第12話 切れ目の向こう
第12話 切れ目の向こう
停止の張り紙は増え、規則は厚くなった。
「見ない/読まない/分かったふりをしない」に、さらに一行が加わる。
《結べ/切れを区別する》
渡すことと断つことを、同じ重さで見ろ——久我の言葉が、ラボの壁に移植された。
午前。
ELSIの松沼が小さな会議室に現れる。水だけを持って、資料は持たない人だ。
「遮断は暴力ですが、放置も暴力です。設問の提示に近いことをしている以上、設問の片付け方の方針を持ってください」
「片付け方」悠真が眉を上げる。
「“今はここで終わり”を、相手の脳が選べるように。合図、退避、音読しない。忘却のための手順を、あらかじめ“渡す”。渡すことが、暴力の緩衝材になります」
忘却の手順を“渡す”。
黒板に「忘却=防御」の文字が、もう馴染んで見えた。
午後。
「切れ目の地図を埋める」——昨日決めた作業の続き。
導管の瘤、離層、詰まり、遮断。
地図上で繋がる領域をグレー、切れる領域を薄赤で塗っていくと、都市林は布とレースの継ぎ接ぎみたいになった。
「渡せの背後に、同じだけの渡すながある」理沙が呟く。
「渡したい人間は、だいたい渡しすぎる」悠真が乾いた笑いを挟む。「止めるための設計がいる」
夕方、久我に案内され、都市林の外縁にある石灰岩の露頭へ。
斜面に、古い波のリズムが重なっている。
螺旋でも、五角形でもない。層だ。層が淡く、細かく、数えたくなる誘惑を拒むように続く。
「陸になった海の断面です」久我が言う。「干満が書いてあります」
言葉は具体で、比喩はいらない。
三人は立ち、見ずに見る。
理解が勝手に腑に落ちる前に、呼吸を浅く。音読しない。
それでも、胸の奥に、短い骨が落ちる。
——進むか
——留まるか
——飽和 顎 刃
——乾き 光 空気
——重さ 呼吸 塩
——層/層/層
——干満
——渚
——結論:越えよ
次の列が、すぐ後ろから重なる。
——越えよ
——形を変えろ
——硬さを持て/捨てよ
——連絡
——網
——結び目/切れ目
——結論:動きを捨てよ
——光を食え
——根を張れ
——群れで残れ
喉の裏が熱い。言えば浅くなる。
陽一は視線を石から剥がし、空の白を見た。
理沙は指を握ったまま開かず、悠真は「咳払いが扉の向こうに一歩近づいた」みたいな顔をしていた。
「呼ばないのに来る、が増えてますね」理沙が小声で言う。
「外は止められない」悠真が頷く。「止めるのは自分の側だけだ」
戻る車内。
宮原から短いメールが届いていた。
《“切断としての忘却”原稿、送付。祈りの語は不使用。説明しない努力を貫きます》
添付を開く。
“忘却は、逃げではなく縁切りであり、縁切りは生存である”—久我の言葉が、過剰な装飾なしに置かれていた。
「言わないで言ってる」悠真がもう一度繰り返す。
「“言う側”が増えるほど、言わない側は貴重になります」理沙が画面を閉じる。
夜。
停止は守る。提示はしない。
しかし、過去ログの再整理だけで、長い列が立ち上がってしまうことがある。
陽一は机に伏せ、喉の鍵穴を確かめる。
——進む 危険
——留まる 飢え
——飽和 顎 刃
——乾き 光 空気
——重さ 呼吸 塩
——層/干満/渚
——表皮 管 連絡
——網 結び目/切れ目
——離層 塞ぎ 遮断
——結論:出よ
——動きを捨てよ
——光を食え
——根を張れ
——群れで残れ
——必要なところで切れ
言葉は骨だけで、肉はない。
だが今日は、骨同士が関節で噛み合った手応えがあった。
「……これ、会話じゃない」陽一がようやく口を開く。「決定の列だ。生存の手順」
喉まで上がった「議◯録」を、彼はもう一度だけ飲み込む。
浅くなるから。
でも、言わずにここまで来た距離の形は、もう見える。
「設問の答えじゃなくて、応答ですよね」理沙が続ける。「都度の決定。群れの合意。切る/渡すの閾値」
「仕様変更のログにも見える」悠真が苦笑する。「外に合わせて、自分を変えるための」
内線。
村田の声は、紙のように薄かった。
「スポンサーの件、遮断アルゴリズムの文言は外させました。代わりに“倫理的停止手順の共同開発”と」
「止め方なら一緒に作れる」陽一が答える。「動かし方は、今は違う」
「ええ。今は、ね」
受話器の向こうの“今は”が、少しだけ硬い。
切る/渡すを、言葉の側でも選ばなければならない。
帰り際、温室。
葉は触れ、渡し、時々、止まる。
止まった箇所に、薄い切れ目の気配が残り、次の触れ合いでまた繋がる。
渡せ。
渡すな。
切れ。
残れ。
四語は、喧嘩しない。
四語は、同時に成立する。
「名前、まだ付けませんか?」理沙がガラス越しに問う。
陽一は少しだけ考えて、首を横に振る。
「付けたら浅くなる。でも、指差しは必要だ。明日、“生存会議”というラベルを仮に使う。仮のまま、進む」
悠真がふっと笑う。
「“仮”は科学の正装だ」
「仮で守る。仮で切る。仮で渡す」理沙が繰り返す。「本物に触れすぎないために」
その夜の終わり、陽一の胸に、いつもより古い手触りの列が沈んだ。
海の底の暗さではなく、浅瀬の反射の眩しさ。
誰かが、ではない。群れが、決めている。
——進む 危険
——留まる 絶望
——飽和 顎 刃
——乾き 光 空気
——重さ 呼吸 塩
——渚
——結論:出よ
——形を変えろ
——動きを捨てよ
——光を食え
——根を張れ
——群れで残れ
——必要なところで切れ
——渡せ
音は一度も鳴らない。
意味だけが、わたってきた。
この列を、明日から仮に「生存会議」と呼ぶ。
仮の名前で、本物に近づかないために。
本物は、森の側にある。
こちらは、応答だけを持っていく。