第18話 境界を歩く
第18話 境界を歩く
午前。
出入口の台に忘却手順カードが新しい束で積まれた。新海が輪ゴムを外す。
「配るのは得意です」
「配るだけで終わらせてください」悠真。
「終わらせます。渡す/渡さないは、私の机で切り分けます」
紙一束で建物の水平が、ほんの少し戻る。
今日は森で封じ目の地図を見る日だ。
人には見せない。音読もしない。
道だけを見る。
持ち出すのは、簡易の土壌水分計、蒸散と葉温を見る赤外測定器、根圏の電位差を見る細電極。
拍子を渡す道具は、人の目に触れない地表パッドと微弱電流だけ。
里村は配線を肩に担ぎ、久我は剪定鋏を持たずに歩く。「今日は落とさない日ですから」
ELSIの松沼はカード束を鞄に差し、短く言う。「終わり方は先に渡します」
都市林の縁。
地図の上で赤く縁取った**“切れやすい帯”を、足でなぞる。
等間隔にピンフラッグを挿し、根に触れないよう浅く地表パッド**を差し、渡せの拍子を短く入れる。
人は見ない。音読もしない。
胸の奥に、短い四語が落ちる。
——結べ
——切れ
——渡せ
——渡すな
祈りの匂いはない。合意の口調。
一巡目。
渡せの拍子ののち、パッド周辺の根電位が素直に動き、数メートル先のピンでも遅れて応答が出た。
「渡った」里村。
続けて渡すな/切れの拍子。
地表の一線を跨いだピンだけ、応答が途切れて細くなり、代わりに深い経路が立ち上がる。
久我が幹の瘤を指さす。「塞ぎが立ってる。封じ目の線だ」
二巡目。
越境→形→光→根の階段を短く。
蒸散が落ち、葉温がほんの少し上がり、根圏水分が整う。
里村が目を細める。「静に寄っています。速さは使ってない」
歩を進める。
足元の腐葉土は厚く、斑の光が網を描く。
理沙がピンで印をつけながら、低く言う。
「“封じ目の線”、宛先が決まると縮む。決まらないと太る」
「関所は人件費がかかるからな」悠真が口角を上げる。「運用の話だ」
小さな空き地に出た。
一本の若い樹が乾き気味で、隣の古木は葉が厚い。
地表パッドを若木寄りに置き、渡せ→渡すな→越境→形→光→根。
若木の葉温が遅れて下がり、気孔の挙動が落ち着いた。
古木の方は、封じ目の反応が立ち、渡す道を狭めて若木へ送り出している。
里村が短くまとめる。「宛先が若木に立った。署名は、あの古木です」
久我が頷く。「癖になるんだ。誰が誰に送るか」
胸の奥に、古い手触りが落ちる。
——宛先
——署名
——封じ目
——届かせよ
音読しない。
道の奥へ。
鳥の声。遠い車の音。
人間の音は、網の外で薄くなる。
足元の落枝に注意しろ、と久我が手で合図する。
その時、数メートル先で枝が音もなく落ちた。
誰も触れていない。風もない。
「自分で落とした」久我は淡々と言う。「忘却=切断。防御だ」
理沙がカードを胸ポケットに触る。「終わり方、持ってる」
三人とも、目を閉じる/呼吸を浅く/音読しない——カードの順番だけを短くなぞった。
「……落とせが、命令じゃなく合意に聞こえるの、慣れてきました」理沙が目を開ける。
「慣れすぎには気をつけろ」悠真が笑い、ボトルの水を差し出す。「慣れは道具、慢心は事故」
さらに進む。
ピンフラッグが一列に並ぶ低い尾根で、渡せの拍子を薄く入れる。
応答は尾根の片側に偏り、もう片側は封じ目で絞られる。
里村が指で波形をなぞる。「偏りを作る。均すと飢えるから」
久我が木の表面を触る。「等分は、森では不正確だ」
陽一の胸に、短い列が沈む。
——均すな
——傾けよ
——宛先
——届かせよ
音読しない。
正午。
木漏れ日の下で、全員で水。
宮原から短いメッセージだけ届いた。
《今日は何もしません。終わり方の記事の追記だけ》
「何もしないが、今日は正解」悠真が空を見上げる。「難易度Sでも」
午後は封じ目の地図を仕上げる。
応答が切り替わる閾値に細いチョークで線を引き、宛先が立つと縮む線に二重線。
署名を推定できた箇所には、樹皮の特徴を控え、匿名化の記号を付ける。
松沼が傍らで見守り、必要最小限の言葉だけを置く。
「設問の片付け方は、人に対してだけではない。森にも、片付け方がある」
「封じ目がそれですね」理沙。
「ええ。渡すための切断」
薄暗くなりかけた頃、視る会の若者が二人、林道の端に現れた。
「森が喋るって本当ですか」
久我がゆっくり首を横に振る。「渡してるだけだ」
「見れば分かるのか」
理沙が息を整え、淡々と言う。
「**見れば“分かってしまう”**可能性がある。終わり方を持っていないなら、今日は帰って」
若者はしばらく黙り、頷いた。
「カード、もらえますか」
新海がすっと差し出す。「配るだけです」
最後の区画。
尾根から谷への斜面で、渡せ→渡すな→越境→形→光→根。
応答は、斜面下の湿りに偏り、上の乾きは封じ目で絞られ、回り道で遅れて合流する。
里村が短く言う。「傾けて残す」
久我が付け足す。「落として残す」
松沼がまとめる。「忘れて残す」
三つとも、喧嘩をしない。
胸の奥に、長い列が落ちてきた。
浅瀬の反射の明るさ。群れの温度。
——進む 危険
——留まる 絶望
——飽和 顎 刃 眼
——乾き 光 空気
——重さ 呼吸 塩
——層 干満 渚
——膜 表皮 厚さ
——連絡 管 網
——結び目/切れ目
——封 帯 蝋
——宛先 署名
——傾けよ(均すな)
——結論:届かせよ
——動きを捨てよ
——光を食え
——根を張れ
——群れで残れ
——必要なところで切れ
——渡せ
理沙が目を閉じ、カードの順番をもう一度なぞる。音読しない。
悠真は深く息を吐き、短く笑う。
「郵便だな。偏配の」
「郵便は血液です」理沙が返す。「止まると死にます」
里村がうなずく。「だから封じ目がいる」
研究棟に戻る前、温室に寄る。
葉は触れ、渡し、止まり、また渡す。
日中見てきた線の手触りが、ここでは小さく繰り返される。
久我が鉢の縁をコン、と叩く。「引いた線は、引き直せる。癖になれば、維持費が下がる」
松沼がカード束を指で整える。「終わり方を、先に渡す」
四人はうなずき、全員でカードを一度だけ見て、音読せずポケットに戻した。
夜。
ラボの板の間で、簡単な地図を清書する。
封じ目の細線、宛先で縮む二重線、署名の記号。
ホワイトボードの隅に、理沙が一行だけ書いて、すぐ消した。
《偏らせて、届かせる》
名付けは刃物。使って、しまう。
帰り際。
宮原から短いメール。
《“偏る配達”という表現は危ういので、“傾ける応答”にします》
「言わないで言ってる」悠真が小さく笑う。
外に出ると、街路樹が一度だけ細く揺れ、互いに触れて、離れた。
封じ目は渡すためにあり、宛先は残すためにあり、署名は責任の形をしている。
四語が、今夜も同じ重さで揃う。
視界の端で、顎/刃/眼が白く光っては沈む。
浅瀬は、まだこちらを呼ばない。
呼ばれないうちは、仮で充分だ。
仮で指差し、仮で切り、仮で渡す。
終わり方を先に持ったまま、明日も道だけを見る。
そして、分かってしまう分だけ、慎重に忘れ方を配る。