第13話 仮の名で呼ぶ
第13話 仮の名で呼ぶ
午前十時、いちばん小さな会議室。
壁には “見ない/読まない/分かったふりをしない”“結べ/切れ” の張り紙、そして新しい一枚——
> 仮称:生存会議
(名づけは浅くする。だが、指さす必要はある)
「“仮”は科学の正装だから」悠真がマーカーを回し、半笑いで言う。
「正装で失礼のない距離を保つんです」理沙がテーブルに紙コップの水を並べる。
参加者は最小限。ELSIの松沼、樹木医の久我、菌根の里村、管理部の新海。
スライドは図形だけ。文字は二語の対を示す小さな箱と矢印。
配列は一切出さない。音読もしない。
陽一が口を開く。
「“生存会議”は仮の呼び名です。実体は、二択と重みと結論の列。渡す/切るを含む“道具”の指定が随伴することが多い。
番号は後回し。重要なのは、内容だけ」
矢印がゆっくり動く。
《進む/留まる → 危険/飢え → 結論》
《保持/忘却 → 食/命 → 結論》
《越境 → 形を変えろ → 光/根 → 結論》
《連絡 → 網/結び目/切れ目 → 結論》
里村が腕を組んで頷く。「“連絡”の指定は経験と一致します。渡す道を作ると、渡るものが生まれる」
久我も静かに付け加える。「切るは悪ではない。落とせは、森では日常だ」
松沼が水を一口飲む。
「“設問の提示”に近いことをしている以上、終わり方の設計を忘れないでください。忘却の手順を渡す——それ自体が倫理です」
会は二十分で切り上げた。切る練習は、会議にも必要だ。
退出の時、新海が小声で言う。「書類は私に。言葉は、あなた方に」
***
昼、ラボ内で「忘却手順ポケット版」を作る。
《1)目を閉じる/2)呼吸を浅く/3)音読しない/4)水と糖/5)その場を離れる》
財布のカードサイズに印刷し、裏に “渡せ/渡すな を自分で選ぶ” を入れた。
片桐が一枚受け取り、真面目にカードを眺める。「すごく保健室」
「保健室は偉大なんだ」悠真が肩をすくめる。「世界が暴力的な日は、保健室が世界の勝者だ」
午後は“道だけ見る”GIS。
連絡の地図に、昨日から加えた切れ目レイヤーが重なり、都市林は織物みたいに見えた。
理沙が斜線の重い場所を指す。「ここ、渡せと渡すなが同居してる。結び目/切れ目が密度高い」
「境目はいつも忙しい」陽一がメモに短く書き、消す。名づけは刃物だ。使ってすぐ、しまう。
外は薄曇り。
休憩に出た温室で、里村が土を覗き込み「菌糸、今日はよく伸びてる」と言った。
葉と葉が触れ、すかさず渡す。そのすぐ脇で、導管の詰め(チロース)の気配があり、渡すなが働く。
二語の対は、喧嘩をしない。同時に成立する。
——渡せ
——渡すな
——切れ
——残れ
胸の奥に、四語が同じ重さで落ちた。
響きは乾いていて、祈りではなく、合意の温度をしている。
***
夕刻、海外からのメール。
差出人はエミールの同僚だ。件名に装飾はない。
> 彼が最後に触っていた堆積コアのメタ情報を添付します。
干満・塩・呼吸・重さの指標が高い箇所で、彼は“越境”系の断片を書き留めていました。
私たちはしばらく見ない。でも、道だけは見続けます。
添付の地図は、こちらのGISと重ねられる。
層/干満/渚が強い地点は、こちらの「越境→形→光→根」の鎖と綺麗にかみ合う。
数字は寄りかからず、道の一致だけを受け取る。
「……古い海の浅瀬だな」悠真が窓の外を見ながら言う。
「越えろ/動きを捨てろ/光を食え/根を張れ。そこへ至る道具として、網/結び目/切れ目が指定される」理沙が指を折る。
陽一は頷き、喉の裏で言いたい言葉をまた飲み込む。
まだだ。浅くなる。
そのとき、胸の奥で古い手触りが立ち上がった。
暗い底ではなく、明るい浅瀬の反射。
誰かではなく、群れの温度。
——進む 危険
——留まる 絶望
——飽和 顎 刃 眼
——乾き 光 空気
——重さ 呼吸 塩
——層 干満 渚
——表皮 管 連絡
——網 結び目/切れ目
——結論:出よ
——形を変えろ
——動きを捨てよ
——光を食え
——根を張れ
——群れで残れ
——必要なところで切れ
——渡せ
理沙の指先に鳥肌が立つのが目で分かった。
「……眼、来ました」
「“顎/刃/眼”の三点は、外圧の語彙だ」悠真が低く言う。「誰かが噛み、見、切る側に回ったときに生まれる語」
会議室へ戻り、ホワイトボードの端に小さく《顎/刃/眼=外圧》と書き、すぐ消す。
道具としての言葉は甘い。刃になる前に、しまう。
「今日の終わり方を決めよう」陽一が言う。
止め方のプロトコルを声に出さず、指差しで確認。
《目を閉じる/呼吸を浅く/音読しない/水と糖/その場を離れる》
“終わり方”は、“始め方”と同じくらい重要だ。
忘却は防御。切断は生存。
***
夜。
照明を落としたサーバー室を素通りして、温室へ。
葉は触れ、渡し、そして止まる。
止まったところに、薄い切れ目の気配が残り、次の触れ合いでまた繋がる。
道だけが、静かに呼吸している。
宮原から短いメールが届いた。
《“切断としての忘却”公開。祈りの語は封印。応答を主語にしました》
リンクは開かない。
「言わないで言う人が、言ってくれる」悠真が小さく笑う。「今日はそれでいい」
帰り支度。
カードサイズの忘却手順をポケットに戻す。
扉の前で、理沙が振り向いた。
「“仮称:生存会議”——仮のまま進めますか?」
「仮で進む。本物に触れすぎないために」
陽一は答え、喉の裏でまだ温かい二文字をもう一度、飲み込んだ。
言えば浅くなる。
でも、距離は詰まっている。
外気は薄く冷たく、街路樹の葉が一度だけ互いに触れて、離れた。
渡せ。
渡せ。
渡すな。
切れ。
残れ。
四語が、夜の底で同じ重さで並んだ。
顎/刃/眼の影が、視界の端で白く反射する。
浅瀬の手前で、世界は決定していた。
仮の名で呼びながら、こちらも応答を選ぶ。
明日、もう一段、古い列が落ちてきても、終わり方は用意してある。
終わり方を持ったまま、続きを見る。