Sleepy Goroh
Sleepy Goroh
ぶらうにい
《ゴロウね……いたねー。いまどうしてるの、いまもいるのどこかに。
……ヘンテコだったよねー。だいいち踊れないっての(笑)。といって
チークタイムでもないでしょ。みんなぼーっとしちゃって。ぼーっと
したかったんだろうね、あのころ。あのとき。だからゴロウはあのと
きのものだった。》(神奈川県・専業主婦)
《ゴロウさんは、マジ、ヤバかった。いろいろ教わりました。おごっ
てももらいました(笑)。だってあのときのゴロウさん。マスコミって
いうか、ラジオだけなのかな。そんでもスゴイでしょう。ギャラは安
いしどうでもいいみたいなこと言ってたんですけどね。いまどうなの。
会ったらよろしく言っておいてください。》(東京都・自称元DJ)
《ゴロウさん、生きてるよ。やるべきことをやった人、かな。忘れて
あげて。気にしないと思う。》(東京都・大学講師(社会学))
《ゴロウってば、いい加減なヤツ(笑)。気前は良かったよ、そのあと
するときだけ(笑)。腹立つヤツだけどさ、ゆるせちゃうんだよね。知
ってる? 育ち良いんだよ、あいつ。そういうのに弱いからさ……。》
(東京都・自称元モデル)
《ゴロウは……神だった。土曜日夜の、あのときは。》(沖縄県・飲食
業)
KABA-Changが女と出て行ったまま帰って来ないので、ゴロウのレコバッ
グは空になってしまった。三十分だから七インチが十枚で十分という話だった
が、次がいないんじゃどうしようもない。レコードにはフリップ(B面)とい
うのもあるが、入魂の選曲の締めがB面のクズ曲じゃ、客が帰るくらいならま
だ良いが、その客から総出で袋叩きに遭いそうだ。仕方ないから、最初のをも
う一遍回すことにしよう。リプライズってことで……
「ね」
しかしフロアに出てるのは誰もいないし、バーでてんで勝手にしゃべくって
るか、ボックスシートでイチャついてたり、グダッとただ寝てるのもいる。マ
ネジャーからは、ゴロウ君のまんまの選曲でいいから、つなぎにはそれが一番
だからと言われてはいるが、客を乗らせないDJはDJといえるのか。自称D
Jというのがこの国にはあふれてる。その点オレはギャランティーをもらって
る。一線を画してる。税込み五千円だとしてもだ。この日のために仕込んだの
が三枚あるから、完全にアシが出てる。もちろん、レコは今日だけのことじゃ
ない。税金の申告をするときは今日の分で全額経費で落ちるが。どうせ申告し
ないとヤバいほど今年も稼げそうもない。まだ二ヶ月過ぎただけで予言できる。
今年こそはブレイクスルーと思っていたのだが。それをもたらしてくれるのが
具体的になんなのかはアイデアの欠片もない。
「ねーってば!」
さっきからうるさいような気がしていたが、ゴロウはブースの横の小学生の
ような女の子が話しかけているのが自分だとやっと気付いた。子連れで来た親
に放っておかれたのか。ヘッドフォンをはずして体だけ寄せる。
「ん、どうしたのお嬢ちゃん」
ものすごい違和感があった。女の子がゴロウの右肩に上半身をぶつけるよう
にしたのだ。その感触が、
〈ボイン〉
というのは古いのか。というか何語なのか。
ゴロウは暗がりでもレコード・レーベルが読み易いように度を弱くしている
ジョン・レノンもどきの丸ぶちメガネをミキサーの横から手に取って鼻の上に
乗せた。
「なんで同じ曲?」
ちっちゃい女の子は、どうやら小学生ではない。〈ボイン〉もそうだが、メ
ガネを通すとメイクもそれなりに決めていて、あれはそう、昔のフランスとか
の人気モデルでショートヘアの子に似てると思った。
「リプライズ」
「リブロースって?」
「あのなあ」
「いいねあなた」
「……サンキュ」
「きいててねむくなる」
ゴロウは思わず女の子の顔をガン見した。まてよ、結構かわいくないか、結
構……。
「ねえこれ」
女の子のちっちゃい手が、ゴロウのジャケットの胸ポケットに突っ込まれた。
「はいー、おつかれ」
ポケットを確かめる前に肩が無遠慮に叩かれ、KABA-Changが力士ほどあ
る腰回りをゴロウの肩に擦り付けた。女の子は姿を消していた。
「おせーよ」
「あっちが盛り上がっちゃったっていうの? 帰責事由ないだろ」
ゴロウと同い年のKABA-Changは、某大〈アホウ学部〉卒なのである。と
きどき難しい単語を操る。
「それにしてもさ、こんだけみんなグダッとさせるのもテクだよな」
KABA-Changは、バカにするべきか感心するところか自分でもわからない
ような口調でそう言った。やせこけたゴロウの空けたブースになんとか巨体を
すべりこませると、素早く空いていたターンテーブルにお皿を置いてミキサー
をいじった。ゴロウのプレイしていたオーストラリアのアンビエント・バンド
のゆったりしたベースラインとパーカッションのからみが地平線に去ってゆ
くのと並行して、地獄の底の餅つき大会のような重低音が出現した。目に見え
るような重低音のBPMが増してゆく。
KABA-Changがいきなりマイクを手に立ち上がるとスポットライトを浴び
る。少年のようなよく通る美声にエフェクターをかけて歪ませた声が意味のな
いような言葉をフロアに浴びせかけると、客たちは一斉に立ち上がって、ある
者はフロアになだれ込み、ある者はその場で腰をくねらせ始めた。ゴロウの知
る限り、KABA-Changががなり立てた一節は、
《日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し……》
という例の憲法の中の一文を、彼独特のたどたどしくぶつ切りの英語に変換し
たものなのだ。なんとなく格調高いのは確かだし、ただカッコいい、気持ちい
いと受け取る客もいるのだろう。要するに〈様になる〉言葉ならなんでもあり
なのだ。ゴロウにはとても真似できない。ゴロウは原則しゃべりを入れない。
ラップなんてもちろんできない。選んで来た曲をスムーズにつないでいくだけ
だ。守ってることは、自分が本当にかけたい曲だけをかけるということだ。若
い頃にはヒップポップもノーザンソウルもアシッドジャズも普通にかけてい
た時期がそれぞれあるが、いわゆるDJブームが去ったころには、もう今のス
タイルに落ち着いていた。だから生き残れたのだと思っている。
バーでボンベイ・サファイアをロックにしてもらう。酒は強い方ではないが、
プレイが終わった虚脱するような疲労には薄めた酒は効かない。顔を赤くして
もクラブの中では誰にもわからない。それにしても、ちっちゃい子だったな。
そこでやっと、ポケットになにか入れられたことを思い出した。手帳のペー
ジをやぶったような紙が出てきた。
〈ねむりのゴロウさんへ 080-XXXX-XXXX みいちゃんより〉
みいちゃんか。それにしても〈ねむりのゴロウ〉だ? 英語に直せば〈Sleepy
Gogoh〉。それならまだ格好がつく。いや、こういう場合は〈the〉が要るんだ
っけ……。やっぱ日本語のままが無難か。
一人でクツクツ笑ってしまう。いいかもそれ。つかわせてもらおうかな。
KABA-Changのプレイが終わるまでバーで楽しんだ。ゴロウのセットとは
まるで違う音だが、ゴロウは良い音楽ならなんでも心から楽しめた。自分でプ
レイする音楽が限られるのとはまるで関係ないのだ。アーティストもジャンル
も、時代も音質もなんでもアリだった。そうなったのはいつなのか。家族から
精神的虐待を受けて音楽の神様に頼ったときだったと思っている。神様が俺を
受け入れてくれたのだ。〈解脱〉みたいなものだと思っている。問題は〈良い
音楽〉とはなにかということだ。音楽がなにかに具体的に役に立つということ
は絶対にない。きもちよくさせてくれるだけだ。もちろん、ムードを盛り上げ
るというのはあるが、それも気持ち良くなることの一部だ。女が落ちるのは気
持ち良いからだ。
四十分のプレイを終えたKABA-Changがぶっとい両腕に、それぞれ女の子
を抱えるようにしてバーにいるゴロウに近付いてきた。右腕はグリーンのボデ
ィコンを着たモデルタイプで、胸はしっかり大きい。グラビアに出ててもおか
しくないレベル。
左の方はもう少しおとなしめのクリーム色のワンピースの女で、体型は少し
劣るが、顔は朝ドラのヒロインみたいで悪くない。ぜんぜんわるくない。右と
比べるから錯覚が生じるだけで、上等な女の子だ。
「おー、マディでもいかない」
西麻布にあるブルース・ジョイントを模した一軒家バーだ。ゴロウは無論、
ブルース系の音も大好きである。そういう趣旨の誘いではないが。
クラブの裏口から四人で出ると、三月に入ったというのに、真冬の外気が襲
ってきた。ありがたいことにKABA-Changの丁稚兼運転手のシゲヒコ君が待
っていて、表通りからすぐにクルマを回してきた。ニューヨークやロスのDJ
ならリムジンというのもいるかもしれないが、都心の道も結構狭いところがあ
る東京では不便すぎるだろう。それにKABA-Changにしてもそこまで稼いで
るわけじゃないと思うし、冗談でこんなカッコ付けをしているだけなのだ。D
J修行の弟子入り志願をしてきた某有名私大休学中というシゲヒコ君を、運転
手兼用ならという条件で何ヶ月か前から受け入れてやったのだ。リムジンなら
ぬプジョーのミニバンは、乗客四人でいっぱいな感じだ。三列目に座ったゴロ
ウの腰にクリーム色ワンピの子の体温が伝わってくる。二十三、四だろう。化
粧が薄めなのも好みだった。前の広めの席も、なにしろKABA-Changが巨大
なので、ボディコンはほとんどKABA-Changと一体化するしかない。組み合
わせは固定された。
マディで午前二時くらいまで飲んで、KABA-Changとボディコン(すみれ
っち)はいつの間にかどこかに消えた。トイレかと思っていたゴロウと白ワン
ピ(京ちゃん)は取り残された。戦前ブルースマンが戦後の研究者によるアメ
リカ南部地域の捜索で〈発見〉された話などをいつのまにか京ちゃんに語って
いたゴロウも我に返った。興味深げに聞いてくれていた京ちゃんとの間に、ぎ
こちない空気が流れた気がした。
「戻って来ないみたいね」
「そうみたいですね」
「明日……ても今日だけど、どんな予定?」
「水曜日は休みなんです」
仕事のことは訊いてないが、平日の休みというと病院関係か物販かもしれな
い。KABA-Changの声が聞こえるようだった。《ゴロウにはこっち残してやっ
たぜ》。
これからどうします? そう言うべきなんだろうな。
「これからどうします?」
京ちゃんがさらりと口にした。
「えっと、よければ……」
「ゴロウさんの部屋、見てみたいな」
「汚いっすよ」
反射的に口にしたが、さすがのゴロウも、愚かな発言だということを自覚し
た。
「そういう部屋、見てみたい」
京ちゃんは見かけによらず大人だった。
店を出て身を切る寒さの中で絶望的な気分になりながら、タクシーを拾おう
としていると、プジョーが戻ってきた。助手席側の窓が開いて、シゲヒコ君が
体を傾けて顔をのぞかせた。
「遅くなっちゃって。ゴロウさんたちをお送りするようにと」
「わるいね」
「オレの役目ですから」
プジョーに下北沢のアパートまで送ってもらう。鉄筋だから賃貸マンション
と呼ぶべきかもしれないが、〈マンション〉は〈邸宅〉という意味だから恥ず
かしい。アパートでいいというのがゴロウのカッコ付け方だった。
セミダブルのベッドの上で京ちゃんのワンピースを脱がして、シャワーを浴
びずに、ちゃんと装着はして、ことに及んだ。ぜんぶで十分くらいで終わって
しまった。ゴロウはガマンがきかない質なのだ。京ちゃんはきもちいいと言っ
てくれた。いい子だ。ゴロウは少し悲しくなる。KABA-Changとすみれっち
は、豪華なホテルか奴のタワマンの部屋で、ゴージャスなセックスをしただろ
うか。というかまだ終わってない可能性も高い。京ちゃんはいい子だが普通の
子で、すみれっちはごく限られた特別な女だ。京ちゃんを俺に恵んでくれたの
はKABA-Changだ。もしかして裏でなにか取り決めのようなものがあるのか
もしれない。大人の世界の取り決めが。
二人には狭いベッドで無理に目を閉じて、ゴロウの頭は冴えている。布団を
かぶっても寒いというのもある。なんて言って、俺も十分大人じゃないか。ア
ラサーとも言えない年齢になっている。KABA-Changに恵んでもらうのも初
めてじゃない。今晩の仕事だって恵んでもらったようなものだ。KABA-Chang
がなぜ自分のことを気にかけてくれるのかわからないが、たぶんClanをつく
りたいのだろう。渋々みたいにシゲヒコ君を自分の傍に置いてやっているのも
そうなのだろう。〈仲間〉というよりもっと強い絆で結ばれた〈一味〉みたい
なものだろうか。それはかまわないし、俺には他に行き場なんてないのだ。
KABA-Changの圧倒的な輝きが、羽虫みたいに俺やシゲヒコ君のような(一
緒にしちゃ悪いが)ちっぽけな連中も引き付ける。KABA-Changとシゲヒコ
君の関係が本当はどういうものなのか、分からないところもある。タワマンの
一室をシゲヒコ君に使わせているらしいが、二人の生活はどんなものなのか。
掃除なんかはシゲヒコ君がしているのだろうが、一緒に食事したりするのか、
KABA-Changのパンツなんかもシゲヒコ君が洗濯してるのか、生活費をシゲ
ヒコ君に渡して買物なんかさせてるのか、それとは別に小遣いだか給料の取り
決めなんかもあるのかどうか。
念のため、KABA-Changが男とそういう関係になるなどあり得ない。ゴロ
ウには確信がある。男の中の男だからだ。ゴロウ自身もそういう気はまったく
ない、と思っている。自分の場合、それは自分の平凡の一部である。なにも特
別のものを持っていない。若い時にそう思うのは若者の特権かもしれないが、
この歳でそう思うのはそれなりの検証を経た結論である。つまらない人間ので
はあっても自己観察には一定の重みがある。京ちゃんが急に起き上がって、裸
のままトイレに駆け込んだ。寒いのか、間に合わないからか。スマホを覗くと
十一時だった。そうだ、〈みいちゃん〉に連絡しとこう。恵んでもらったんじ
ゃない女の子には特別の価値があるように思えるのも確かだった。
◎
ゴロウは生まれてからずっと代々木上原で育った。渋谷区のはずれ、世田谷
区との境近くにあたる。ゴロウの祖父は薬剤師だったが、どういう経緯か相場
師となり戦後の高度成長期に株式相場で財をなした。大物の同業者たちが最後
の勝負に負けて(というより、彼らは勝ち続けるうちは勝負を降りられないの
だ)退場を余儀なくされるなか、祖父はある程度の資産を作ったことで納得を
し、個人の相場師が存在感を示す時代の終わりを察知したこともあって、結局
投資を金に換え、小さな製薬会社を興した。バブル経済の芽の出る数年前のこ
とだ。それから株式相場も不動産も暴騰する中で、相場から降りたのは読みを
誤ったとも評されたようだが、結局はバブル崩壊で傷を負わずに済んだ。しか
も祖父の製薬会社はいち早く健康食品や健康ドリンク類に特化して小さなな
がら知名度を得て、地味ながら確実に利益を上げるようになっていた。工場は
府中に建てたが、残りの金で祖父は上原に広い土地を買い、自分と息子一家の
家を建てた。バブル前のことだから今よりはるかに安価だったはずだ。直後に
息子一家の三男として吾郎が生まれた。
ゴロウの父親は国立大医学部を出て勤務医になった。数年後に一緒になった
母親は医大の同級生だった。祖父はかなりの秀才である自分の一人息子に、健
康ドリンク工場を継がせるのは不憫だと思ったらしい。祖父の潤沢な資金を使
ってゴロウの兄たちも私立の中学、高校から系列の医大に進んだ。ゴロウ自身
も当然のごとく同じ中学、高校に進んだ。医大に進学するための学内の基準は、
外部からの受験に比べればはるかに緩いもので、長兄も次兄もなんなくパスし
たものだった。祖父が一家のために金を産むガチョウである製薬会社をブラン
ドごと大手に売却したのは、孫たちに継がせる目はなくなったと判断したから
だった。そして世の中は久々の好景気に沸き、M&Aブームも到来していた。
中学までは目立たなかったゴロウと兄たちとの違いが顕在化し始めたのが、
ちょうど会社の売却のあと、ゴロウが高校に進学(中高一貫校なので無試験)
した頃だった。科目が増え、とくに数学や物理、化学などの理系科目にまった
くついてゆけなくなった。中学までのゴロウは、とくに努力せずとも、試験前
の一夜漬けや、要領の良さゆえのちょっとした工夫で正解を見つけ出すような
ことで結果としては危なげなく乗り切っていた。ゴロウに努力する能力、難問
を筋道立てて解明してゆく能力がいずれも欠落していることは、誰の目にも触
れることはなかった。ゴロウ自身もそんなことには気付かなかったのだ。やが
て付け焼き刃の対応や要領の良さだけではどうにもならない段階が到来する
と、ゴロウにはなすすべがなかった。無論、自分なりに努力しようともがく場
面もあったが(たいていは高校の期末試験に際して)、それは空気の抜けるふ
いごのように、汗をかくだけでなんの効果ももたらさなかった。
しばらく前に祖母という伴侶をなくして独り身で、同じ敷地の息子一家の行
く末に目を光らせることだけが残された仕事と考えるようになっていた祖父
は、ここに来てゴロウの成績を見て青くなった。有名建築家に設計させた柱の
少ない斬新なデザインの母屋(ガラスがやたら使われていて、お手伝いさんに
は掃除が大きな負担だったが、それはともかく)にゴロウ一人を呼び出して、
普段の勉強や、生活ぶり、今後の目標、好きなことなど、出前で取ったゴロウ
の好物のうな重を食べさせながらの爺と孫の世間話の振りをして〈尋問〉を行
った。結果は、危惧した通りだった。ゴロウからはなに一つはっきりとした答
えが返って来なかった。それでも無理にゴロウの回答を要約するなら、好きな
ことは洋楽のロック・ミュージックを聴くことで、家にいるときはだいたい一
日中、ロックを聴いているらしい。といって、ロックを演奏したいとか自分の
曲を創ってみたいとかいった希望は一切ないらしい。これは、両親や兄たち、
そして自分のような、〈脳みそ〉で勝負できるような人間ではない。努力すれ
ば出来るというならさほど心配ないが、努力をしてもできない人間というのは、
高望みをするよりも、そのことを前提とした場合に最良の人生を設計してやる
しかない。そしてそもそもゴロウは突き詰めた努力もできない男だと祖父は看
破していた。
おそらく、健康ドリンクの工場を運営し続けることならこの子にもできただ
ろうと、祖父はいまさらながらほぞを嚼んだ。いやしかしと、老いても目端の
きく男はすぐに考え直した。いまは好景気でも、いずれ未曾有の変化が起こる
日が来るだろう。そのときには前例を踏襲するだけの経営者ではひとたまりも
なく変化の裂け目に飲み込まれてしまうだろう。会社は換金しておいて良かっ
たのだ。あとは、この子の一生くらいはどうにでも支えることはできるだろう。
なにか店をやらせても良いし、それも無理ならば地味ではあるが賃貸アパート
でも何棟か建てて遺してやってもいいかもしれない。自分もまだ元気だから急
を要するわけではないが、五年くらいのうちには形をつけておいてやった方が
いいかもしれない。ほかの二人の孫たちにも、莫大な学費のほかに、いずれ父
親と一緒に開業するくらいの資金は取り分けてやるのだから。
そのときゴロウはそんな祖父の思惑はまったく知ることはなかったが、知ら
されたところでどうなるものでもなかっただろう。というのは、そんなことを
考えた数週間後に、祖父はあっさり脳梗塞でこの世を去ることになったのだ。
長年飲み続けた自社製の健康ドリンクが十分な効果を発揮しなかったのかも
しれない。
母屋中を探したが(といっても母屋の斬新な建物に物入れはわずかしか造り
付けられていないので、それほど時間はかからなかった)、遺言状は見付から
なかった。遺言のことを祖父が口にしたこともなかった。依頼した税理士の調
査で、祖父の遺産は代々木上原の土地建物と、ほかは大部分が投資信託で、残
りは銀行預金だった。一時は相場師と呼ばれた男の財産にしてはシンプルなも
のだった。借入は一切なかった。全部の資産はゴロウの父親が相続することに
なった。うわべ上は、代々木上原での一家の生活はなにも変わらなかった。た
だ母屋のお手伝いさんに暇が言い渡されただけだ。彼女はむしろうれしそうに
去っていった。もう毎日午前中いっぱいかけてガラス磨きをせずに済むからに
違いなかった。ゴロウたちが住む子供世帯の建物は普通の大手ハウスメーカー
のもので、お手伝いさんの手は最初からとくに必要なかった。というのも、勤
務医としては早くもリタイアして専業主婦に近い暮らしぶりになっていた母
親は他人に家に入られることをきらっていたのだ。
祖父の死は、ゴロウに一定の感銘を与えた。いなくなってみると、この家の
すべては祖父が築き上げたものだということがはっきりと意識された。両親も
兄たちも、お医者様だ医大生だとプライドを持っているが、それも結局はあの
祖父が相場師として、いわば博打で手にした資金を元手にしたものだ。それを
怪し気な健康ドリンクで何倍かに増やし、この家屋敷と一見エリート一家みた
いな彼らを作り上げたのだ。博打の金。愉快じゃないか。じいちゃんはあの〈尋
問〉のあと、俺に医学部に行け、医者になれと一言も言わなくなった。あれは
俺のことを見切ったんじゃないか。いや見捨てたのかもしれない。とにかく、
じいちゃんの〈作品〉のエリート一家のキャラとしては俺は失格したのだ。そ
んなことは一言も言われてないが、じいちゃんの眼はそう言ってた、ような気
がしてきた。だから別のことをどうしろとも遺さずに死んじゃった。今のまま
で良いとは言われなかったが、今のままで俺は仕方ないということなのだろう。
お疲れさま、じいちゃん。
高校時代に顕在化したゴロウの〈堕落〉に、両親と兄たちは、祖父ほど寛容
ではなかった。みるみる落ちる学内成績順位、叱責と失望と軽蔑。裕福な医者
の家の子弟の多い高校で、ゴロウと同じく親の期待に応えられない劣等生たち
は自然と校内に居場所をなくして外にはけ口を求める。育ちが良いおぼっちゃ
んばかりだからやることも高が知れている。授業をさぼってレコ屋にたむろし
て夜はロックのかかるカフェや、そのうちに年齢チェックの甘いクラブにも恐
る恐る出入りして、とにかく浸るように音楽を聴いてるうちに酒の味も覚えた。
ゴロウは母親似の細面でそれなりに可愛い顔をしていたから、クラブの常連の
年上の女にちょっかいを出されてそういうことも覚えた。つまりロックの歌詞
の世界がゴロウの現実になりつつあった。クスリ関係だけは、どうにも違和感
があって手を出すことはなかった。どこかで薬剤師だったじいちゃんが見張っ
ているような気もしたのだ。遊びの資金は、医師の仕事をやめても社交やら何
やらで相変わらず不在勝ちの母親が〈生活貯金箱〉と称して居間のキャビネッ
トの中に設置した小箱の中から頂戴した。一応は備え付けのメモ帳に金額と使
途を書く決まりだが、予備校受講費のマジックワードで何万でも引き出せた。
何回でも、何十回でも。その言葉を確認することで、母親はこの頃はまだかろ
うじて、ゴロウが一家の三男として居続けるための努力をしていることを自分
に納得させていたのだ。
ゴロウが初めて〈皿を回した〉のは、渋谷の暗渠沿いに出来たばかりのロッ
ク・カフェでのことだった。住宅街だったエリアを貫く暗渠が緑道として整備
されてから、住戸を改造したようなブティックや飲食店に変わりつつあった。
店主は二十代半ばの元Jリーガーだった男で、足首の故障で選手生命が断たれ
ると、パトロンらしき年上女に資金を出させて一階のそのスペースを格安で借
りて馴染みの渋谷で好きなロックの店を始めた。高三の夏休みに、医大への内
部進学が絶望となった学内試験成績表を自室に置きっぱなしのカバンの底に
隠したままだったことがついに発覚して、激怒した母親から〈生活貯金箱〉の
廃止という強硬手段を採られてたちまち干上がったゴロウは、人伝にその店の
バイト募集の話を聞き、一晩中ロックが聴けて小遣い稼ぎもできるならと、店
の偵察がてら面接にも行き、アスリート特有のめんどくささの欠如が持ち味の
若い店主と、テーブルの並ぶ狭いフロアから一段高くなった意外と本格的なD
Jブース、それに天井から斜めに下がったJBLのモニタースピーカーから流
れるのがグレートフル・デッドという緩さも気に入って、〈採用されてやる〉
ことを決めた。DJブースは、友人連中が集まったときなどに遊べるように作
られたものらしいが、普段は店が暇なとき、店主がカウンターの下のレコード
棚から適当に選んでターンテーブルに乗せているくらいだった。八月の後半に、
店主はパトロンに誘われてサイパンに遊びに行くことになり、三日間不在にす
ることになった。調理係の中年男とゴロウが店を切り盛りすることになる。
「音の方は、たのむな」
店主は軽くそう言ったが、ゴロウが店でかけるレコードを選んでみたくてた
まらないことはお見通しだった。調理係の方は中学生から校内のオケでヴァイ
オリンを弾いていて、ストラスヴァリに憧れてイタリアに行き、料理人になっ
たという経歴の男だから、クラシック音楽以外に一切興味がなかった。二人の
うちどちらに選曲を任せるかといえば、ロック狂の高校生を採るしかなかった
わけだ。店主の言葉に、ゴロウはただうなずいて身震いした。
店主は、当然のことながら店のレコード棚にストックされたレコードから選
曲がなされるだろうと考えていた。ゴロウが多少〈やんちゃ〉なことをしても、
だから大過はなかろうというわけだ。安心してパトロン女の体を満足させてや
れる。店主が知らなかったのは、少し前に、ゴロウはちゃんとしたDJバッグ
を通販で購入していたことである。五十枚くらい入る初心者用みたいなものだ。
DJをやるあてなどその時点ではなにもなかったのだが、形から入るのがゴロ
ウらしいところだった。
店主が夜便でサイパンに発った夜、ゴロウは夜遊びを控えて、代々木上原の
自室にこもって〈皿選び〉に余念がなかった。営業時間は午前十時から夜八時
までの長丁場だから、クラブみたいに一曲でつないでゆくのもつらいものがあ
りそうだ。原則、レコード片面は通しでかける方が現実的だろう。DJとはい
えフロア係兼任なのだ。片面というとだいたい二十分から二十五分くらいにな
る。カフェの空間を頭に思い浮かべつつ、しかもいつもの店主のいない、基本
的にはゴロウだけが仕切る空間を想いつつ、選び出したレコードを順にレコー
ドバッグに詰め込んでゆく。朝はゆったりしたアコースティックな感じで始め
て、昼間はラテンぽいのを中心に。午後からはブルージーなロックも混ぜて、
夕方以降は熱い感じ。ラフな流れを作ると、意外とサクサクと選べた。
三日間の店主代理DJをつつがなく務めると、そのときに遊びに来てくれた
年長のクラブ仲間を通じて、西池袋のシケた(と言ったら失礼だが)クラブか
ら、ランチ営業の時間中のDJの声がかかった。時給千円はウェイターのバイ
トに毛が生えたくらいのものだったが、ゴロウの得た初の正真正銘の〈ギャラ〉
ということになる。近所の私大の学生が客の中心で、八割は女子だった。お嬢
ぽいタイプが多く、歳下のはずのゴロウにアプローチしてくるのも何人かはい
た。あまり選り好みはせずに、ありがたく頂くようにした。DJはDJらしく
振る舞うべきだ。やがてその店の夜のDJも週一で頼まれるようになり、ゴロ
ウの担当の火曜日夜にもゴロウ目当てのファンが集まるようになった。ほかの
曜日と区別して、〈ゴロウのスムース・セーリング・ナイト〉と名付けられた。
じつは吾郎がゴロウになったのがこのときからだった。
年末までには、ゴロウが医学部には進学できないことが確定して、両親は、
さすがのゴロウも胸が痛むほどに落胆した。激怒するかと予想した父親も黙り
込んだ。
「お前の成績だと、歯学も薬学も無理だ。もちろん外部受験なんて到底無理だ。
何億積んでも無理だ。分かってるのか」
「そうだね」
ゴロウの中には、少し前の反発心に代わって、なにかが生まれていた。なに
かいままでの自分とは縁遠いと思い込んでいた安定したものが。なんとか〈余
裕〉と呼べるようなものが。こんな崖っぷちにいて、なぜだかは分からなかっ
たが。
そんなゴロウを見て、父親は大きく溜め息をついた。
「どうするつもりなんだ。大学は出ておけよ」
「医学部じゃなくていいの」
ゴロウは驚いて思わず叫んだ。
「仕方ないだろう。こんなことなら、会社を売らないでくれればよかった」
祖父もまた同じ思いをしたことを、ゴロウも父親も知らなかった。しかしも
ちろん、自分が健康ドリンクだとか、役員会だとか人事とか、営業だの銀行借
入だのといった事柄に一ミクロンの興味もないことをゴロウは確信していた。
俺の好きなのはロックだけだ。いや、ゴロウの興味の対象はこの頃には単にロ
ックから、あらゆるジャンルの音楽に広がりつつあった。DJをしていれば厭
でもあらゆるジャンルの音に触れることになる。長時間のプレイリストをロッ
クだけで組むのはむしろ高等なテクを要した。俺には音楽だけだ。そして、フ
ォーク・ギターでコードを押さえることも、ピアノで〈バイエル〉を弾くこと
さえできない。俺ができるのは音楽を聴いて楽しみ、みんなのために選曲して
プレイすることだけなのだ。自分も皆も、気持ち良くする。
だからといって、大学は行こう。それはゴロウの直感だった。ドロップアウ
トに積極的な興味はない。池袋の大学生たちのぬるま湯のようなモラトリアム
生活に接していると、親がくれるというそんな数年間の自由時間を謳歌しない
のはバカだと分かる。さぞ楽しい音楽生活が送れるに違いない。
「じつは文学に興味があります」
なるべく〈文学的な表情〉を工夫しながらゴロウは父親の眼を見るようにし
た。
父親は虚をつかれた。経済や法律というなら、医学にくらべて一段下の実学
という位置付けが父親の中では明確で、本質的な学問、プロフェッションとし
ての価値の比較をひとまず措いたとして、偏差値の面でも、将来の期待収入の
点でもそのことは疑問の余地がない。しかし文学とは。文学やアートは、医師
である父親にとってもいささか煙ったいようなところがある。どこか高級そう
だがよく分からない。医学との上下関係が見えない。医者と画家、彫刻家とど
ちらが上かと問われれば、おそらくたぶん医者の方が人類に貢献する存在だと
言いたいが、そのための尺度がはっきりしない。さすがにミケランジェロのク
ラスなら自分より上とならざるを得まい。レオナルド・ダヴィンチというと、
人体図が思い浮かぶし、医者でもあったのかもしれない。それとも生物学者の
ような存在だったのだろうか。あいや、文学の方面というと、漱石、太宰、森
鴎外。どれがこの場合当てはまるのか。鴎外は高名な軍医でもあった。
自分の息子ながら、妙に痩せた貧弱な体と女のような顔付きで、いつ見かけ
てもヘッドフォンでロックを聴いている姿しかないように思えるこの男が、に
わかに得体の知れない存在になった。
「真剣なのか」
弱みを見せまいとする思いが、父親に答えの決まったような質問を吐かせた。
「もちろんです。ずっと言い出せずにいました」
ゴロウは手の甲で目尻をぬぐう、真似をした。父親は感動した。そういうこ
とだったのか。それを無理に医大に進ませようとしたために、無言の抵抗をこ
の子はしていたのだ。思えばおかしいと思ったのだ、自分の息子が単に無能な
はずはなかった。
「わかった。ママにはパパから話しておく。文学部に行きなさい」
ゴロウはとりあえず四年間の休暇を手に入れた。
◎
「ゴロウさん、M大なんだ」
「卒業してないけどね」
「そんな感じ」
〈みいちゃん〉はいじわるそうな眼で見てきた。猫目というのか、透明で奥
まで見通せない。もしかしてカラコンとかなのかもしれないが、ゴロウには神
秘的な眼に見える。クラブでは、ちっちゃくて可愛いなと思ったくらいだった
が、昼間に会ってみると記憶の二割増くらい可愛かった。もちろんメイク効果
かもしれない。この歳になってもゴロウはそういうことが見抜けない。見抜か
なくて良いと思っている部分もある。なにごとについてもそういうところがあ
る。とりあえず気持ちよければいい。ポリシーあるねと言ってくれた女もいる
が、ゴロウ自身は実は分からない。結局はめんどくさいだけではないかとも思
う。唯一、めんどくさくないのは、音楽のことを調べるとき、レコ屋で掘ると
き、それと女の子とあれこれ事を進めるときだけだ。DJももちろんめんどく
さくはない。いろいろ大変でも、アナログ以外、プレイする気にならない。デ
ジタルを覚えるのがめんどうなのかもしれない。
「あなたは」
あまり考えずに「あなた」とか呼んでしまって後悔した。こういうのは、先々
尾を引く。なぜかそんなことになったのだ。普段は自分はどんな風に女の子を
呼んでいたか、大急ぎで考えてみた。きちんと呼んでない。「あのさ」とか、
「ねえ」とか口にするだけだ。〈みいちゃん〉はまだゴロウには謎だったが、
なんか違う感じがする。きっと十くらいは歳下だと思うが、〈格上〉な感じが
ある。
「T大」
ゴロウの知り合いにも実はいないというわけではないが、たいていは自白し
たあと、「いちおう」とか「むかしのことだけど」など言い訳を伴うことが多
い。恥ずかしいことであるらしい。〈みいちゃん〉の場合はそういう留保がい
っさいなかった。
「すごい。あたま良いんだ」
「ある程度は」
みいちゃんは感情を表さない声を出した。
「いま、学生?」
「まさか。四だよ」
二十四ということか。小学生みたいな手が、ダボッとしたマントみたいな不
思議な服から煙草の箱を取り出して、自分で火を点けた。
「しごと?」
「出版社」
「雑誌?」
本といえば、いまのゴロウは雑誌しか読まない。
「文芸」
「それなんだっけ」
「だから、文学」
ゴロウの記憶が一気に遡った。「文学」を語ったことが一度だけあった。父
親に向かって。でまかせで。文学は恥の記憶だ。
「すげえな」
「ゴロウさん、なに学部?」
「……文学部」
なにそれと、〈みいちゃん〉がケラケラ笑った。八重歯がある。彼女の場合、
悪魔っぽくなる。トータルでは可愛いとして。
「わたしは社会学部なんだ、じつは」
「すげ」
「学者になるつもりだったんだけど、教授にセクハラされてやめた」
淡々と説明が続いた。ちっちゃいし、学者とかの内弁慶なタイプが手を出し
てしまいそうな子かもしれないとゴロウは思った。そんなことは過去だ。実務
的にならなくては。
「なんで、電話番号」
んーという表情で少しだけ考えてから、
「曲」
と言って、自分でうなずいた。
「曲か」
「曲、良かったよ。ぜんぶ。ながれも」
「どこがよかった」
「だから、〈ねむりのゴロウ〉」
またケラケラ笑う。〈Sleepy Goroh〉。
「眠たかった?」
「それが、きもちいー」
「……なんか、そうなんだよね」
「まあニッチだよね、この国じゃ。あたしくらいかな、はげしく反応すんの」
「たしかに」
「やっぱそう?」
「べつにそれでいいし」
「だるいんだね、ねむりのゴロウ」
「めんどうなんだ」
「そんな感じ。でもいいね」
渋谷のカフェを出て、なにげでホテルに誘ってみたが、「生理だから」と言
われた。〈あの日〉でも〈ちょっと体調が〉でもなく。メアドは交換できた。
四月になると作家の担当が変わったりして忙しくなるから、月末までにもう一
度会おうということにもなった。普通の進行具合と言えるだろう。月内なら、
理論上、次回は同じ理由は使えないはずだ。ただ、〈みいちゃん〉に限っては、
言い訳なんかしていないという確信がなぜかゴロウに湧いた。彼女が「生理」
といえば「生理」なのだ。
翌週火曜日、同じ感じでクラブでプレイしながら、ゴロウは前のゴロウでは
なくなっていた。〈ねむりのゴロウ〉としての自分が気になった。〈みいちゃん〉
(本名を訊かなかったことにあとから気付いた)に言われて、自分は特殊なの
かもしれないと思うようになった。なんでこんなにたるい、眠たい曲ばかりか
けるのか。〈みいちゃん〉以外にすごく褒められたこともない。というか、彼
女の言葉は褒めていたのか。「きもちいー」とは言ってくれたが。T大出の学
問をするような女にはそうでも、本当にこれが正しいことなのか。
KABA-Changとか仲間からもとくに音楽で評価されてる気はしない。Clanに
は入れてもらえたとしても、選曲が良いからというより、気が弱くて、選曲も
他人とぶつからないからというだけのことかもしれない。
次の週に入っても、ゴロウの悩みは続いた。ただのゴロウがうっかり〈ねむ
りのゴロウ〉として覚醒してしまったのがいけない。なんだかこのままDJを
続けることもできない気がしてきた。メールを送っても〈みいちゃん〉からは
返信がない。読んでくれたかどうかも分からない。迷ったが電話も何度かかけ
てみたが、電源が入っていないか電波の届かぬところにいると言われた。〈み
いちゃん〉は消えてしまったみたいだった。ほぼなにも考えずに、それゆえに
楽しいゴロウの生活が狂ってしまった。その週の金曜日までそれが続いた。
◎
そのとき、ゴロウは自室で迷っていた。〈ねむりのゴロウ〉は一時封印して、
ちゃんと気合いを入れたセットにすべきじゃないのか。ほとんどこのところ、
新しい音のお勉強もしていない。思い切ってしばらく休んで海外にでも出かけ
て、ニューヨークとかのクラブで最新の音を体で吸収してくるべきじゃないか。
貯金は限られているが(実家とは何年も絶縁状態になっている)、そういう努
力みたいなものも必要なんじゃないか。〈ねむりのゴロウ〉は呪いの言葉。
それから数分間はただただ東急ハンズで買って自分で組み立てたレコード
棚が崩壊しないようにじっと押さえていることしか頭になかった。普段はほぼ
見ないテレビを点けると大変なことになっていた。東京じゃなくもっと上の方
が(ゴロウは、地図の上の方を素直に〈上〉と認識する男だった)。夜まで、
映画の特撮のような映像が何度も繰り返し画面に流れた。クラブにはやっと電
話がつながったが、内装もバーの中もメチャメチャで、しばらく再開の目処は
立たないと言われた。
週末はゴロウも息をひそめるようにして自室にこもっていたが、週が明ける
と、世間並にグラグラ、ブルブル、ビクビクと過ごしつつ、次第に現実的なこ
とも気になってきた。クラブは閉鎖してしまうし、ほかの〈箱〉も電力の問題
やら自粛やらで、当分営業なんかできそうもない。どうやって暮らせばいいの
か。クラブが当分再開する可能性はかなり低い世の中の動きであることくらい
はゴロウにも分かった。貯金はちょうど二ヶ月分くらいしかないだろう。最後
に大げんかしたときの自分の記憶が薄れていることを良いことに、ゴロウは実
家に電話をかけた。この五年間では初めての電話だったが、迷わなかった。
「もしもし」
ハキハキした声で、最悪なことに大げんかの相手だった父親が出た。
「……吾郎ですが」
沈黙が続いた。
「あの、おかあさんは……」
しばらく間があった。
「お前、聞いてないか」
弱々しい声だった。
「なにをですか」
「かあさんは入院したよ。そしてうちはつぶれた」
「入院て。つぶれたって……」
父親と上の兄が一緒に開いた病院が倒産したのではと思って、そのこと自体
は少しうれしい気がした。
「うちだよ。代々木上原の家。母屋が倒壊して、その巻き添えでこっちも壁に
でっかい穴が開いた。いまは四人でアパート借りてる。心労でかあさんは入院」
じゃあ、大けがをしたとかではないんだ。ゴロウは心底ホッとした。いや、
ホッとできる容態なのかは分からないが、都内での被害は限られているから、
母親に限って、おそらく大したことあるまいという気がした。そう思いたい。
しかしじいちゃんの母屋は、あの特殊な設計が悪かったのだ。
「なんだ、生きてたんだな」
ゴロウが黙っていると、父親がついさっきまでの弱々しい口調が変わって、
皮肉っぽくつぶやいた。
「ええまあ」
「どうせ金でも足りなくなったとか言うんだろう。そんなわけでこっちもまっ
たく余裕なんてないから、お前はお前で生き延びろ」
そう言われて、実家の片付けを手伝おうかと口にしかかっていたのをゴロウ
は飲み込んだ。
「かあさんの病院だけ教えてくれますか」
父親はぶっきら棒に病院の名前だけを伝えて電話が切れた。
なんとか生き延びるしかない。金はギリギリだが、〈上〉の方の状況やら、
電力供給の問題など、世の中が非常事態になっていることで、自分の問題もそ
のほんの一部に過ぎないとゴロウには思えてきていた。仮に東京ではなくて
〈上〉の方の海辺のアパートに暮らしていたとしたら、四の五の言う間もなく
海の藻くずと消えてたはずで、それに比べたらまだ二ヶ月の猶予はあるし、そ
れまでになにかなんとかなるだろう気もしてきた。
その日から二週間がたっても時折の余震が続いていた。そういうとき、たま
らずアパートの外に出ると、皆がなにごともないように街歩きをしているよう
に見える。行きつけの中古レコード屋に入ると、ちゃんとそれなりに客も入っ
ている。以前と変わらないくらいに。新着レコードのコーナーをプロの手付き
でサクサク掘り始めて、いつものスピードが出ないような気がした。手元が見
にくいのだ。目脂でもあるかなと眼をしばたたいてみるが直らない。まさか老
眼とかだろうか。
しばらく掘り進んで、照明が暗いのだと気付いた。電気を節約しているのだ。
都区部では供給調整は実施されていないが、こういうことがされているのだ。
ゴロウはなんとなくやる気が失せて、店を出た。そうなるとやることもない。
ランチ時を過ぎているが腹も減らない。携帯にメモった母親の入院している都
心の病院の番号に発信した。代表番号から、病棟に回され、何度か押し問答の
末に、母親は既に退院していることが確認できた。ゴロウのやるべきことはま
た失われた。
井の頭線のガード下の劇団の入ったビルの地階に、行きつけのラーメン屋が
ある。腹は空かないがほかにやることもないので、ゴロウは暖簾をくぐり、カ
ウンターでいつもの〈全部のせ〉を注文してから、腹が減らないのだから普通
のラーメンにすれば良かったと悔やむ。なにひとつキチッとできない男なのだ。
背後に置かれた小さなスピーカーから、いつものようにサッチモの音楽が流れ
ていた。店主はゴロウと同年齢か少し上くらいかと思うが、ラーメン屋でサッ
チモは普通じゃない。しかもいつ来ても同じライブ音源だった。たぶん四十年
代くらいのものじゃなかろうか。しかし以前と同じというただ一点で、この音
楽は癒されるとゴロウは気付いた。これが世相を読んで別の音源に変えられて
いたり、音楽自体が〈自粛〉なんてことをされていたら俺はこうしてラーメン
を食っていただろうかとゴロウは考えていた。注文もせずに席を立つか、注文
してラーメンを食べたとしても金を払わずに逃げるとか、なんらかの形で抗議
を形にしていたのではないか。同じがただしい。同じだと癒される。ラーメン
は以前と同じにしっかりとした醤油味でうまかった。
店の外に出て、バス通りを渡り、ゴロウは坂を上り始めた。地図の〈上〉へ
向かう。しばらく歩くと池ノ上の商店街に出る。踏切を渡り、住宅街の中をジ
グザグに狭い道を行く。二十分ほどでまた別のバス通りに出た。どの駅からも
遠い陸の孤島のようなエリアだ。通りを渡ると急に家並みが高級になった。良
く見ると住宅の建物はごく普通のものも多いが、塀に金をかけているのだ。ご
近所が石貼りのようなパリッとした押し出しなのに、自分のところだけブロッ
ク塀というわけにはいかないという人間心理が読み取れる。すくなくともゴロ
ウにはそう読める。それが大嫌いだった。
そしてここは道が広くてまっすぐだ。何十メートルか離れた場所から、じい
ちゃんが建てた実家の角地の塀の大谷石が見えた。ここから見える範囲では塀
は無事であったらしい。じいちゃんの家が倒れているのをいきなり眼にするの
は覚悟が要る。うつむいて歩を進める。実家は転居して誰もいないはずだが、
万一ということもあるから、顔を見られたりしたくないというのもある。角を
少し実家の門の方に通り過ぎてから、ゴロウは斜めに視線を上に上げた。
都知事に立候補したこともある有名建築家の手になる、住宅にしては少し角
張り過ぎた陸屋根が庭木の間から見えた。通りには幸い人影はない。ゴロウは
大谷石の塀から離れるようにして、ちゃんと見上げてみた。こちらの方向から
は母屋の倒壊は分からない。屋根は水平に見えるし、壁は垂直に下りている。
両開きで立派すぎる門は普段通り閉じられたままで異常はない。母屋に隣接し
た、ゴロウたち一家が暮らした家の三角屋根にも変わりはない。というか、母
屋がそちらに倒れかかったようには見えない。ゴロウが足を停めて見上げてい
ると、三角屋根の下の二階のベランダの窓がいきなり開いて、母親の姿が現れ
た。逃げようとしたゴロウは立ち止まって母親の姿を確かめてしまう。洗濯物
を干し始めた。世間では外に干さない方が良いという説も流布されていたが、
母親は採用しなかったようだ。それでこそ母親らしい。五年振りの、一方通行
の再会だった。元気そうだと判断した。入院の病名は、電話では病院は教えて
くれなかった。実家が倒壊したというのは嘘でも、母親の入院は本当だった。
父親はなぜ自分に嘘を言ったのだろう。ゴロウにはその気持ちが分からない。
母親にこうして会いにきていても、ゴロウには分からないのだ。なにしに来た
のだろうといぶかしく思いながら、ゴロウはあわててその場を離れた。ゴロウ
の金髪は視力2・0の母親の眼からは逃れられなかっただろう。五年前にもう
染めていたかどうか、今となってはゴロウ自身が覚えていない。三十前には白
髪が出始めたのはたしかなことなのだが。
四月に入って収まっていくように思われた余震が、また頻発し始めた。ゴロ
ウの預金は十数万円まで減っていた。月末の家賃が払えるかどうか微妙なとこ
ろである。自分では明らかに節約を意識して一月ほどを過ごしてきたはずなの
に、いつもの生活費のペースと変わらないのが純粋に不思議である。ふと、ボ
ランティアにでも〈上〉の方に行こうかなどという考えが思い浮かぶ。給料と
いうことではなくても、食べて寝ることだけは保証されるのではないか。それ
でしばらく生き延びれば、そのうちクラブも再開するだろうし、元のだらけた
この国に戻れるに違いない。
もちろんゴロウがそんなことを実行に移す前に、あっという間に十日ばかり
が経った。家賃分に手をつけなければ明日から発泡酒も飲めない、メシも抜い
とくかという瀬戸際のある晩に、〈みいちゃん〉から電話がかかってきた。
「生きてたね」
「電話つながんなかった」
「拗ねてるわけ? ねー、すごいことだよね、これ」
ゴロウは、どう答えたらいいかわからず、黙っていることにした。そこまで
すごいか?などと言うと、ぜったい良くない反応がありそうだから。
「あたしさ、会社やめたのよ」
「どうして」
ゴロウは驚いた。同時に、〈みいちゃん〉が自分の窮状を救ってくれるので
はないかという淡い期待がしぼむのを感じずにはいられなかった。
「売れもしない文芸誌つくってる場合じゃないなって。新人教育だとかさ。〈こ
れ〉を見ておかなきゃ、文学とか言ってたって仕方ないし」
「それはそうだね」
「十年やったし、いいかなと」
「なーる……なんてった? 十年て」
「正確には十一年」
ゴロウは頭の中で理解しようとする。世界が変わるよ、まさかタメ(同い年)
なのか……。
「いろいろ見てきたよ。自分でなにか書くつもり」
「いいね」
さきほどの動揺を隠してそう応じるが、〈みいちゃん〉のやってること自体
は自分の好みではないなとゴロウは思った。理由はよく分からない。そういう
ことに意味があるのだろうかと思う。これは未曾有の特別のことなんだと誰も
彼もが叫んでいる。そういうテレビもネットもしばらく見ていない。
「ねえ、ゴハン食べた?」
ゴロウは〈みいちゃん〉との会話に戻った。
「いやまだ」
正直に答えた。
「これから食べいかない?」
「いいね」
〈みいちゃん〉とのひさびさのデートで、直感的に流れが変わりそうだと信
じて、ゴロウは家賃分から二万円を駅前のATMで下ろして、万一そうなった
らと思い付いて、あと一万円を下ろして財布に入れた。タメなら遠慮はいらな
い。連絡がつかなかったのは、拒否られてたわけじゃなくて、本当に電波の届
かない場所にいたからなんだろう。その前からだったような記憶もあるが、こ
まかいことは考えない方がいい。
井の頭線で渋谷に出て、指定されたエスカレーターを路上まで降りたところ
で待っていると、記憶以上にちっちゃい女の子が目の前に立った。レモン色の
ワンピースに、濃い目のグリーンのヘアがバーチャルな感じだった。
「染めたんだ」
「なんかロボットみたいになりたくて。人間以外の存在」
先に立って、すぐに路地に入り、煉瓦貼りの雑居ビルに入ってく。
「どじょうへいき?」
「ん、なに。どじょう?」
「食べたことある?」
「ない」
ゴロウの家では、あまり変わったものは食卓に出て来ない。ドジョウを食べ
るということは落語なんかで知っているが、食べたことはない。鰻は大好物だ
が、ドジョウにはなんとなく不潔な印象もなくはない。
「作家の先生に連れて行かれた店なんだけど、実はあたし好きなのよ。福島で
も、東京帰ったらドジョウ食べよーって考えてた」
なんとかなるだろう。ゴロウは自分に言い聞かせながら、古びたエレベータ
の中に続いて入った。せっかくだからイタリアンにしない?などと言い出せる
流れではない。ドジョウって高いんだろうか。せめて安くあって欲しい。
ビールで乾杯して、枝豆と鮟肝のあとに登場したドジョウ鍋は、ゴロウが危
惧したほどのゲテモノではなかった。葱と一緒ならなんとか普通に食べられる。
「クラブとか、ダメでしょう」
〈みいちゃん〉からその話をしてくれたので、慣れないお燗の日本酒に早く
も酔っぱらってきたゴロウは、窮状を説明してしまっていた。さすがに月末の
家賃も払えないとは口にできず、家賃も大変なくらい、としておいた。
〈みいちゃん〉はさほど気の毒そうな顔でもなく、鍋のドジョウの上に最大
級の葱の山を作ってから、すみませーん、葱おかわりと店の奥に向かって叫ん
だ。一つおいたテーブルの老人の二人連れが、無遠慮にこちらを見てきた。く
すんだ店内とくすんだ客たちの中で、ここだけ金髪とグリーンだからな。
「だってさ、ゴロウさんには財産があるじゃない」
実家のことを前回しゃべったっけと、ゴロウは自分の口の軽さに少しあきれ
た。
「そりゃじいちゃんの遺した家くらいはあるけど、ほかは大したものじゃない
し。だいいちほぼ勘当されてるし……」
「じゃなくて。長年ためこんだのがあるじゃん」
「貯金なんて、ないって」
「もう。じゃなく。レコード」
眼から鱗とは、このことだ。ゴロウはしばらく箸を停めて固まった。
「そりゃあ、〈ねむりのゴロウ〉の大事な曲は売らないとして、使わないレコ
ードもいっぱいあるでしょう。それお金にならないのかな」
「なーる。なるなる」
つまらないダジャレを言いながら、ゴロウは乾き切って縮んだ海綿が、でっ
かいプールにでも放り込まれたときに感じそうな開放感を覚えた。ヒップポッ
プもノーザンソウルも、ほぼ使わない。お宝レコードもかなりあるはずだ。そ
ういうのは中古屋でも一枚一万円は下らない。12インチも期待できる。
海綿の連想で、万札の遣い道も思い出した。
「みいちゃん、このあとどっか行く?」
「ゴメン、今日は生理なんだ」
前回から一月くらいだろうか。もうちょっとたってる。
「遅れててさ。心配?」
な訳ないだろ。ゴロウは奥に向かってお銚子を二本いっぺんに追加注文した。
◎
レコードを売っての〈たけのこ生活〉で何週間かをしのぐと、放射線の数値
が気になる以外、表面上は東京は元に戻りつつあった。クラブのマネジャーか
ら電話が入って、七月からDJ再開を頼まれた。メンツを訊くと、前と同じだ
けどKABA-Changだけ戻らないという。そういや、ずっとKABA-Changから
の連絡が入ってないことにゴロウは気付いた。それと、いつも連絡は
KABA-Changからだったことにも。あんな大物にこちらから迷惑をかけるわ
けにはいかない。ゴロウは遠慮していたのだ。
マネジャーによると、KABA-Changはなんと沖縄に移住したという。シゲ
ヒコ君がどうなったのか気になったが、マネジャーは知らないという。まさか
運悪く被災するようなところにも行ってないだろうし、大学にでも戻ったのか
もしれない。
「ほかにも、カネのある奴らはどんどん東京からいなくなってる。オレたちに
逃げ場はないよな」
マネジャーは自嘲的に言うが、ゴロウには分からない。そこまでのことなの
か。これしきのことで東京を見捨てるのか。ゴロウにはもったいなさ過ぎるこ
とに思える。真面目にいえば、こういうことは、いつでも起こり得たんじゃな
いのか、この世界では。
前と同じく、毎週火曜夜がゴロウの担当になった。マネジャーに提案して、
〈ねむりのゴロウ〉の名前にしてもらった。
「ダサくないか」
マネジャーは首をひねったが、女に言われたからというと、ゴロウはなんか
変わんなくてうらやましいなといいながら、了解してくれた。
セットリストの傾向は以前となにも変える気はない。もっとも、レコードを
結局、半分くらい売ってしまったから、その影響は多少はあった。その分、残
ったレコードを聞き直してその中から再発見した曲もあるし、もちろん新しめ
の曲からも発掘するようにしている。やはり全体にクラブの客が減ってるらし
く、マネジャーはゴロウのギャラを多少減らしてほしい感じだったが、同じで
なんとかしてもらった。ゴロウの平和で怠惰な日常が戻ってきた。放射線とか
眼に見えないものはゴロウの生活に関係ない。
〈みいちゃん〉もよく姿を見せて、ゴロウのプレイのあとにはたまに飲みに
行ったりしていた。彼女は固めの文章を書くライターのような仕事を始めてい
るらしい。知り合いの作家先生等の伝手も使って、固めの雑誌にいまの東京や
日本の他の地域に暮らす日本人、それに外国人も含めて、その意識がどう変わ
ったかというようなことをおおくくりのテーマにしているのだという。さすが
T大、とゴロウは思うが読みたいとは思わない。そういうのはきっと大事だし、
誰かがぜったいにやるべきことだというのは想像できるのだが、自分ははっき
り言って目にしたくない。このまま元に戻りたいのだ。そっとしておいてほし
い。次に同じようなことが千年後なのか百年後なのか知らないが、ゴロウ自身
は骨になって残っているかどうかも疑問である。千年、百年というのも、〈み
いちゃん〉との話に出てきたことだ。
「昔の文献やら、文学作品にだって、津波のことは割に頻繁に出てくるの。海
辺の地域の伝承やら民謡だとかにもね。でもどれもいつか風化していったとい
うか、本来の警告みたいな意味を失くしていった。それがどうして、どういう
経緯を辿って人々の意識がそれを〈忘れる〉ことになったのか。もしかして、
忘れることを選択したのかもしれない。そういうことを知りたいの」
「いいんじゃない。すげーなあなた」
からかっているわけではない。ゴロウの世界はいずれなくなる。だからとり
あえず関係ない、そう思った方がいいように思う。
そんなゴロウの顔を旅先で出会った見知らぬ人物の銅像でも眺めるように
しばらく見ていた〈みいちゃん〉は、
「ねむりのゴロウも目覚めるときがくるのかもね」
謎の言葉を残して、さっさと帰り支度を始めた。答えの決まっている誘いの
文句を口にするいとまもなかった。そのあと、〈みいちゃん〉はクラブで姿は
見かけたが、ゴロウのプレイ中もほかの客たちに話しかけたりして落ち着かな
くうろつき周り、終わる頃には姿を消すようになってしまった。なにか怒って
るのだろうか。そしてそのうち、ぜんぜん来なくなってしまった。見捨てられ
た。KABA-Changがいないと、ゴロウが自分で相手をしてくれるほかの女を
いまさら見付けるのは無理っぽい。まあ〈自粛〉だなと、ゴロウは別にかまわ
ない。強がりかもしれない。
◎
九月の終わりくらいに、いつもの眠たい曲を回しながらフロアを見るともな
く見ていたゴロウは、はじめて違和感を覚えた。
クラブでは自分のセットは事実上〈つなぎ〉扱いだから、そこで帰ってしま
う客もいるし、バーで時間をつぶしたりトイレに立ったり、通路で携帯をいじ
ったりするのも想定の範囲内だ。だから静かめの曲ばかりなのかと訊かれたこ
とすらある。
今日は客の数が多い。それも妙に。そういえば、このところずっとこんな感
じだったかもしれない。フロアも八割方埋まって、気持ち良さげに体を揺らし
ている。眼を閉じている客も多い。手をつないだままゆっくり踊るカップルも
目立つ。そうしている間にも、新たな客がフロアに入っていく。通りすがりに
DJブースのゴロウの方をチラチラ見ていく。一時間のセットの後半にはもう
フロアは立錐の余地もないと言ってもいいくらいだった。
プレイを終えてレコードをバッグに詰めているゴロウの傍に、何人もの女た
ちが取り囲むように立った。なんだなんだ。
「ねむりのゴロウさん、最高でした」
「お。そう」
「メアド教えてくれませんか」
「ちょっと、それゆっちゃうの? てか、わたしたちと飲みいきませんか」
それいーと歓声があがる。ゴロウは違和感を通り越して怖くなった。
「わり。このあと打ち合わせあっから」
「なーんだ。じゃあまたこんどで。ほんと癒されます。週一じゃ足りないよ」
「毎日やってくれたら毎日来るよね」
そうそうとうなずきあう。本来ならKABA-Changクラスにしか寄ってこな
いモデル級の女たちだ。ゴロウはわざと耳をほじる真似をしてみせた。
ギャラを取りに二階のマネジャーの部屋に行くと、
「おう、座れよ。ワイン飲むか、良いのあんだわ。煙草吸うか」
ゴロウはきょとんとしてしまった。ギャラの封筒を受け取って、受け取りに
サインしてご苦労さんというのがいつものやり方だ。
マネジャーが注いでくれた赤ワインはなるほど、びっくりするほどうまかっ
た。何年も飲んだことのないレベルだ。実家で母親の誕生日に皆で出かけた広
尾のフレンチで飲んで以来かもしれない。あれは十年は前か。すすめられるま
ま煙草をくわえると、マネジャーが火を点けてくれた。逆に恐ろしい。
「……あの、クビっすか」
「あ? なにいっちゃってんの。今後のこときちっと相談しとこうと思って」
マネジャーが机ごしに書類をゴロウの方に寄越した。
「なんすか」
「なんすかってことないだろ。専属契約書」
「専属……」
それはKABA-Changが口にしていたことがある。このクラブの専属、つま
りほかの店でプレイしない代わりに、固定のギャラに加えて、歩合的なものを
もらってるらしい。
「今日の入りもすごかったじゃないか」
「どうしたんすかね」
「ここんとこ、お前のプレイ聴いて、そこで帰る客も多いんだよ」
ゴロウの次は踊れるジャズで全国的に有名なMONK鷲尾のセットだった。
雑誌の表紙をかざるレベルの有名人とは口をきいたこともない。
「金額はそこに書いてある通りだ」
ゴロウの眼が大きく見開かれた。固定だけで五倍。あとは歩合。
「歩合の方は、店の売上を集計してからだから、一月遅れで振込になる。申し
訳ないが」
「いえ」
「どっかほかから来てんじゃないか」
「いえいえ。ないすよ」
「そうか。いずれ来るけど、断ってくれ。それはいいな。ただし、関西だとか
北海道とかなら、相談してくれればオッケー出すつもりだから。うちの曜日に
かからなきゃだけど」
「はあ」
「で、曜日だけど、火金の二日にしてもらう」
なんと華の金曜日! 固定だけで週に十倍入ってくることになる。ゴロウは
耳たぶをひねってみた。大丈夫、痛い。
「了解したら、サイン」
いつもの安物ボールペンじゃなく、万年筆だ。ゴロウは万年筆は生まれて初
めて使う、ような気がする。ゴロウのあとに、マネジャーも同じ万年筆を使っ
て署名した。なんと握手だ。大人になれたのかもしれない。やっとここまで来
れた。いつまでも続くわけはないが。
なにかがおかしい。ゴロウはようやく行動を起こす。といっても初のエゴサ
ーチだ。こわくてやったことがなかった。
〈ゴロウ DJ〉〈ねむりのゴロウ〉
クラブの告知や、客っぽい連中のブログだとかばかりだ。まあ予想の通り。
《失われた時代を癒す〈ねむりのゴロウ〉は現代の子守唄》
毎朝ジャーナルというのは、大手新聞社のかなり固い雑誌だということくら
いしか知らない。
記事のタイトルが引用されている。公共放送の時事番組で取り上げられて評
判になった著者は星川美子。
おそらく〈みいちゃん〉だとピンときた。ネットの記事によると、ゴロウだ
けというより、作家やミュージシャン、アーティストだとかが、今回のことに
どんな風に反応したのかを分析したものらしいが、そんな論考はほかにもいく
つもある中で、星川さんの記事は、クラブシーンという普通は固い論考の対象
外の世界に足を踏み入れて具体的に報告した、論文とルポの合体したような文
章が新鮮だった、とほかのブログで紹介されていた。
なんでだれも俺に知らせてくれないんだという疑問と、いや、俺がメインの
取材対象みたいなものだから、当然著者と俺はツーカーだと思われてるのだと、
さすがに世間知らずのゴロウにも想像がついた。
ツーカーもなにも、もう見捨てられて連絡もできない。
そう憤慨したあとで、いや、そうじゃないんだと気付いた。去り際の〈みい
ちゃん〉の思わせぶりなセリフは、俺を巻き込むことの予告だったのだ。わか
りづれーよ、T大。ゴロウは怒りはない。だってそうなると、客が増えたのも
〈みいちゃん〉の記事がきっかけの可能性が高い。いやぜったいそうだ。専属
契約も、華金をまかされるエース級DJ昇格も〈みいちゃん〉のおかげという
ことになる。〈時代の子守唄〉とまで買ってくれてるなら、生理くらいで断ら
ないで欲しい。
ゴロウは、〈みいちゃん〉の記事を読んでみたいとはまったく思わなかった。
記事の内容は、自分自身とはなんの関係もない。それが俺の生き方だ。そのく
らいの仕掛けで〈目覚め〉させられてたまるものか。子守唄、上等じゃんか。
あくまで気持ち良く眠らせてやる。
間もなく、ゴロウのところに雑誌の取材が来た。DJ雑誌だ。週二のゴロウ
のプレイは超満員だったし、秋が深まってもそれが続いた。一般の音楽雑誌と、
女性誌からも取材が来た。後者に載ったゴロウのグラビア記事には、〈癒しを
もとめる時代の眠りの王子、ゴロウくん〉と紹介されていた。〈みいちゃん〉
の記事の影響は明らかだ。撮影前にメイクされたからか、妙に清潔でハンサム
な男が伏し目がちにミキサーをいじっている写真だった。これは俺じゃない。
それでもかまわないが。
大晦日のプレイを終えて、カウントダウンをイケメンDJのMix-A-Taroに
まかせて、マネジャーの部屋に上がっていくと、マネジャーのほかに背広姿の
中年男がいた。
まさか税務署?というのがゴロウの頭に最初に浮かんだことだった。しかし
マネジャーに紹介された税理士から申告は年明け三月と言われていたはずだ。
しかしこの男、どこかで見かけたような気もする。
「ああ、ゴロウ。こちら関東FMの千葉さん」
「はじめまして、ねむりのゴロウ、さん」
ゴロウは頭を下げるだけにした。状況が分からない。
「率直にお願いにうかがいました。うちで番組を持ってください」
「だって俺、しゃべれませんよ、ラジオでなんて」
「ラジオは好きじゃない?」
「いや、好きですよ。好きでした」
代々木上原の家で孤立しているとき、ロックだけしかなかった。ロックは最
初、ラジオから耳にした。関東FMには〈新宿〉というニックネームの伝説の
ディスクジョッキーがいた。いや、いまでもいるんじゃないか。とにかく最新
の、彼がカッコいいと思う洋楽ロックの新譜をかけまくる番組だった。曲の合
間にリスナーの葉書が読まれ、新宿が結構辛口のコメントを挟む。低音でドス
の効いた美声だった。ゴロウの地声も低いっちゃ低いのだが。
「話が早い。ちなみにしゃべり不要です」
「しゃべらないラジオ番組?」
千葉がうなずいた。
「噂を聞きつけてから、ゴロウさんのプレイ、何度も聴きに来ました」
なんとなく見覚えがあるような気がしたのだ。もし背広姿で来てたとすれば、
自分の目にもついただろう。
「なんで人気あると思います?」
話の流れからすると、ヘンな質問に思える。
「しかしホントなんすかねえ」
マネジャーが首をひねっている。自分が来るまえに話合っていたみたいだ。
「え、なんすか」
「私はこう確信してます。〈あの日〉以来、この国の多くの人間の精神は変わ
りました。強制的に作り替えられてしまったと言ってもいい。ロックに、いや
音楽というものに、求めるもの、渇望するものが変わったのですよ」
ゴロウにはわからない。半分はわかりたくもない。正直、自分はなにも変わ
ってない。同じセットをプレイしてるだけなのだ。そうさせてほしい。でもそ
れを言ってはいけないのだ。
「一言で言って、〈あの日〉以降の日本人が、あなたのプレイ、〈ねむりのゴロ
ウ〉のプレイを必要としたのです」
「だとすると、いつか終わるんですか」
せめて冗談のつもりでゴロウは言ってみた。案に相違して、千葉は少しも笑
わなかった。
「いつか終わります。日本人が癒されたときに。終わらなきゃいけない」
なんと答えていいか分からない。ゴロウはマネジャーの方に助けを求める視
線を送った。
「要するにあれですね、ゴロウがしなきゃならないのは、番組の選曲を決める
だけってことになりやしませんか。しゃべりが必要ないってことは」
「そうです。そのとおりです。だから前もって選曲の確認さえ打ち合わせでき
れば、スタジオにいらして頂く必要はとりあえずありません。リスナーの反響
次第では、特番を組んで出演頂くお願いをすることになるかもしれませんが」
「無理だなー、それは」
まあまとゴロウを制して、マネジャーは千葉の方に向き直った。
「特番はまた別にネゴさせていただくとして、〈ねむりのゴロウ〉の番組立ち
上げと、選曲をゴロウにやらせるってところは問題ないかと。あと細かいこと
は、私がこいつの専任マネジメントしてますから、日を改めてお打ち合わせす
ることじゃ?」
千葉がゴロウに向かって少し不安そうな表情を向けた。
「いいっすよ、俺もそれで」
面倒になってきていた。
「わかりました。ではオーケイいただいたということで、あとはこちらと」
「了解っす」
「おう。また細かいことは詰めて、話するから」
やけにウキウキしたマネジャーと千葉を残して、ゴロウは階段を降りてカウ
ントダウンまで居てみるかと考えて、バーに寄ることにした。
「よう」
ラッパーのようなせりふで声をかけてきた〈みいちゃん〉は、今日は清楚な
白のワンピース姿でゴロウの前に立っていた。髪は上品な栗色になって、美少
女風だった。ゴロウの好みからすると、今日の格好の方が素敵だ。まじまじと
観ても、タメなんかじゃない、としか思えない。
「なんだよ、また連絡つかないで」
見た目と逆に、自分の方がはるか年下みたいに扱われている気がする。
「むくれてんの?」
「じゃないけどさ……出れる?」
無駄口を叩いてるより、二人になりたかった。
「いいけど」
「ても店開いてるかな」
「パフェ食べたい」
「え」
「チョコパフェ。ファミレスの」
たしかにそれなら開いてそうだ。表通りですぐ空車が拾えたのはラッキーだ
った。タクシー運転手は大晦日も働いているのだ。ファミレスといってもこの
辺りは知らないので、思い切って環七の、アパートの近くの店まで行ってもら
うことにした。〈みいちゃん〉は反対しなかった。
幸い、ファミレスも大晦日営業していた。客はまばらだ。一人客が多い。一
人でテレビの除夜の鐘を聴きたくないのかもしれない。パフェと、ゴロウはコ
ーヒーにした。
「すごい人気出たね、〈ねむりのゴロウ〉」
「あなたのせいじゃないの」
ゴロウは思い切って言ってみた。「せい」というのはちがうか。「おかげ」と
かなんとかいうことになるのか。〈みいちゃん〉は小さく笑って、赤紫のエナ
メルみたいなケースから煙草を出して自分でライターで火を点けた。ゴロウは
反射的に灰皿をそちらに滑らせる。
ゴロウは一気にここ数ヶ月のことを〈みいちゃん〉に説明していた。口を開
きながら、ずっと〈みいちゃん〉に相談したかったのだと気付いた。客が増え
てギャラが増え、専属契約になり、貯金もできるくらいになったこと。さっき
はラジオ番組の選曲まで頼まれて、なんだかもう後戻りできない感じで勝手に
進んでること。千葉って奴が、日本人の癒しが俺の選曲を求めてるんじゃない
かという珍説を披露。
「わかってるじゃない、その千葉さん」
煙草を消した〈みいちゃん〉は、葉巻状のクッキーをチョコに浸して口にく
わえた。なんかエロいねと言いそうになって、〈みいちゃん〉の猫のような黒
目の真剣さに打たれてやめておいた。
「そんなことあるのかな」
「現に起こってるんでしょう、いま。わたしが記事に書いたのもそういうこと
を含めた予言。わたし大学戻ったんだ、ちなみに」
ゴロウは、それならそれで仕方ないという気がしてきた。べつに気味が悪い
とも思わないし、たぶんプレッシャーもない。だって他人はそうでも、ゴロウ
には関係ないことだった。自分はただのDJなのだ。自分が気持ち良い曲をか
けるだけだ。
「やってみるかな。ギャラも入るし」
「大丈夫?」
〈みいちゃん〉が急に突き放したようなことを言う。
「大丈夫だろ、マネジャーもついてるし」
「やるべきだと思うけど、後悔することになるかもしれない」
「どういう意味」
「大人なんだから、そろそろ自分で考えなきゃね」
ゴロウは二の句が継げない。女に言われて口惜しいとかは、ゴロウの中には
ないのだ。それより、〈みいちゃん〉が敵か味方かわからない。ゴロウの世界
を肯定するのか否定なのかが分からない。ゴロウは言葉を失ってしまった。自
分の部屋にもどって音楽を聴きたかった。音に浸りたかった。〈みいちゃん〉
が一緒ならと夢想するが、今夜はそこまで言い出す雰囲気になってないことく
らいはゴロウにも分かる。
〈みいちゃん〉はパフェを食べ終わると、おトイレと言って席を立った。一
人でお代わりしたコーヒーも飲み終わるころ、〈みいちゃん〉がいつまでもト
イレから戻らないことに気付いた。パフェの容器は下げられているし、〈みい
ちゃん〉の持っていたバッグもない(そもそも持ってたか?)。誰が見ても、
ゴロウが一人でコーヒーを飲んでいるの図、になっている。トイレを覗きに行
くべきなのか。でもどう考えても不自然なほどの時間が経過している。〈みい
ちゃん〉はまたしても去ってしまったのだ。ゴロウにはそのことがはっきりと
感じられた。アパートまで一人歩いて帰る途中、〈みいちゃん〉に言われたこ
とだけが頭の中を占めていた。同時に、なんとかそれを無視しようとしていた。
《ねむりのゴロウのヒーリング・アワー》は、関東FMと全国ネットの各放
送局で、毎月第二と第四土曜日の夜七時から一時間の放送だった。二週間に一
回、選曲リストをディレクターに送って、電話で簡単な打ち合わせをすれば良
かった。放送局にない音源については、局のスタッフがゴロウのアパートまで
レコードを借りに来てくれた。そういうのは昔の輸入盤12インチなんかの場
合にはそれなりによくあった。
ディレクターは藤堂というゴロウと同い年の、いかにもやる気のありそうな
声の男で、ゴロウに声をかける企画段階から千葉と一緒に検討してきたらしか
った。
「千葉さんが言い出したときには、ちょっとオカルトっぽいなって、僕はじつ
は少し眉唾だったんですよ。すみません」
「ああ、俺もびっくりしましたから」
「でも一度だけクラブの方にもお邪魔させてもらって、ゴロウさんの選んだ曲
を聴いてるうちに、まったく知らない曲も多かったんですけど、なんともいえ
ない気持ちになって。田舎のおばあちゃんちのまわりの空気を思い出すみたい
な。すみません、ぜんぜんわかりませんよね」
「のどかな感じとか。のんびりして」
ゴロウは適当に話を合わせた。ゴロウにとってはただ〈気持ちいい音〉とい
うことなのだ。
「ええ。悠々と生きるというのかな。納得させられてました」
「そりゃどうも」
「スポンサーもうまくついてくれたし、局内でもある意味注目されてるんです。
がんばりましょう。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくです」
番組の反響は、好評という以上のものだった。少し時間差で、二回目の放送
が終わったくらいから、全国から圧倒的な数の葉書が寄せられるようになった。
リクエストを受け付けているわけでもなく、葉書を紹介するのでもない番組な
のに、それは異例なことだった。葉書は増え続け、ゴロウは千葉と藤堂に、麹
町にある局の近くのイタリアンレストランまで呼び出されることになった。
スプマンテで乾杯したあと、声の印象の通りにやたらガタイの良い藤堂が下
げてきた手提げ袋の中から、葉書の束をテーブルの上に出した。
「ほんの一部です。ご覧いただきたいものだけを持ってきました」
「すごいね、これだけでも」
「老若男女、全国津々浦々ですよ」
「ありがたいですね。ここでざっと拝見すればいいですか」
「あ、いや、たぶんお持ち帰りいただいた方がいいかと思います。すらすら読
める感じのものでもないので」
「ああ、番組あての葉書って、そういうもんなんですね」
「番組あてというか、ここにあるのは全部〈ねむりのゴロウ〉さんあてになっ
てます。それ以外は持ち出せないというのもありますが」
「なるほど」
番組の聴取率も良く、スポンサーにも評判が良いらしい。それにふさわしい
くらいに豪華な食事を終えて、タクシーチケットももらって、ゴロウは手提げ
バッグをぶら下げてアパートに帰った。ワインの酔いで良い気分で、ニューオ
ーリンズのファンキーなバンドのレコードをかけた。少し強い酒が飲みたくな
り、ジンをロックでチビチビやりながら、葉書をダイニングテーブルの上に全
部出して、音楽に合わせてふんふんと鼻歌気分で、少し〈スター〉の気分を味
わってみようと文案を眺め始めた。
転勤で赴任した地で津波にいまだ見付からない一人息子のことばかりが頭
も心もいっぱいに占めて、パンパンの風船のようにほかになにも入り込む余地
がないでいたわたしに、〈ねむりのゴロウ〉さんの音楽が初めてどこからか染
み込むように入り込んできて、これからだって人生はそのことだけじゃないん
だって伝えてくれたような気がしました。それは大阪府七十五才の女性だった。
我々のトラック修理工場は港のすぐ近くにあり仲間九人が亡くなりました。
私は内陸の得意先までトラックを届けに行き、すぐに戻る予定が知り合いだっ
たもんですからつい話し込んでしまい酒も出され、その日は半休取って戻らな
いことに変更しましたが、仮病みたいなことをしゃべって社長はそれ信じて許
してくれたのが、いまになってたまりません。社長のためになにか一曲という
わけにはいかないですか。
故郷の両親と兄妹、それに親戚一同の半分くらいがいなくなりました。東京
の大学に出してもらったばかりに私だけが残りました。これからもずっと、末
永く、私たち一家のような人たちのために心に沁みる選曲をお願いします。
リクエスト葉書とはあきらかに別のもので(リクエスト曲は求めていないの
だからそれは良いとして)、ゴロウは読めなくなった。酒が旨くなくなるなん
てことを言ったら炎上するのは分かり切っているから誰にも言えないが、そう
思ってしまうところがある。
ゴロウは〈あの日〉のことが分からないのだ。分からないというのはどうい
うことかというと、それはゴロウも当時はかなりテレビでものすごいあの光景
は何度も繰り返し目にしたし、目を背けたとかは一度もないし、どんなことが
起こったかは新聞や雑誌を含めて何度も目を通してそれなりに把握している
し、このところ一定期間内に起こった災害としては未曾有のものだということ
も理解している、つもりだ。
ゴロウが分からないのは、それで世界が変わったとか、あの日以前、あの日
以降であるとか、ぶっちゃけあらゆる人の死、殺人、事故死、戦争、その他む
ごたらしい世の中で、あの日だけがというか、あの日が一等特別なのだという
のが分からない。議論するつもりもない。ただ自分にはいまは分かってないと
いうだけなのだ。
翌朝、ゴロウは前の晩には読めなかった葉書をぜんぶ読んだ。ぜんぶの中に
はいろいろな内容のものがあった。楽しい番組ありがとうございますというの
もあったし、かかったレコードの番号をマニアックに質問してくるものもあっ
たし、DJになるにはどうすればいいか、真剣に進路を相談するような男子高
校生からの葉書もあった。そして昨日はゴロウが読めなくなってしまったよう
な内容の葉書もたくさん、たくさんあった。今日はなんとか目を通した。内容
を理解し、他人の人生を想像しようとしてみた。
火金のクラブでのプレイは相変わらず超満員だった。FMで番組を持ってる
DJというのはそういないし、そういう限られた連中はレギュラーでクラブで
プレイするというのは稀だった。マネジャーは相乗効果でホクホク顔で、ゴロ
ウにも文句はなかった。そして番組の方もますます聴取率が上がっているらし
い。とくに〈上〉の方の一定の地域で。その地域からの葉書が爆発的に増えて
いた。そういうのと俺の番組、選曲には関係はないのだ。ゴロウはそう自分に
繰り返し説明することがあった。そして葉書はぜんぶ読んだ。
ちょうど〈あの日〉から一年が経ったころに、懐かしい名前が葉書に書かれ
ていた。
株本智。KABA-Changだ。相変わらず沖縄に住んでいる。
《ゴロウ、久しぶり。番組スゲー良いよ。沖縄でも癒されてます。それでなく
ても癒しは足りてるはずなんだけどね、こっちでは。それはともかくお前の番
組は特別だよ。神レベルのその才能、見抜けなくてゴメン。お前はスゲーよ。
だってお前の番組一緒に聴いてるうちにさ、シゲヒコ(覚えてるよな)に思わ
ずプロポーズしちゃったから。笑 なんか余計なものを溶かすんだよな、ねむ
りのゴロウの選曲は。いまはパートナーのシゲヒコとレストランをやることに
しました。こちらに来たら寄ってください。東京から逃げた俺にくらべて、ゴ
ロウはエライ。じゃあまた。Hang in there!》
ゴロウはKABA-Changの体躯に似合わない細かくて端正な字で埋まった葉
書を何度も何度も読み返した。おめでとうともつぶやいた。そのあとで、畜生、
と自分のベッドで飛び上がりながら大声で叫んだ。スマホに手を伸ばして電話
をかけた。たぶん出ない。
「はーい、ねむりのゴロウさん」
あわててスマホを持ち直した。
「分かったって」
「分かったってなにが?」
「あなたの勝ちだって」
小さく〈みいちゃん〉が笑った。
「勝ち負けじゃないでしょう」
「やってやるってんだよ。や、できるかはわかんないけど、俺だってやれるぜ
んぶのことはやるって言ってんだよ」
「意味分かんない、いまいち」
「なんなんだよ……」
「いい傾向だと思うよ。無理しなくていいのよ、少しずつでいいんだから。あ
なたには出来ることがある。すばらしいことよ」
「その言葉、信じていいんだな」
ゴロウはすがりつくように訊いてしまう。
「ほらまた、悪いくせ」
「自分で考えるんだったな」
「学習してる。いい傾向」
「俺はとりあえずやってみる。だから……だから見ててくれ。聴いててくれ」
「そんなの当たり前でしょ、ちゃんと観察してるよ。それより今日空いてる?
飲もうよ」
フィールドワーカーの視線に愛はあり得るのだろうか? 文化人類学者で
マサイ族と結婚したのがいた気がする。
「空いてる、空いてる」
「じゃあお店決めて連絡して。おいしいもので癒されたい」
電話を終えて、夕方までにはまだ時間がある。ベッドに寝転がったままぼん
やりしていた。急に思い立った。深い意味はべつにないけど、代々木上原の家
に顔を出して皆の顔だけちゃんと見て来よう。ちょうど時間つぶしになる。玄
関でゴロウは久しぶりにお気に入りのスニーカーを履いた。
(了)
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