第三話 届かない指先と、重なる視線
湊が戻ってきてから、私の世界には少しずつ「音」が戻ってきました。 彼がいなくなってからの数ヶ月、私の部屋はしんと静まり返っていて、テレビの音さえ耳を通り抜けていくだけだったのに。
「凪。今、醤油じゃなくてソース入れただろ」
キッチンで目玉焼きを作っていると、湊がひょいと横から覗き込んできました。
「……あ、本当だ。湊、よく気が付いたね」
「当たり前だろ。おれ、ずっと凪のこと見てるんだから」
湊はふんぞり返って得意げに笑います。 幽霊の彼は、ご飯を食べることも、お皿を運ぶこともできません。でも、こうして私の失敗を笑ったり、どうでもいい話をしたりするだけで、朝ごはんの時間がこんなに温かくなるなんて思ってもみませんでした。
「……湊。一口、食べる?」
冗談のつもりで箸を差し出すと、湊は一瞬だけ寂しそうな、でもすぐに優しい笑顔を作って首を振りました。
「いいよ。凪が美味そうに食べてるのを見てるだけで、お腹いっぱい。……ってのは嘘だけど、まあ、満足してる」
私は、湊が座っているはずの椅子を見つめました。 そこには誰もいない。 光が透けて、ただの木の背もたれが見えるだけ。 けれど、湊の声がする方へ目を向けると、彼は中学生の時と同じ、少し猫背な姿勢で私を見ていました。
「ねえ、湊」
「ん?」
「私、今すごく幸せだよ」
そう伝えると、湊は不意を突かれたように目を見開きました。 それから、照れくさそうに視線を逸らして、小さな声で呟きました。
「……おれもだよ、凪」
湊がゆっくりと手を伸ばし、私の頬に触れる仕草をしました。 指先が皮膚をかすめる感覚はない。 ただ、そこにあるはずのない、湊の想いだけがじわりと胸に溶け込んでくるような気がしました。
「大人になってもずっと一緒にいるって約束、……守れなくて、ごめんな」
湊がポツリとこぼした言葉。 私は首を振って、彼の透明な手に、自分の手を重ねようとしました。
「いいよ。今、こうして一緒にいられるもん」
私が笑って答えると、湊は安心したように眉を下げて笑いました。 その笑顔が、ほんの少しだけ、朝の光に紛れて頼りなく見えたのは、きっと私の気のせい。
私たちは、失ったはずの時間を取り戻すように、ただ静かに、重ならない視線を結び合っていました。




