凪の海に、願いは溶けて
「……嫌!! 湊、消えないで、お願い……っ!」
私は、半透明になった湊の胸元に向かって、祈るように両手を突き出しました。 けれど、指先が彼に触れる直前、湊の姿はパッと弾けるような光の粒子となって、夕闇の中に霧散してしまいました。
「……あ」
私の手は、何もない空間を虚しく掴みました。 潮風が吹き抜け、湊が座っていた場所には、ただ防波堤の冷たいコンクリートが剥き出しになっているだけ。湊の気配も、声も、すべてが嘘のように消え去り、そこには波の音だけが虚しく響いていました。
「……湊? うそ、……湊!!」
心臓が凍りついたような感覚。喉の奥が熱くなり、視界が涙で遮られます。 あの日、事故の知らせを聞いた時と同じ、真っ暗な絶望が私を飲み込もうとした、その時でした。
「……っ、……げほっ!」
誰もいなかったはずの空間で、唐突に激しい咳き込みが聞こえました。 私が顔を上げると、先ほど消えたはずの場所で、霧が集まるようにして湊の輪郭が急速に形作られていくのが見えたのです。
「……、……あー、びっくりした……」
湊は地面に膝をつき、自分の体を確認するように何度も胸を叩いています。 その姿は、消える直前よりもずっと濃く、夕闇の濃さに合わせるようにして、ゆっくりとこの世界に再構成されていきました。
「……湊?」
「……びびらせんなよ、凪。おれも今、マジで逝ったかと思った……」
私は涙が止まらず、その場に泣き崩れました。 隣で見ていた空くんは、私が何もない空間に向かって泣き、安堵している様子を見て、すべてを悟ったように優しい顔で私の肩を叩きました。
「……そこに、いるんだな。湊」
空くんの言葉に、湊が顔を上げました。
「おう。いるぜ、空。……お前の泣き顔、マジでブサイクだったからな」
私がそれを伝えると、空くんは鼻をすすりながら「うるせーよ」と笑いました。 空くんには湊は見えないし、声も聞こえない。けれど、私という「通訳」を介して、三人の時間は確かに繋がり直したのです。
帰り道。 駅へ向かって歩く私たちの真ん中で、湊はどこか誇らしげに胸を張っていました。
「なあ、凪。おれ、気づいたんだけどさ。おれの色が薄くなるのって、凪が泣いてる時か笑っているときじゃないか?」
「えっ、そうなの?」
「おれは、凪たちを笑顔にするために還ってきたんだから、2人が笑顔になれば、俺の役目は終わるし、逆に凪が泣いてれば、俺のいる意味がなくなるから、薄くなって、消える。ま、おれに消える予定はさらされねーけどな!」
「…さっき消えたくせに」
湊はいたずらっぽく笑いながら、私と空くんの間をぴょんぴょんと跳ねるように歩きます。 それが本当か、湊の適当な推測かは分かりません。 でも、私は心に決めました。
湊がずっとここにいられるように、私はもっと笑っていよう。 たとえ、彼に触れることができなくても。
「湊、空くん。……お腹空かない? どっか寄って帰ろうよ」
「賛成! おれは食えないけど、凪が食ってるのを見て食レポしてやるよ!」
「……凪、あいつ何て? ……ったく、勝手なこと言ってんだろうな」
夜の帳が下りる街を、三人の足音が響いていきました。




