第十三話 第十三話:静かなる決別への助走
湊の足元が元に戻ったのを取り繕うように、彼はわざとらしく軽快な動作で図書室の椅子に腰掛けました。私はその様子に安堵するよりも先に、心臓を冷たい手で掴まれたような、言いようのない恐怖に襲われていました。
「……ねえ、空くん」
私は、隣で黙々と数学のワークを解いている空くんに声をかけました。空くんはペンを止め、私の少し強張った顔を見て、何かを察したように湊のいる「空間」を鋭く睨みつけました。
「凪。……あいつ、また透け始めてたのか?」
「……。空くん、見えるの?」
「いや、見えねーよ。でも、空気が急に薄くなったみたいに冷たくなるんだ。……おい湊、お前、無理してんじゃねーよ」
空くんの低い声が静かな図書室に響きます。湊は少しだけ困ったように、いつものように肩をすくめて見せました。 「無理なんてしてないって。おれは、凪が笑ってくれればそれで満足なんだ。それがおれのエネルギーなんだよ。なあ、凪?」
湊は私の顔を覗き込み、いつものように茶化すような笑みを浮かべます。その無邪気なふりをした言葉に、私は胸が詰まって言葉が出てきませんでした。 けれど、空くんはそれを許しませんでした。カチリとシャープペンの芯を折り、机に叩きつけるようにして立ち上がります。
「笑えるわけねーだろ、こんな状況で! お前がいつ消えるかもわからねーのに、無理に笑ってろなんて……。そんなの、ただの呪いじゃねーかよ」
「呪い……」
その言葉が、放課後の図書室の静寂に、重く、深く波紋を広げました。 湊は一瞬、弾かれたように顔を上げ、それからゆっくりと視線を自分の半透明な掌へと落としました。
「……そうだな。呪い、かもな」
湊の声は、これまで聞いたことがないほど掠れていて、今にも夕闇に溶けてしまいそうでした。 「凪にずっと笑っていてほしくて戻ってきた。凪の笑顔さえあれば、おれは消えずに済むと思ってた。でも、おれがここにいようとすればするほど、凪は無理して笑わなきゃいけなくなってる。……空、お前の言う通りだ。おれは、一番大切なやつを、おれ自身の未練で縛り付けて苦しめてるだけなのかもな」
「湊、そんなこと……そんなことないよ! 私は、湊がいてくれるだけで……!」
私が叫ぼうとした瞬間、湊の半透明な手が、私の唇をそっと塞ぐ仕草をしました。 実際には触れていないはずなのに、そこには確かな拒絶と、そして言葉にできないほど深い慈しみの「熱」が宿っていました。
「……凪。おれ、思ったんだ。おれが本当に『還る』べき場所は、ここじゃないのかもしれない。凪に必要なのはおれに無理に笑わされることじゃなくて、凪が笑いたいときに笑って、泣きたいときに泣けるようになれる場所なんじゃないかって。」
湊の輪郭が、窓から差し込む赤い夕陽を透過して、金色の細かな粒子を放ち始めました。
「おれが凪のそばにいると、凪は本当に幸せにはなれないのかもしれない」
空くんは何も見えないはずなのに、その粒子が舞い、温度が奪われていく気配を肌で感じ取ったのか、窓際のフェンスを白くなるほど強く握りしめています。
「宿題、終わらせるわ」
湊は、窓の外に広がる、黄金色に輝く海を指差しました。 そこは、三人があの日、幼い約束を交わし、将来の夢を語り合ったあの防波堤のある場所。
「明日、もう一度あの海に行こう。三人で。……それが、おれの最後の宿題だ」
湊の決意に満ちた、けれどどこか清々しい瞳を見て、私はどうしても返事をすることができませんでした。 それが、彼がこの一週間、密かに準備してきた「最高のサヨナラ」への合図であることを、私の本能が、そして溢れそうになる涙が、残酷なほど正確に理解してしまったから。




