第9話 渚の手前で
第9話 渚の手前で
停止中の張り紙は増えたが、ラボは止まらなかった。
「見る/見せるは禁止」の代わりに、「場所を見る」が仕事になった。
深さ・流れの断片が多かった採取点にピンを打ち、地形図に重ねる。河口、干潟、湧水、石灰岩地、古井戸。
三人は“その単語”を口にせずに、ピンだけを見た。
「現物、歩きます?」
理沙が言い、悠真が頷く。「外は止められない。見て帰るだけなら罪も軽い」
昼前、キャンパスから車で一時間の干潟に立った。
引きはじめの水が薄く広がり、空の色を板のように映す。
潮のにおいは言わない。風の名前も言わない。
ただ、前方で、黒緑の膜がゆっくり呼吸していた。薄い苔とも、厚い絨毯ともつかない群れの質感。
「ここ、渡す感じが濃いですね」理沙が囁く。
「郵便局だな。受付が広い」悠真が小さく笑う。
陽一は膝を折り、表面に顔を近づけた。
ぬめりの下で、細い糸が絡まり、ほどけ、また絡まる。
触れない。触れずに見る。
胸の奥に、短い氷片のような断片が落ちた。
——進むか
——留まるか
——飽和 顎 刃
——乾き 光 空気
——重さ
——塩
——呼吸
——結論:越えよ
喉が動いた。音は出ない。
次の瞬間、別の列が続く。
——越えよ
——形を変えろ
——硬さを持て/捨てよ
——流れに従え/逆らうな
——渡せ
理沙が小さく息を飲む。
「今、越えろと形、来ました。足の裏が、浮く前の感じ」
「俺も」悠真が目を細める。「重さが乗った。内側に」
陽一は立ち上がり、視界を遠くに切り替えた。
膜の先で、乾いた範囲が薄く白く、べたつき、ひび割れ、また濡れる。
境目が動いていた。
言葉にした途端、浅くなる。言わないで、理解だけ置いていく。
帰り道、大学の試料庫に寄った。
現場屋の田上が、土で少し黒い指でコアを叩く。
「ここ、浅い。ここで一回重くなる。ここ、塩が残る。こっちは風で乾く」
説明は具体で、比喩が要らない。
「呼ばないのに来るんですよね」理沙が独り言のように言い、田上は笑った。
「呼ばなくても来るさ、外は」
夕方、研究棟に戻り、ホワイトボードの枠に新しく《越境/重さ/塩/呼吸》を加えた。
線でゆるく結ぶ。
《越境 → 形を変えろ → 光 → 根》
《重さ/塩/呼吸 → 動きを捨てる理由》
悠真が小さく《逃避+仕様変更》と書き、理沙が《代謝の転換(※言い切らない)》と括弧で弱めた。
「会話じゃない」陽一が静かに言う。「二択と、重みと、結論」
喉にかかった“議◯録”という語は、今日も飲み込む。名付けると、平らになる。
停止は守る。提示はしない。
代わりに、提示なし解析を詰めた。
過去ログで“越境”系の断片が強かったサンプルの採取環境だけを再整理。
水位の振幅、蒸発の強さ、基質の固さ、塩類の残留。
数字を並べて、数字に寄りかからない。
浮き上がってくるのは、境目で生き延びるための計算だ。
「渡せの相関、もう少し見ます」理沙が別タブを開く。
群密度が高いもの、つながる構造を持つもの、表面の通信路が発達しているもの——藻マット、苔の群落、コロニー性細菌。
「個で完結しないところほど、強い」
「なら、“渡せ”は方法なのかもしれない」悠真が言う。「越境に必要な」
夜。
温室。
葉は今日も、触れて、渡す。
空調は切れている。
音はなく、構造だけが胸に落ちる。
渡せ
渡せ
渡せ
「“渡せ”って、誰にですかね」理沙がガラスに額を寄せる。
「今ここにいる群れ。未来の群れ。変わった自分」
悠真の三択は、どれも正しく、どれも足りない。
そのとき、研究棟の廊下で足音。
振り向くと、宮原知佳が立っていた。広報の許可証を首に下げ、少しだけ息を切らしている。
「五分だけ。応答について、どうしても確認したくて」
「五分なら」陽一が応じる。
ガラスの前で四人は立ち、光沢のある葉が触れるのを見た。
「応答って言葉、助かりました」陽一が言った。
「回答じゃなく?」
「回答は試験のため。応答は生存のため。ここで起きているのは、後者だと思う」
宮原はメモを取らず、目だけで頷いた。
「“祈り”って言葉、使わない方がいいですよね」
「祈ると、説明が死ぬ」悠真が短く返す。「でも、人は祈る。だから、枠がいる」
宮原が帰ったあと、三人は再びホワイトボードの前に戻った。
《越境/重さ/塩/呼吸》の四語が、今日の中心に座っている。
理沙がペンを置く。
「まとめて言うと——外へ出ろ。でも動きを捨てろ。光で食え。そのために、呼吸、塩、重さに耐えろ」
「言い切らないが、そこまでなら言える」悠真が補う。
その瞬間、陽一の胸に、長い列が落ちてきた。
遮断しても、呼ばなくても、止めても、来る。
彼は椅子に手を置き、音読せずに受け取った。
——進む 危険
——留まる 飢え
——飽和 顎 刃
——逃避 無限
——乾き 光 空気
——分析:重さ/呼吸/塩
——表皮 管 連絡
——結論:出よ
——移動を捨てよ
——光を食え
——根を張れ
言葉は骨だけで、骨は構造だけで、構造は決定だけだった。
陽一は目を開け、二人を見た。
「……管と連絡、が来た」
理沙の頬に色が戻る。「“渡せ”の方法」
悠真がホワイトボードに小さく書く。《管=渡す道》《連絡=渡す単位》
書きながら、彼は苦笑した。
「現場の比喩が増えてきたな」
「増やすのは渡すためです」理沙が肩で息をした。「ここで止めると、どこかが勝手に続ける」
夜更け。
エミールの机から送られてきた最後の三行が、陽一の頭の片隅で静かに光っていた。
食と命の間で泳ぐ。
越境の手前で、立ち尽くす。
——結論は、決定そのもの。
言葉にはしないが、そこまで来ている感覚だけが、今日の終わりに残った。
帰り道、街路樹がほんの少しだけ揺れた。
空調はない。風は少し。
葉と葉が触れ、渡し、また触れる。
世界は止めても、渡すことだけはやめない。
明日、過去がもう少し長く落ちてくる。
そのとき、ようやく一度だけ、喉の裏側の言葉を表に出すのかもしれない。
まだ、出さない。
浅くなるから。