森の魔女の髪には決して触れてはいけない
王国の奥深い森には、数百年も前から“魔女”が住むと語られていた。
人を憎み、決して近づいてはならぬ――そう言い伝えられ、森は長きに渡り人々の恐怖を集めてきた。
だが、ある日。
王国の騎士団が盗賊を追い詰め、ついに森の奥へと追い込む。
人々を長らく苦しめた盗賊団の棟梁を仕留めたものの、団長レオンは深手を負い、谷底へと落ちた。
――目を覚ましたとき。
傍らに一人の女がいた。
濡羽色の長髪、漆黒の瞳。
夜を映すような髪は、床に広がるたび焚き火に揺れ、淡い光を返す。
「……目を覚ましたのね」
「お前は……誰だ」
「…誰でもないわ。ただ、傷が癒えたら立ち去りなさい。二度とここに戻らないで」
そう告げた女は、最後に低く言い添えた。
「――決して、私の髪に触れないで」
***
三ヶ月。
女は淡々としながらも温かく、彼を看病した。
薬草を煎じ、体を温める食事を作り、時に長い髪を静かに鋤いていた。
レオンはある夜、焚き火の光に輝く黒髪を見て問うた。
「なぜ、髪を切らぬのだ」
女はわずかに微笑んだ。
「……髪は魔力の依り代。切れば力を失い、触れられれば存在が乱れる」
「魔力……だと?」
「そう。そして、約束を違えれば、私はここから消える。それだけ」
その声は冷たかったが、どこか悲しげでもあった。
傷が癒えた時。
レオンの心には、抑えようのない想いが芽生えていた。
国には婚約者がいる。だが、目の前の女を置いていくことはできなかった。
「君と共に生きたい。夫婦になってくれ」
女は驚いたように目を見開き、やがて首を振った。
「……できません。私は、ここに在ってはならぬ存在だから」
「それでもいい! 愛している!」
女は背を向け、歩き出した。
「忘れて。約束を思い出して。……私に触れないで」
その背を、レオンは必死に追い、伸ばした手が――
長い黒髪に触れた。
瞬間。
女の姿は煙のように崩れ、夜風に溶けて消えた。
「待てっ……!」
答えは返らなかった。
静けさだけが残っていた。
国へ戻ったレオンは、生還を歓声で迎えられた。
だが、胸の中にあの女の姿が焼き付いて離れない。
真っ先に婚約者の屋敷を訪ねたとき、彼を待っていたのは葬儀の支度だった。長い髪の婚約者の笑う姿が頭の中に浮かぶ。
「……彼女は、亡くなった」
呆然とする彼に、婚約者の父は静かに語った。
「我らの家系は“魔女の写し身”を継ぐ一族だ。隣国を牽制するため、代々、幻の魔女の存在を演じ続けてきた」
「……では、森の女は」
「本物の魔女など存在せぬ。あれは写し身。……だが、彼女はまだ力が未熟であった。」
レオンの胸に、女の言葉が甦る。
――“髪は魔力の依り代”
――“決して触れてはならない”
父は苦しげに言葉を継いだ。
「お前を案じ、彼女は己を写して森で生き続けていたのだ。……おそらく、力が足りなかったのだろう。……本来なら戻って来る筈だったのだ」
レオンは崩れ落ちた。
あの森の女は、彼が生涯を誓うはずだった婚約者だった。
そして、自らの愚かさで、その存在を壊してしまった。
夜風に揺れる黒髪の幻影を胸に、レオンはただ呟く。
「……すまない。愛していた」
その言葉は静かに消え、闇の中に溶けていった。