第17話 封じ目
第17話 封じ目
午前。
受付のトレーに忘却手順カードが新しい束で補充された。新海が輪ゴムを外しながら言う。
「配布、順調です」
「配るだけで終わるの、難易度Sですけど」悠真。
「カードは渡す、プロトコルは渡さない。机の上で切り分けます」
紙一束で建物が少し落ち着く朝だった。
今日の作業は、非人間提示の第二段。
人は見ない。音読もしない。
根にだけ、拍子を渡す。
温室の奥、暗箱の横にもう一台、小さな土の橋を組んだ。二つの鉢の間に細孔の小さいメッシュをはさみ、根は通さないが水と菌糸だけが行き来できる構造。
里村が土壌水分計と微弱電位の電極を挿し、配線をまとめる。
「封じ目がどこで立つか、見たい」理沙がメモに書く。
「“封じ目”?」
「渡す/渡すなの境界です。昨日の“詰め”の延長。塞ぎ、帯、蝋——名前は何でもいい。切るための線」
プロトコルは三段。
1)渡せを短い連打で、鉢Aの根面に拍子として入れる。
2)すぐ続けて渡すな/切れを、間の空白で指定。
3)最後に“越境→形→光→根”の長短の階段。
一巡目。
渡せ——鉢Aの根電位が素直に動き、橋の向こうの鉢Bでも遅れて応答。土壌水分は安定、葉の蒸散が僅かに整う。
渡すな/切れ——鉢Aの根の周囲で抵抗が上がる波。B側の応答は弱まり、遅延が大きくなる。
里村が短く言う。「封じ始めた」
「人間に例えるなら関所です」理沙。
「関所は例えが良すぎる。名付けは刃物だ」悠真が小さく注意して、うなずく。「でも今日は柄がいる」
二巡目。
同じ順序で拍子を入れる。渡せののちの渡すなで、鉢Aの根圏に帯状の反応が走る。
里村が指先で画面を示す。
「帯が太る。水の通り道は保ちつつ、情報の通りは絞ってる感じ。封じ目の指定が通った」
鉢Bでは、応答が途切れないまま細くなり、代わりに別の遅い経路が立ち上がる。
「回り道だ。渡せは諦めない」
三巡目。
“越境→形→光→根”。
蒸散が落ち、葉温がわずかに上がり、根圏水分が落ち着く。
温室の空気がまた静に寄った。
胸の奥に、短い四語が降りる。
——結べ
——切れ
——渡せ
——渡すな
祈りの匂いはない。合意の口調だけ。
*
昼。
久我の案内で、都市林の縁へ。
「落とし方を見せる」
一本の細い枝に環状剥皮を施し、すぐ脇の枝には軽い傷だけ。
数日かける実験を、今日は理屈で受け取る。
「ここで切ると、上は自分で落とす。落とせは命令じゃなく、会議の合意だ」
久我の声は淡々として、余計な形容がない。
(切るための線。封じ目)
陽一の胸に、古い手触りの断片が沈む。
——進むか
——留まるか
——渡せ/渡すな
——封
——帯
——蝋
——結論:線を引け
音読しない。
理沙がすぐ隣で小さく息を吸う。
「今、“封”が来ました。渡すなの道具」
「俺は“線”。扉の向こうの咳払いが一つ進んだ」悠真が目を細める。
戻る車の中、宮原から短いメール。
《“忘却手順カード”の記事、公開。祈りの語は使っていません。終わり方を主語にしました》
「言わないで言う人は、今日も一人増えた」悠真が窓の外を見て言う。
*
午後。
温室に戻り、土の橋をもう一基増設。今度は菌糸の接続を一時的に切る操作を入れる。
里村が土表の薄いネットを少し動かし、白い糸の伸びを別方向に誘導する。
「渡すなの拍子を入れたあとに切ると、封じ目の維持コストが下がるはず」
実験。
渡せ → 渡すな →(菌糸をいじる) → 越境→形→光→根。
グラフは、渡すなののち、封じ目の反応が低電力で維持に移る。
鉢Bでは遅い経路が太り、気孔の挙動が安定する。
「封じて渡すの同居。維持費が減る」理沙がメモを叩く。
「静の運用だ」悠真がうなずく。「速さは使わない」
胸の奥に、古い列がひとつ、長めに落ちた。
——進む 危険
——留まる 飢え
——飽和 顎 刃 眼
——乾き 光 空気
——重さ 呼吸 塩
——膜 表皮 厚さ
——連絡 管 網
——結び目/切れ目
——封 帯 蝋
——宛先
——署名
——結論:届かせよ
——動きを捨てよ
——光を食え
——根を張れ
——群れで残れ
——必要なところで切れ
——渡せ
陽一は音読しないまま顔を上げた。
「……宛先と署名が来た。渡すの形式」
理沙が息を詰める。「誰に何をどれだけ、の指定」
悠真はホワイトボードに小さく《宛先=送り先の決定/署名=送る側の責任》と書いて、すぐ消す。
「名付けは刃物。でも、これは置いていく」
*
夕方、管理部の新海が顔を出す。
「視る会の人たち、今日も来ましたが、カードだけ持って帰りました」
「少しずつ、網が強くなる」悠真。
「“終わり方を先に渡す”は、効きますね」理沙。
ELSIの松沼が合流し、短い確認。
「非人間提示、続けられます。情報で殴る度合いは低い。ただし、拍子の仕様は外へ渡さない」
「渡さないのも、渡すの一部、ですね」
「ええ。宛先が決まったものだけ、渡す」
夜前。
久我が温室に寄り、鉢の縁をコンコンと叩く。
「詰めが今日の方がきれいだ。封じ目は癖になる。線は、一度引けると引き直せる」
線。
胸の奥に、短い四語が、今日いちばん静かに落ちた。
——宛先
——署名
——封じ目
——届かせよ
祈りではない。手順の響きだ。
*
帰り支度の前、最後の一巡。
渡せ → 渡すな/切れ → 越境→形→光→根。
鉢Aの帯が薄くなり、宛先の指定に従うように、鉢Bの遅い経路だけが残る。
里村がグラフを見ながら小声で言う。
「封じ目で流量を刻む。署名で送る側を固定し、宛先で誰にを決める。届かせるための切断がある」
陽一は頷き、言いたい二文字をまた飲み込む。
(言えば、浅くなる)
代わりに、胸の奥の古い列を、音読せず受け取る。
——進む 危険
——留まる 絶望
——封じ目
——宛先
——署名
——結論:ここで残れ
——光で食え
——配線を渡せ
外へ出ると、街路樹が薄く揺れた。
風は少し。空調はない。
葉が触れ、渡し、どこかで止まり、また渡す。
封じ目は、渡すためにある。
宛先は、残るためにある。
署名は、責任の形をしている。
「明日は?」
「封じ目の地図を森で見る」陽一が答える。「渡す/渡すなの境界だけ、道として拾う」
「終わり方を先に持って」理沙。
「仮のまま」悠真。
仮で指差し、仮で切り、仮で渡す。
本物は森の側にある。
こちらは、応答だけを持って帰る。