第10話 連絡という器
第10話 連絡という器
停止中のラボは、逆に忙しくなった。
「見ない/読まない/分かったふりをしない」を守りながら、渡す道だけを洗い出す。
“管”“連絡”という語がホワイトボードの中央に置かれ、そこから細い線が四方へ伸びた。
《表皮》《連結》《群密度》《通信路》《根》《菌》——名付けは危険だと分かっていても、道具を置かないと手が滑る。
「菌根ネットワークの専門、学内にいましたよね」
理沙が名簿をめくり、名札のように指を止める。「里村(日下部)先生。フィールド派。連絡が早い」
「連絡が早いのは、今日に限って褒め言葉だな」悠真がスマホを取り、ショートメールで短く打つ。《温室で10分、解説だけ、提示なし》
五分で「行きます」と返ってきた。早い。ネットワークは、生き物の方がうまい。
昼過ぎ、里村(日下部)は軽いウィンドブレーカー姿で現れた。
泥の跡が残るトレッキングシューズ。目はやさしいが、返事は速い。
温室に招き入れると、「ほう」と一言だけ声が漏れた。
「いい温室ですね。空調を切ると、植物の会話がよく見える」
「会話?」理沙が意地悪く問い返す。
「比喩です。正確には資源の勾配とシグナル。菌根と導管と師管、そして細胞間連絡。渡す道です」
里村はフィカスの鉢の縁を指で叩き、少し離れた土壌の表面を覗く。
「菌糸が張ってますね。鉢同士、つながってる」
「空調なしで揺れるのは?」悠真。
「湿度の勾配。表面張力。葉が葉を揺らすこともある。触れれば渡る。物理も化学も、会話の材料ですよ」
「菌根は、渡すためのインフラだと?」
「ええ。窒素・リン・水、そして情報。乾燥の予兆、病原体の侵入、食害。誰かが噛まれたという知らせが、誰かの気孔を閉じさせます」
里村は淡々と語り、過剰な熱を慎重に避けた。
「会話という言葉は嫌われます。僕も安易には使いません。けど、“渡す道がある”ことだけは事実です。道があれば、渡るものが生まれる」
温室のガラス越しに、葉が触れ、また触れた。
渡せ。
渡せ。
胸の奥に、同じ一語が落ちる。
「……先生、**“連絡”という語を最近よく拾います」陽一が言った。「管とセットで来る。渡す道の形が、内容の方を呼ぶ感じがする」
「道は形を選びますから。細ければ早く、太ければ多く、硬ければ遠く。形は、渡す内容を変えます」
理沙がうなずく。「“形を変えろ”**という断片も、よく落ちます」
「合理的です。外に出るなら、中身は持ち運び仕様にしないと」
里村は10分を守って帰った。
「呼ばないで来るときは、無理に意味を付けないでください」とだけ言い残して。
呼ばないのに来る——外の現象にふさわしい作法だ。
午後は、提示なし解析の続き。
“管/連絡”に関わりそうなメタ情報だけを拾う。
群密度が高いサンプルで“渡せ”が優勢、導管・師管に富む組織で“形/硬さ”が現れやすい。
菌根共生の指標遺伝子が豊富な土壌では、“越境”と“渡せ”が同時に顔を出す傾向。
数字を並べながら、数字に寄りかからない。
浮かぶのは、境目で連絡路を作って生き延びるという構図だ。
「“連絡”は個人の記憶でも、群れの記憶でもあるのかもしれない」理沙がメモを閉じる。
「記憶という語は甘い。保持/忘却の延長で言うなら、渡す記憶だな」悠真が白板に《保持(個)/渡す(群)》と書いてすぐ消す。「名付けると、安くなる」
「でも、枠だけは置く」陽一は静かに言う。「止めると決めた日には、枠が必要だ」
夕方、広報の宮原から短い連絡。
《明日、森の取材で同行可なら30分。提示なし、観察のみ、OK》
「森は、危ない」悠真が即答で返す。
「温室より連絡路が桁違いですからね」理沙が頷く。「でも、見るだけなら」
「見れば分かってしまうことがある」
「分かってしまったときの止め方を、もう一度決めてから行く」
三人は“止めるプロトコル”を上書きした。
《1)足を止める 2)目を閉じる 3)呼吸を浅く 4)音読しない 5)合図で場所を離れる》
救急箱、糖、塩タブレット、水。保健室の再現。
夜。
帰る前に、いつもの温室。
葉が触れ、渡し、また触れる。
胸の奥に、短い列が手触りのあるまま落ちた。
——分けろ
——増やせ
——形を変えろ
——連絡
——結び目
——網
——根/菌
——結論:群れで残れ
喉の裏側で、議◯録という語が浮いて、また沈む。
言えば浅くなる。飲み込め。骨組みだけ置いていけ。
「今の、どう?」悠真が横顔で訊く。
「網と結び目。連絡が、構造を要求してる」
理沙が白板に小さく《網/結節点》と書き、線を引いて《渡せ》に結ぶ。
「“渡せ”は方法でもあり、合意でもある」
「合意?」
「誰が何をどこへどれだけ送るか、の取り決め。群れの生存に関わるから」
「取り決め」と言った瞬間、陽一の胸の奥で、長い列が開いた。
止めているのに、来る。
彼は合図も出さず、音読しないまま受け取った。
——進む 危険
——留まる 飢え
——飽和 顎 刃
——乾き 光 空気
——重さ 呼吸 塩
——表皮 管 連絡
——網 結び目
——結論:出よ
——移動を捨てよ
——光を食え
——根を張れ
——群れで残れ
息を吐く音が小さく漏れた。
理沙が気づき、顔色を確かめる。
「大丈夫?」
「大丈夫。骨だけだ。肉は乗ってない」
「肉が乗るのは、向こうの仕事ですからね」悠真が窓の外を見た。「こっちは骨を並べるだけ」
その夜、村田の部署からの持ち出し試行はなかった。
代わりに、スポンサーから丁寧なメールが届いた。
《モデル適用の前倒しは撤回。現象の再現性確認に集中》
法務が「珍しい」とだけ言い、松沼は「死人が出ると言葉は変わる」と冷たく言った。どちらも正しい。どちらも足りない。
翌朝。
小さな都市林。宮原の取材同行は、観察のみ、提示なし。
入り口で合図を決め、森に入る。
風は弱く、葉は重なり、影が網を編む。
「網」理沙が小さく呟き、すぐ口をつぐむ。
足音をゆっくり。渡る音を邪魔しないように。
陽一は、一本の幹に手を近づけ、触れずに離した。
幹の下で、細かな誰かのやり取りが、網の目を通って別の誰かに転送されるイメージが、言葉の外側で立ち上がる。
渡せ。
渡せ。
渡せ。
胸に落ちるのは同じだが、深さが違う。
都市林の網は厚く、結び目は強い。
——進む/留まる
——保持/忘却
——分けろ/増やせ
——形を変えろ
——連絡
——網
——結び目
——重さ
——呼吸
——結論:ここで残れ
陽一は音読しない。
宮原が横目でこちらを見、何もメモせず、ただ呼吸を揃えて立った。
彼女は言葉を持つ人だが、今は言葉を置く人になっている。
それは稀で、助かる。
森を出る直前、足元の落ち葉が、風もないのにほんの少しだけ伝わるように揺れた。
里村が昨日言った「触れれば渡る」が、ここでは「触れなくても渡る」に変わる。密度が閾値を越えると、道は勝手に開く。
研究棟に戻ると、広報から宮原の記事のゲラが届いていた。
『“応答”としての生存——森で見た連絡』
祈りも設計図もない。
「言わないで言ってる」悠真がもう一度そう言い、理沙はサムズアップを一つだけした。
夜。
温室で、葉が触れ、渡す。
胸の奥で、骨が並び、骨が繋がる。
名付けたい衝動が喉に上がり、議◯録の二文字が舌の裏で転がる。
まだだ。
カンブリアという単語が視界の端に白く光る。
まだ、そこへは行かない。
でも——道の形は、もう揃った。
越境/連絡/形の変更/光/根/群れで残れ。
この順番で、世界は決定を重ねた気配がある。
「明日は?」
「網の地図を作る」陽一が答える。「菌/根/導管/師管/土壌水分。提示なし、内容なし、道だけ見る」
「道は道を呼ぶ」理沙が笑う。
「そして、道は結論を運ぶ」悠真が続ける。
「結論は?」
三人は同時に黙った。
言い切らない努力は、まだ有効だった。
夜風が温室のガラスを薄く冷やし、葉が一度だけ小さく触れた。
渡せ。
渡せ。
渡せ。
世界は、こちらが止めても、渡すことをやめない。
だからこちらも、受け取り方を研ぐ。
名づける前に、骨を並べる。
骨が揃ったら、誰の骨かを言う。
それが、危険の種類を選ぶやり方だ。