冷麺
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「お昼お先します」
職場の上司に一言そう言ってオフィスを出、街中へと歩き出す。もうそろそろお盆休みだが、会社員のあたしもギリギリまで仕事をしてから、二日間ほど休みをもらい、それが終わればまた通常通り仕事だ。今年もまとまった休みがないまま、仕事に追われることとなる。お昼だから何を食べようかなと迷っているうち、いつの間にかラーメン屋に入ってしまった。ラーメン屋はラーメンしかないわけじゃない。チャーハンや餃子などもある。メニューの一つに冷麺があった。この季節限定だ。あたしも置いてあったメニューを一通り見終わり、お冷を持ってやってきたウエイターに、
「冷麺一つにウーロン茶一杯」
と言った。ウエイターが手元の端末に注文品を打って、オーダーを取り終わり、
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
と言って颯爽と厨房へ入っていった。さすがに夏真っ盛りとあってか、夏バテ気味で疲れる。ゆっくりと店内を見渡すと、多数の人がいた。勤務先の企業のコールセンターでオペレーターの仕事をやっている。顧客相手に声が枯れるまで喋るのだ。さすがに企業でも最前線にいて、しっかりと客の声を聞く。ずっとそれが続いていた。でも仕事である。やるしかない。この店も冷房が利いていた。冷えている。客と話をすることには慣れていた。元々社交的な方なので苦にはならない。ただ、ずっと仕事が続くとさすがに疲れてしまう。合間の休憩時間に同僚たちと話をしていた。いつも言われる。「青柳さんって社交的で羨ましい」と。まあ、確かに多少苦痛があったとしても押し隠しているところもあったのだけれど……。今は食事時なので冷麺が届くのを待ち続ける。十五分ほどで麺の上に野菜やハム、錦糸卵などが綺麗にトッピングされた冷麺が一皿と、氷の浮いた冷たいウーロン茶が一杯持ってこられた。美味しそうだと思い、麺を箸で摘んで啜り始める。食事はちゃんと喉を通った。夏場の暑い時季だとどうしても食欲が減退するのだが、あたしも食事を取れている。ゆっくりと箸を使い、口へと持っていく。今が午後零時二十五分で、正午までに戻ればいい。時間があった。ここからオフィスまで歩いて十分程度だからである。ゆっくりする間があり冷麺を啜りながらウーロン茶で流し込む。そして食事が済むと、持ってきていたガムを噛んだ。さすがに口臭が気に掛かるからだ。あたしもずっと仕事が続く。オペレーターは時間との勝負である。どれだけ客が求める商品やサービスなどに関する情報を流すかで決まるのだ。食事が済んだら折り入って、社に戻るつもりでいた。外に出ると相変わらず熱で蒸し暑いと思えるのだけれど……。
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冷麺を食べた後は確かに口の中が臭う。トイレに行き、噛んでいたガムを吐き出して、歯ブラシを使い口の中を綺麗にしてからフロアへと舞い戻る。そしてまた集団の中へ入っていく。社交は下手じゃなかったのだが、どうしても狭苦しいところにいると窮屈な感じがする。気にならないことはない。他人の目というものがあるからだ。特にこういった企業のコールセンターは苦情処理などが大変である。電話が鳴るたびに誰かが応対するのだが疲れてしまう。もちろん目の前にデスクトップ型かノート型のパソコンが一台置いてあり、検索エンジンをフルに使う。これが社内の情報ルームと繋がっている検索窓なので、自由に利用できるのだ。あたしも顧客の声を聞き、キーを叩き続けながらいろんなことを調べて伝える。電話一本で高額の商品が売れていくことも十分視野に入っているので……。こういった場所は一見安全なようで、実はとても怖い。普段あまり気にしていないのだが、客で暴力団関係者などがいるからだ。恐ろしい。下手に欠陥商品などを売り付ければ、謝って済むことじゃないからである。それにあたしもなるだけ気を付けていた。こういった職場は入れ替わりが早いからだ。都内にある二流ぐらいの私立大学の法学部を卒業してから、もう五年ここにいるのだが、確かにここ数年でだいぶ人間が入れ替わった。昔いた同僚社員も結婚や出産などでだいぶ辞めていっている。あたしも結婚願望がないわけじゃなかったのだが、今のところ肝心の相手がいないのだし、貯金もないので当分結婚などは出来そうになかった。ずっと仕事を続けているのだし、何かとシングルの方がいいのだ。確かに女性の花形職業であるコールセンターも隣接されたオフィスには男性社員が多数いて、常に監視されている。出会いがないと言えばウソになるのだけれど……。
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休憩時間になると席を立ち、休憩室へ歩き出す。あたしも生身の人間だ。どうしても疲労してしまう。だけど交代で休んでいて、休憩室でコーヒーを飲めればそれに越したことはない。コーヒーメーカーにコーヒーがセットされていて、ホットコーヒーは常に飲み放題である。年中ホットなのだが、体はフロアの冷房で冷えてしまう。だから熱めがちょうどよかった。ずっと仕事が続くのだが、これから先も昼の食事の時間が楽しみになる。しかも今日食べた冷麺はしばらく嵌まりそうだと思っていて……。もちろん社員でもランチ代の節約にお弁当などを作って持ってきている人間も多数いるのだが、あたしの場合、朝だるくてきついので早起きして作ってくるわけにはいかない。せいぜい朝出来るのは、起き出してコーヒーを淹れるためにお湯を沸かすことと、メイクしてスーツに着替え、カバンなどを持ち、出勤準備をすることぐらいである。別に早く起きることはない。自転車で通勤していて片道十五分だ。朝食を食べずに淹れたコーヒーを一杯飲んでから行く。ゆっくりと出社する。自宅マンションを出るのは時間に余裕を持っても、午前八時十五分過ぎだ。逆算すれば朝は午前七時過ぎぐらいに起き出すのだけれど……。
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社内では忙しくても一日が終わり退社したら、通勤途中にあるスーパーでタイムセール時の三割引とか半額のお弁当を買い、飲み物としてアルコールフリーのビールを一缶買っていく。確かに一日の疲れを癒すには、自宅で軽く飲みながら食事を取り、ゆっくりするのがベストだろう。そういったことは十分分かっていた。だから下手に自分を追い込まないで、スローペースでやっていくつもりだ。それが一番だと思える。頑張った自分にはご褒美をと思い、食事を取って飲酒したらバスルームへと入り、入浴していた。あたしも自分が何かあった場合に備えて日々貯蓄できていることが分かる。ただ、ランチ代だけはどうしても掛かってしまうのだし、夏の終わりまでは昼時に冷麺を食べるつもりでいた。疲れてしまっている。だけどこの蒸し暑い季節ももうすぐ終わりだ。お盆休みになれば、またゆっくりするつもりでいる。仕事に慣れてしまって余裕が出来ていた。それだけ加齢したとも言える。自分自身ある程度は。そして二十七歳の独身女性は次に恋愛を追い求めることになるだろう。まだ間に合う。三十を過ぎているわけじゃないので。確かに今のあたしの気持ちは昼間食べた冷麺のタレのように酸っぱかったのだが……。
(了)