第五話 仲直りの甘い香りと、臆病な約束
昨夜の喧嘩から、部屋の中にはどこか気まずい空気が流れていました。 湊は部屋の隅で所在なさげに浮いているし、私は私で、昨日言い過ぎてしまった申し訳なさで、彼と目を合わせられずにいました。
「……あのさ、凪」
先に口を開いたのは、湊でした。
「昨日、変なこと言ってごめん。……おれ、凪が一人で泣いてるのを見るのが一番辛いから、つい……」
湊の声は、今にも消えてしまいそうなほど小さく震えていました。 私はキッチンでホットケーキを焼きながら、フライ返しを握りしめます。甘い香りが部屋に広がっているのに、胸の奥はまだチリチリと痛みました。
「私も、怒鳴ってごめん。……でもね、湊。私は湊がいない世界で幸せになる方法なんて、知らないんだよ」
焼き上がったホットケーキを皿に乗せ、私は湊の前のテーブルに置きました。彼が食べられないことは分かっているけれど、こうして二人の分を用意するのが、今の私の精一杯の「仲直り」の証でした。
「湊、これ。湊の分も作ったから」
「……ありがとな。いい匂い。凪のホットケーキ、昔から好きだったんだ」
湊はテーブルに肘をついて、嬉しそうにホットケーキを覗き込みました。 そして、フォークを持とうとする仕草をして、自分の指が皿をすり抜けるのを見て、苦笑いしました。
「あーあ。幽霊じゃなけりゃ、真っ先に食いついてるのにな」
その寂しそうな笑顔を見て、私はたまらなくなって、湊の影にそっと自分の手を重ねました。
「ねえ、湊。……約束して」
「約束?」
「もう、あんなこと言わないで。誰かを作れなんて、突き放さないで。……ずっと、私のそばにいて」
私がそう言うと、湊は一瞬だけ、ひどく悲しい瞳をして窓の外の海を見つめました。 凪いだ海は、夕暮れに染まり始めています。
「……分かった。もう言わない。約束するよ、凪」
湊は私を見つめ返し、優しく微笑みました。 でも、その時の湊の右手——。 テーブルに置かれた私の手と重なっているはずの彼の指先が、オレンジ色の夕日に溶けて、まるで最初から存在しなかったかのように透き通っていたのを、私は見て見ぬふりをしました。
「ずっと一緒だよ」という湊の言葉が、私の心に温かく、そしてひどく冷たく響きました。




