第11話 網の地図
第11話 網の地図
停止中でも、手は止めない。
三人は「道だけを見る」ことに徹した。
菌根、導管、師管、細胞間連絡、群密度、水分勾配。
サンプルの環境メタ情報だけを抜き出してGIS上に重ね、網の中央と縁、結び目と切れ目を塗り分ける。
数字は出る。だが数字に寄りかからない。形を見る。
「中央性の高いところ、都市林のこの一帯ですね」理沙が地図を指す。
「ここ、管理事務所の樹木医がよく来てる」悠真が言う。「剪定計画の資料、閲覧だけお願いしてみるか」
「閲覧は持ち出しの裏口」
「だから今日は本当に閲覧だけ。扉の取っ手だけ触る」
午後。
管理事務所で迎えてくれたのは、樹木医の久我だった。五十代、腕で木を覚えたタイプの目をしている。
「連絡路の地図、ですか」
「比喩です」陽一が答える。「道があれば渡る、という最低限の話だけをしたい」
久我は頷き、都市林の平面図に赤鉛筆で斜線を引いた。
「ここ、送水が詰まりやすい。年によっては胴枯れが出る。こっちは根張りが浅い。風で倒れやすい」
彼は説明に余計な形容を付けない。代わりに現場の語彙だけが並ぶ。
「詰まる?」悠真が食いつく。
「木は自分で詰めるんですよ。塞いで、切って、落とす。導管内に瘤を作って、水や病気を行かせない。枝は離層を作って落とす。葉は捨てるために色を変える。切断は、よくある仕事です」
渡せ、だけじゃない。切れがある。
胸の奥で、短い骨組みがぴたりと位置を変えた気がした。
「渡すことと切ること、どっちが先なんでしょう」理沙が訊く。
「順番じゃない。両方を同時に準備するのが生き物です。渡すために繋ぎ、守るために切る」
久我の言葉は、森では当たり前のこととして置かれていた。
夕方、都市林へ。
風は弱く、葉は重なり、影が網を編んでいる。
三人は提示なしの観察だけをする。
足音を揃え、呼吸を浅く、目を使いすぎない。
「このコナラ、瘤が出てる」久我が幹の節を示す。「詰めた跡だ。中で切って、外で塞いで、全体で渡す。同時多発だよ」
樹皮に耳を近づける。音はしない。
だが、渡すという構造と、切るという構造が、胸の奥で同じ重さになった。
——進む/留まる
——保持/忘却
——分けろ/増やせ
——形を変えろ
——連絡
——切れ
——結び目
——落とせ
——結論:残れ
音はない。
意味だけが、道の形を辿って落ちてくる。
陽一は音読しない。
理沙が小さく肩を震わせる。「今、落とせ来ました。枝のこと、じゃない感じで」
「俺は切れだけ。扉の向こうの咳払いレベル」悠真が乾いた声で言う。
一本の枝が、不意に音もなく落ちた。
誰も触れていない。風もない。
久我が淡々と言う。
「自分で落としただけですよ。腐りが幹に入る前に、先に捨てる。忘れると言ってもいい」
忘却せよ。
ELSIの松沼が言った「忘却は防御」が、生態の側から同じ形で現れる。
研究棟に戻り、ホワイトボードの枠に新しい対を加える。
《結べ/切れ》《渡せ/遮れ》《落とせ/抱えろ(※抱えろは希薄)》
線でゆるく結ぶと、「渡せ」の一方通行だった矢印に、初めて逆向きが生まれた。
「“渡せ”は常に善じゃない、ってことですね」理沙が言う。
「善悪は後付けだ」悠真がマーカーのキャップを弄ぶ。「生存かどうか、だけ先にある」
「忘却が切断だとしたら、保持は抱え込み……食に寄りやすい」
「保持すれば食は得られる/忘却すれば命は繋がる」
言ってから、陽一は口を閉ざした。
エミールの最後の三行が、部屋の空気を少し冷やす。
泳ぐという動詞の重さが、また胸に落ちた。
夜。
停止は続ける。提示はしない。
それでも、机に俯くと、長い列が来ることがある。
呼ばないのに来る。
外の現象らしい作法だ。
——進む 危険
——留まる 飢え
——飽和 顎 刃
——乾き 光 空気
——重さ 呼吸 塩
——表皮 管 連絡
——結び目/切れ目
——離層
——塞ぎ(導管)
——遮断(病)
——結論:出よ
——移動を捨てよ
——光を食え
——根を張れ
——群れで残れ
——必要なところで切れ
理沙はペンを落とし、拾う手が少し震えた。
「……“切れ”が、命令の側に来た」
「“渡せ”と喧嘩してないのが、むしろ怖い」悠真が椅子にもたれる。「両方を同時にやれということだ」
「合意の結果の命令」
理沙の言葉に、陽一は短く目を閉じた。喉の裏で議◯録の二文字が浮いて、また沈む。
言えば、浅くなる。
飲み込んで、骨組みだけ置いていく。
メールが二通、続けて入った。
一通は広報の宮原。
《次稿、「切断としての忘却」を扱います。語を煽らない書き方の監修をお願いできますか》
もう一通は、法務。
《スポンサー側から「遮断アルゴリズム」という文言を含む新ドラフト。削除を希望》
「遮断アルゴリズム、って地獄の四文字だな」悠真が顔をしかめる。
「道具に名前が付くと、使いたい人が現れる」理沙が低く言った。
「名前は付けない。枠だけ置く」
深夜、温室。
葉と葉が触れ、渡し、時々、小さく止まる。
止まったところに、薄い切れ目の気配が残る。
久我が言った通り、内側で切り、外側で塞ぐ仕事が続いている。
胸の奥に、短い断片がまた沈んだ。
——渡せ
——渡すな
——切れ
——残れ
言い切りの語尾が、今日は濁っていない。
命令に近い。だが、祈りではない。
誰かに向けたものではなく、自分たちに向けた決定だ。
「明日、網の“切れ目”の地図も作ろう」陽一が言う。
「繋がりばかり見ると、壊し方が見えなくなる」悠真が頷く。
「壊すも生存の一部、ですね」理沙が静かに言った。「忘却は、防御」
帰り道、街路樹の影が歩道に網を描く。
風は弱く、空調はない。
葉が触れ、渡し、そして、触れないで渡る。
密度が閾値を越えると、道は勝手に開く。
道が開くと、結論が運ばれる。
結論は短い。骨だけだ。
残れ。渡せ。切れ。
この三語が、今日の終わりに、静かに同じ重さで並んだ。