるんだからな」

「ほーお。そりゃ殊勝な」

 野次馬が花まで用意しているのはめずらしい。それに、と住職は生真面目な口ぶりで、

「吉岡君もなにか存念あって、本当に散歩しているのかもしれんしな」

「お坊様がそんなこと言っていいのかね」

 俺はあきれたが、住職はなむなむ言いながら、草むしりを再開してしまった。

 住職とわかれると、俺はぶらぶらと、墓地に通ずる山道をたどった。

 墓地のスペースは広く、寺とはべつに、いくつか斜面が切りひらかれている。住職以外に世話する者もいない苔むした墓石が、午後の陽射しをうけて濃い影をつくっていた。

 いちばん新しい敷地がもっとも高台にあり、眺望は圧巻だ。左手に大きく海を臨み、傾斜に連なる墓石は真新しい清澄さをたもちつつ、潮風を静かに吸い込んでいる。

 そして、そのすべてを取り囲むように曼珠沙華が咲き乱れているのだった。狐の棲家の様にさわさわと群生し、赤い花冠をひっそりと揺らめかせている。

 今、その景色の中に、魂を吸われたように立ち尽くしている少女がいた。

 足元には、墓に手向けられた華奢な花束が、微かにセロファンの音を立てている。

 彼女の指には、手折られた一輪の曼珠沙華が、ゆるく握られていた。

「――持ち帰らない方がいいよ。その花は」

 はっと、少女がふりかえった。咎められたとおもったらしく、無意識のように、胸の前で花を抱きしめている。

 しっかりと合された視線にすこし戸惑いながら、俺は目線で、曼珠沙華の群れを示した。

「ああして群れで生えてると、炎のように見えるだろ? 持って帰ると家が火事になるんだってさ」

「そうなんですか。……」 

 知りませんでした、とつぶやいて、彼女はおっとりと微笑んだ。笑うと、柔らかくおおきな瞳が、霞がかったように潤って見えた。

 勝手に花を折ってしまって、と謝る姿も感じがいい。俺は何となく気を良くして、

「それで、お目当てのひとには会えた?」

 首をかしげる彼女の隣にならんだ。 

「学校で流行ってるだろ? ゆうれいの噂。会ってみたいやつが多いらしくてさ」

 あんたも迷惑だろうなと、心のうちで墓石に語りかけた。墓はひときわ新しく、すっくりと清らかだ。この潔い佇まいをみれば、中傷に近いような噂話など、そのうち消え果てしまうだろう。

 それでも、あほうな暇人がよくうろうろしてるよと、俺が笑い話にする前に、彼女が大きく瞬きをした。

 会えるんですか? と彼女はいった。

「――はァ?」

 吉岡君に、といった彼女は、真面目な面持ちだった。怪訝にふりかえった俺に、礼儀正しいようすで、かさねて訊いた。

「吉岡君に、会った人がいるんでしょうか?」

 俺はだまって、彼女を見返した。さわり、と曼珠沙華の群れがざわめいた。

慄えるような風の気配に、俺は突然、彼女が何かを需めて来た人なのだということに、気がついたのだった。

 前髪をぽりぽりとかきながら、今度は俺がたずねる番となった。

 そうではないかという名を想いつつ、――貴女の、お名前は?

 浅木(あさぎ)()()は、右手を差し出しつつ、にこやかに答えた。

「浅木です。浅木由布といいます」

「これは、仏縁があったかもね」 

 え? と訊きかえす顔に、

「あだ名がきっと、俺と一緒だ」 

 握った手を離しながら、俺がくすっと眼で笑ってみせると、やがて彼女の白い頬が、あかるい微笑を湛え始めた。

 夏に死んだ少年は、頭が良かった。顔もわるくない。子供の頃から習っていた剣道もつよかった。適度に自意識が抜けた、飾り気のない性格だったらしく、男子女子問わず人気があった(それだけに噂が広まったともいえる)。ただ、彼の友人でもなかった俺はそれ以上の知識も関心もなく、その死後の噂についても、多少の迷惑を覚えただけだった。

 俺の興味が初めて惹かれたのは、この時だ。

 曼珠沙華を手に、どうやらほんとうに幽霊に会いに来た人と、友達になった。


 浜辺につづく石段の中頃に、俺たちは腰かけている。

 夜空には満月がかがやいている。暗い海に時折、さざ波がきらめいた。

「――そろそろ行こうか」 

 丑三つ時まであと十五分だった。彼女はかすかに頷き、立ち上がった俺の後を半歩遅れて、石段をのぼりはじめた。

 七時間前にも、俺たちはこの階段に座っていた。夕暮れに染まる海を眺めながら、相談をしていたのだ。

「……吉岡君は、夜に現れるってききました」

 表情こそ落ち着いているが、突拍子もない事をいっているという自覚はあったらしい。それだけに、力強い、固い意志を窺わせる声だった。

「実際、俺は視える性質だけどね」

 こう教えてしまった時から、ついつい、肩入れする羽目になってしまった。俺は肩をすくめつつ、

「万一幽霊が出たとしても、吉岡君に限らないぜ。墓地にお化けは、むかしからよくある話だろ」

 しかし、彼女の横顔には、どうしてもという決意が滲み出ていた。

「私、もうすぐ転校するんです」

 俺は素直におどろいて、彼女の話に耳をかたむけた。

「また海外にもどるんです。あちらの音楽院に進学する予定です。日本には、きっと、大人になるまで帰らない」

「だから。……」

 ひざを抱えて、彼女はちょっと言葉をとぎらせた。足元においた鞄の隙間から、曼珠沙華の赤い花冠がのぞいている。

 俺はひざに頬杖をつき、ふーむ、と考え込んでしまった。彼女の決意のほどはよく分かったが、よその家のお嬢さんを深夜の墓地に引き込むっていうのは、これは寺の信用問題にかかわってくる。住職に知れたら、もう、間違いなく大目玉だ。

「しかも、どうみても、俺が誑かしたと思われるな」

 弱ったなあと呟くと、彼女はすまなそうに、俺の顔をのぞいた。

「無理を言ってごめんなさい。だいじょうぶです、私、一人で忍びこみますから」

「何言ってんだ、大丈夫じゃないよ!」

 ぎょっとして、次には吹き出してしまった。温和しそうにみえて、なかなか根性がある。

「浅木さん。あんた、ここの生まれだけど、小学校の途中から引っ越して、帰ってきたのは去年だろ? この山は土地勘がないと危ないよ。せめて正規の参道を通らないと」

「わかりました」

 彼女は、情報をありがとう、といわんばかりの正直さで、

「門を乗り越えます」

「こりゃ、しょうがねえな」

 俺は苦笑まじりに片手をあげた。

「その熱意にゃ、神仏も負けるよ」

 よっと、勢いをつけて立ち上がった。日没をむかえつつある水平線が、放射状に輝きを放っていた。あれが完全に沈み、夜の一時を過ぎた三十分後、ここに集合することを俺たちは決めた。

「坂本くん。……」 

 一呼吸措いて、凪いだ海のような、しずかな感謝があった。

「ありがとう……」

「どういたしまして」

 つつましげな面つきで頷いた俺だが、ふと、そうした感謝をききたいために、他人事に労を取っている自分に気づいて、小さく苦笑した。

 そうして今、俺たちは、門を抜けて、墓場への道をたどっている。さし昇った月がすきまなく地上を照らし、懐中電灯も要らなかった。

 黙々と、という程もなく、俺たちは他愛のない会話をした。

「坂本君は、住職のことをお父さんとは呼ばないの?」

 意外な指摘だったが、他人から見れば、たしかに違和感があるかもしれない。いつの頃からか、ただ住職と呼ぶようになっていた。

「なのに、やっぱり家族だってわかるのか。そんなに似てるかなあ」

「なんとなく、面影があるよ。横顔とか、ああ、似てるなとおもったもの」

「あんなにいかつい顔ですかね」

 俺はぶつぶつ言った。せっかくのご感想だが、不服だ。

「こう見えても、母親似なんだけどな。そう思わない?」

「お母さんには、お会いした事ないから」

 分からないよと、ななめ後ろで、彼女が小さく吹きだした。

 次の瞬間、軽く足を踏み外す気配があった。

「浅木さん――」 

 彼女は少し乱れた髪を背にながし、照れ臭そうに眉を下げた。

「だいじょうぶ。ちょっと滑っただけ」

「気をつけて」

 石畳の左手はそのまま、傾斜の深い山林につながっている。ホッと胸をなでおろした俺は、心配のあまり、眉間をよせて彼女をみた。

「前後して歩くしかないし、俺は咄嗟に庇えないよ。気をつけて」

「うん――」

 ありがとう、と微笑んだ彼女の内側で、そのとき不意に、均衡がくずれたようだった。 

 彼女は息をおおきく吸いこみ、しばらく呼吸をととのえてから、顔を上げた。

「……」

 かすかに慄えた唇許。月光をいっぱいに享けた眼差しが、きらきらと光っていた。

 あふれ落ちそうな視線を受けとめながら、俺はしずかに口を開いた。彼女が需めるものに対して、応える時機が来たのだろう。

「……聞いてもいい?」

 うつむいて、彼女は突然にこみあげた感情を堪えているようだった。

「吉岡君と、きみのこと」

 よかったら、きかせてほしい。

 ふたたび背をむけ、俺は石段をゆっくりと上り始めた。うん、と頷く声が、つづく足音の合間にたしかに聞えた。 

 やがて、話がはじまった。


 浅木由布は、去年の春に転入してきた。

 小学校の低学年まで、この地元で育ったわりに、彼女は周囲になじめなかった。

 愛想こそ悪くなかったが、強いて周りに溶け込みたいという意思も、努力も見せなかったためだ。

「どうしても、元気が出なくって……学校でも、ほとんどぼんやりしてたから」

 彼女は音楽院への入学を目指していた。そして、それを控えて出場するコンクールのため、チェロのレッスンは加速度的に忙しかった。

「教室でひとりでいるのは、淋しかったけど……」

 しかしそれどころではない、というのが本音でもあった。クラス内の孤立や、他の生徒の思惑など目にも入らないほど、心奪われていた事実のために、彼女は帰って来たのだ。

「親に無理を言ったの。私は、どうしても、彼に会わなきゃいけないとおもった。……」 

 そうつぶやききった瞬間、彼女のかさついた心に、かすかな温もりが射した。

 由布と吉岡(よしおか)(しょう)()は、いわゆる幼馴染だ。

 家が隣で同い年という、幼い頃は一番のあそび相手で、互いの家にかけこんではおやつを食べ、一緒に外であそぶ仲だった。

 小学校にあがって、少年同士のつきあいがはじまっても、彼は彼女を最も親しい友人とみなして、何の衒いもなかった。

 彼女はいまでも、自分の声が耳朶によみがえる気がする。

 夏やすみの朝、浮き輪をかかえ、晶太の姿をもとめて、玄関口で声をあげる。

「晶ちゃーん、いますかー?」

 式台にひざをのせて、うす暗い廊下の向こうにさけぶと、

「由布!」

 はずむような瞳をした少年が、活き活きと廊下をかけてくる。サンダルをつっかけざまに彼女の手を取り、あかるい海へ向かって走りだす。

 その頃の記憶は、完璧な幸福につつまれている。屈託のつけいる隙もない、充足しきった日々だった。

 その後に味わったにがみ――。

 馴れない環境、一言も分からない言葉、本格的に始まったレッスン。それらは彼女にはじめてやって来た、人生の手痛い試練だった。

 彼女は、海の香り漂う故郷が恋しかった。

 その思い出を最も多く共有した、たったひとりの人が恋しかった。本人に向かい、もがくようにそれをうったえた。

〈晶ちゃんに会いたいよ。また一緒にあそびたい〉

 電話で声にするのは恥かしく、メールにつづった。会えるよ、と返事にはあった。

〈学校が休暇になったら、会える〉

〈飛行機代、俺の貯金も出してやるから〉

 幼さの中で精いっぱいの、あふれるばかりの好意と、誠意があった。

〈由布を待ってる〉

 それは一年に一度、あるかないかの頻度だったが、彼女はかならず、定期的に日本へ帰った。晶太をたずね、地元をぶらつき、電車に乗って遊びにでかけ、共有する記憶を新たにつくった。

 よく防波堤に腰かけて、ふたりで海を眺めた。晶太は山よりも、海が好きだった。

「由布は大きくなったら、プロになるわけ?」

 十三歳の年、花曇りにくすんだ日のことだった。彼女はかぶりをふった。

「わかんない」 

 そう、つぶやくより他なかった。チェロを弾くこと自体は好きだったが、彼女はチェリストの父親の背を見て育った。父は常に留守がちで、そのことへの不満が進路への反抗となって、彼女の胸にひっかかっていた。

「由布は、家族も連れてったらいいんだよ。いろんな国に行けたら、楽しそうじゃん」

「じゃあ晶ちゃん、私が一緒にいく? っていったら、行きたい?」

「行きたい」

 ふうん、とおもった。晶太が魅力を感じるなら、理不尽なようにおもわれた海外での苦労も、にわかに価値があるように思えた。

 心が勢いづいた由布は、晶太に向かい、小指をさし出した。

「私が大人になって、演奏家になったら、晶ちゃんをどこでも連れてったげる。一緒に行こう」

 晶太はちょっとおどろいたように、彼女の顔をみつめた。それから、意外に真剣な唇許で、竹刀に鍛えられた指を重ねた。

「待ってる。そのときまで」

 ぐっと指を曲げ、その後、笑顔になった。由布もぱっと笑い返した。

 晶太の病が発覚したのは、その直後の事だった。

 一年たっても晶太の病は悪化するばかりで、たまりかねた彼女は、連日、日本へもどりたい希望を両親にうったえた。根負けした両親は、ついに、コンクールへの出場を条件に、一家で日本へ帰国することにした。

 その頃には、晶太は数度の入退院をくりかえし、学校にもほとんど顔を見せなくなっていた。彼女は暇を見つけては、彼の入院する市内の大学病院へ、せっせと通いつづけた。

 そうして一年ほどが過ぎた、初夏のある日のことだ。

無菌室からやっと出てきた彼をまちかねて、彼女はいつになくせっかちに病室にとびこんだ。迎えた彼は、また来たの、と可笑しそうだった。

「晶ちゃん」

 近寄った彼女の、腱鞘炎になりかけて湿布に覆われた左手をみつめながら、晶太は、恐らくコンクールに行けないだろうことを穏やかに詫びた。

 由布は翳のない笑顔をつくり、首をふった。父親によるこのところのレッスンの過酷さは、蒼褪める程のものがあったが、晶太に会えばかならず気力が湧いた。 

 晶ちゃん、と彼女は窺うようにきいた。

「コンクール、演奏が終わったら、すぐに会いに来てもいい?」

 晶太は笑ってうなずいた。しかしその表情情は、もう疲労を滲ませていた。たった二年ほどの闘病に、彼は驚くほど痩せおとろえてしまっていた。その事実をただ目撃しているしかない切なさは、海外へ越した時のそれなど較べものにならなかった。今度こそ、彼女はつらかった。

 この頃は、ふとしたはずみにも涙ぐみそうになるのを、彼女は懸命に堪えていた。

 疲れがつもるのを恐れて、彼女はしかたなく、話もそこそこに腰を上げた。

 後ろ髪をひかれるおもいで、またね、と手を振ると、晶太はまっ白なベッドの中で、かるく手を上げた。背後の窓には、初夏の空が眩いばかりだった。

「――由布」

 ふと呼ばれ、彼女はふりかえった。

「待ってるから、慌てずに来いよ」

 彼女はみるみる元気づき、顔を輝かせた。ドアを閉める間際にも、じゃあね、待っててね、と手を振った。

 それが最後になった。

 容体が急変したと彼女が知ったのは、コンクール当日の朝だった。

「私は、それでも、コンクールに出場したの。引き返すことも出来たけど、そうはしなかった……」

 報らせをきいた時は、正直、まさかという思いの方が強かった。しかし事実で、彼女は膝がぬけるほどに、ぼんやりとしてしまった。待っている、という彼の声音が、しきりに耳にこだました。

 夜に地元に戻り、その足で病院に駆けつけた時には、家族すら面会が謝絶された状態だった。晶太にはもう、ほとんど意識がなかった。

 日を経たず、彼はなくなった。

 葬式の日、彼女はひとり堤防のうえで、膝をかかえていた。眩い海をながめながら、ぎらぎらと輝く夏の陽射しを浴びつづけた。

 後悔しているの、と俺はきいた。

「あのとき、引き返さなかったことを」

「いいえ」

 呟きにも似た、返事があった。

「いいえ。全てなげうって帰りたいと、そう思った瞬間、私は立てなくなった」

 経験したことのないなにかが、彼女を引きとめるように、臓腑をわしづかんだ。手も足も信じられないほどに重みを増し、やがて彼女は力なく、控室のソファにしずみこんだ。

 打ちひしがれた視界のなかで、彼女は初めて、人が演奏をするという事そのものに、思いをはせた。

 技倆をもつ者は、世の中に還元するべきだという欲望と義務を、うまれて初めて感じたのだった。

 彼女はそれに、抗しきれなかった。

 俺は顔を上げ、道の先に目をすがめた。銀色に光り続ける石畳も、あともう少しだ。

「舞台で、指はうごいたの。スポットライトを浴びた瞬間、別人のように動いた。自分でも驚いた」

 しばらくの沈黙の後、彼女はぽつりといった。

「でも今、私は、洞穴みたいになってしまった気がするの」

「身体の中身が全部くりぬけて、すっからかんになった。底が抜けたバケツみたい」

……へんな感じよ。と彼女はそっと微笑った。

 そのとき、視界がひらけた。

 海上に高く浮かんだ満月が、曼珠沙華に埋もれた深夜の墓地を、すみずみまで照らしていた。

 彼女は足を進め、俺の脇をとおりすぎた。やがて、月光にひかりながら沈黙している、晶太の墓前に立った。

「晶ちゃん」

 ふっと、囁きかけた。

「今までなら、あなたがぜんぶ聞いてくれたね」

 私はいま、こんな気分でいるのだと、あなたに話すことができた。

 彼女の表情から、穏やかさが消えた。

 ふいに眉がせまった。くやしげに撓んだ瞳に、熱い涙が湧き出した。

「でもあなたはもう、きっと、私を待つのがいやになって――」

 自分で発した言葉のせつなさに、耐え切れなかった。口を覆った彼女は、そのままくずれ落ちるように、墓石に額づいた。

 どうして、と海老のように体を折り、指を震わせた。

「どうして!」

 もう永遠に会えないのか。

 それを知らせようとつきまとう現実にはたえられなかった。葬式など行けるわけがない。

 しかしこの今にも、つみあげた記憶の分だけ襲い掛かる悲しみに、殺されてしまいそうだ!

 嫌! とさけんだきり、彼女は地面に突っ伏した。真っ暗な頭の中に、由布、とやさしい彼の声がきこえた気がした。

 晶ちゃん、と彼女は全身で泣いた。この辛さを、その名を繰り返し呼ぶことでうったえつづけた。晶ちゃん、晶ちゃんたすけて――。

 たえがたい悲嘆にあえぎながら、彼女は壊れた機械のように、いつまでも震えていた。

 こういった人の姿を、俺は幾度も見てきた。

 これほどの歎きがどうして人の世に必要なのだろうと、その悲しみに出遭うたび、深刻な疑問を感じずにはいられない。

 だが――。

 俺は、ぼろ屑のような彼女の有様を見、なお考える。

 たとえば俺は、これほどの想いをこめて人を恋したことはない。

 その声に焦がれ、その姿に餓えて、何度でもあなたの温もりにふれたいと、願ったことなどない。

 ましてや、それほどの人を見棄てても貫きたい情熱を、自分の中に見出したこともない。

 その悲嘆に見合うだけの幸福を、きみはもっていると――。

 俺が羨んだところで、しかし君には何の慰めにもならないか、と俺が目を伏せたときだった。

 曼珠沙華が音もたてず、夜風に姿をゆらしている。その群れの向こうに、ひとの形が動いたように見えた。

 はっ、と目を凝らしたときには、月明かりが花たちを輝かせているだけだ。

「……」

 俺はかるい驚きをもって、その人影がいた辺りを眺めた。

 曼珠沙華には、おびただしい花言葉がある。

 寺の名物だけに、家の者はいくつかは諳んじることができるが、そのうちのひとつが、ふと頭をかすめた。

 また会える日を、楽しみに、という。

 想うのは、あなたひとりと――。

……噂は、本当だったのかもしれない。と俺はおもった。彼はほんとうに、待っていたのかもしれなかった。

 だがそれを彼女に知らせるのが、彼の本意かどうかまでは分からなかった。

 眼でたずねてみると、曼珠沙華たちはふわりと、おおきく左右に揺れた。

 俺は溜息をついた。急にせつなくなり、しかしその優しさが、やはり羨ましかった。

 彼女の歔欷がやむまで、俺はその側でただ、夜の海をながめていた。

 

「じゃあ、気をつけて」

 夜が明け染めるころ、俺たちはわかれた。

 彼女は涙によごれた顔を、ハンカチでごしごしと拭い、照れ臭そうに手を振った。

「本当に、どうもありがとう」

「今度かならず、お礼にくるから」

 いつかね、と俺は笑った。だがもう二度と、彼女が俺と会うことはないだろう。

 彼女は幽霊に会いに来たのだから。

 気づくと、隣に住職が立っていた。助かったよ、と俺はお礼を言った。門の鍵をあけてくれたのは、実は彼だ。

 ゆう君、と住職はしぶい顔だ。

「兄貴の一生の頼みは、もう聞き飽きたぞ」

「ちゃんと怪我もさせずに帰しただろ。兄貴を信用しなさいって」

 俺は、三十年も前に事故で死ななければ俺が継いでいた筈の、寺の風景を見渡した。その想いが残っているせいか、天涯孤独の弟の為というよりは、人助けの真似事がおもしろく、まだここにとどまっている。

 ぽんぽん、と弟の背を叩く真似をすると、俺は朝焼けに輝く海に向かい、すたすたと石段を下りて行った。


投稿する直前になって、時節のずれを発見し、ずいぶんあわてました。

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