夕暮れの絶景
私は間違いなくいつも通りの方法でログアウトコードを発したはずだった。
私の意識は間違いなく、問題がなければ自宅の個人用サーバーに立てられたプライベートラウンジに転送されるはずだし、何らかの問題が生じたのなら即座にコフィン自体が停止するはずだ。
だけど私はそこにいた。
うだるような暑さの夕暮れの街。
浅い夜の空と夕焼けが混ざる黄昏時の空。
私は目の前で起こった、明らかにバグった、問題のある状況よりも、この光景に感じた明らかな違和感に思考を奪われた。つまりは、
「なんでこんな場所が懐かしいって思ったんだろう」
私は、小さい頃は工場地帯のアパートで過ごした。今は駅前のマンションで一人暮らしをしてる。
生まれた時から物理的な校舎を持つ学校には通ったことがないし、それ以外の理由でも生活圏内に住宅街と呼べるような場所はなかった。
それなのに私は目の前の光景を、無限に十字路が続く、ブロック塀で作られたコンクリートの迷路を懐かしいと感じた。
そんなはずは無いのに私はここを知ってるような気がした。うだるような暑さも、目も眩むみたいな夕日も不快で仕方ないはずのに''懐かしい''って感じた。
それが怖かった。
ここは私の知る場所じゃない。
こんな場所は記憶にないし、だから懐かしいなんて感じるはずがない。
それなのにこの黄昏の十字路はどうしようもなく懐かしい……!!
まるで頭に直接「懐かしさ」をインストールされたみたいだった。私の思考と、私の記憶に、今の感情が連続してない。
それが恐ろしくて、怖くて怖くて仕方なくて……!!
「………っ…………………!?」
そこで私はようやく正気に戻った。
今の今まで感じていた感情が、嘘みたいに引いて行って気付いくと頭に上っていた血は冷水をかけられたみたいに引いていった。
冷静になれと自分を諌めるような思考も必要なかった。身体は最初からわかっていたみたいに常の状態を取り戻していた。
相変わら''懐かしさ''は私の思考を無視して湧いてくる。筋肉注射を打たれたみたいな不快感も消えてない……だけど、それだけだ。
この取り繕ったような懐かしさ以外には、このフィールドに異常なところはない。その異常ですら心理学やメンタリズムで説明できないものじゃない。
だから私が考えるべき異常は''この異常''じゃない。私が考えるべき異常はこのフィールドの異常性じゃなくて、このフィールドにいる''私の''異常性だ。
なんで私はこのフィールドにいる。脱出方法。ログアウトは失敗したのか。恐怖心。異常な感情を誘発するサブリミナル空間。
再び暴走した思考を、
「黙って」
一言で黙らせる。
それだけで私の思考は再び沈静化した。
「まずは優先順位を」
それでもあえて口に出すことで私は、私の思考が再び暴走するのを防ぐ必要がありあると感じた。
「このフィールドがなんなのかはこの際、どうでもいい」
優先すべきはこのフィールドからの脱出。真っ先に考える事はなぜ私がこのフィールドに訪れる事になったのかだ。
「あってはならないバグか……それとも悪意のある第三者からの『攻撃』か」
それが真っ先に確認すべき事だった。
前者の可能性は……ある。私のログアウトコードが何らかの事故を誘発し、ゲーム内、またはそれ以外の仮想世界に接続してしまう可能性は決して零ではない。
問題なのはそう出なかった場合。このフィールドが何らか''敵''からの攻撃だった場合、もう私の個人データは頭の先からくるぶし辺りまで敵の胃袋に飲み込まれていることになる。
「まずは簡単なところから……アイ、ログアウト!」
………………………………………………
何も起きない。
現在、電脳空間に存在するほとんどの仮想世界では擬似音声入力が主流とないっている。私が現実世界で言葉を発するのと同じように電気信号を送れば、それをコフィンが認識し、そのデータをサーバーに送信、データを認識したサーバーがそのデータに即したキーワードから特定の挙動をサーバー内で実行する。
だけど、この方法だと特定のキーワードを発した場合、文脈や状況を無視して意図しない挙動が起きてしまう可能性はある。
それを防ぐためにほとんどの電脳空間ではプレイヤーの状況から本人の意図しないコード入力を防止するためのAIサポートが存在しているわけだけど、それが誤作動を起こす可能性はある。
だから私は私の知る最も信頼性の高いログアウトコードを使用した訳だけど結果は不発。
少なくとAIの誤作動が原因の簡単なバグじゃないみたいだった。
「はぁ……」と、ひとつため息を吐いてから、私は今度は目の前の空間を人差し指でなぞった。
これはほとんどの電脳空間でシステムメニューを''手動で''開くための基本的な動作だ。実際、警戒はしていなかったけれど、メニュー画面の窓は問題なく開いた。
問題なのは開かれたメニュー画面が、私にとって全く見覚えのないものだったことだ。
「持ち物……ステータス……システム……空白?」
メニュー自体は別にごくごく一般的な内容しかない。窓を4分割にしただけの、まるで開発中のシステムをそのままにしたみたいな無機質で不親切なデザインを除けば、特に問題はない。
最後の灰色で塗りつぶされた空白のメニューも実装前のシステムや条件を満たしてない項目にありがちな見た目だ。
私が全く見たことがない点を除けば特に問題がない。
「はぁ……」と、再びため息をついてから特に期待せずにシステムの項目をタップ、案の定灰色に染まったログアウトの項目をタップして…………………………………………………………………………………………。
「やっぱり、何も起きないか」
音声入力を認識しないシステムがメニュー操作で正しく動く訳が無い。予防線でも保険でもなく、私は最初から期待してなかった。
だから、重要なのは次。
リスクが高い代わりに''基本的な''問題であればその問題の有無に関係なく強制ログアウトが可能なコード。つまりは
「緊急脱出コード 253423112545333454453215」
「……………………はぁぁぁぁあああ」と、今度こそ大きなため息を吐いた私は今度こそ、脂汗を(仮想世界で汗をかくはずがないからおそらくは心拍数なんかから状況に則してわざわざ汗をかくように設定してるんだろう)流しながら無意識に周囲を見渡した。
緊急脱出コードは電脳空間ではなくコフィン自体に停止インターロック式に設定された保護プログラムだ。
緊急脱出コードが使えない状況になると強制的にログアウトするのではなく、緊急脱出コードが実行可能な状態でのみ、ログイン状態が維持される。
それが効かないってことは状況は、限りなく最悪な方向に向かってるって事だ。
サーバーに対する攻撃がほとんど不可能とされてる現代の電脳戦において、基本的にはよりセキュリティの低い個人データに攻撃が仕掛けるのが基本なのだけど……そんな反応もない。
「つまり相手も領域干渉を使ってる、そして私は出遅れてる」
「はぁ……」と、再び短いため息を漏らす。
創作の世界では領域干渉に対して領域干渉で対抗するなんて話があるけれど現実の電脳戦ではそんなことほとんど無い。領域干渉は基本的に先に使った方が圧倒的に有利で領域干渉同士のぶつけ合いなんて滅多に起きない。
まして術中にハマった後からほとんどサーバーを掌握しているはずの領域干渉相手にこちらも売ってでるなんて疲れるだけで得るものはほとんど無い。
幸いにも私のコフィンは安全対策の一環で一定の時間になれば物理的に電源を切断するように改造してる。
確かログインしようとしたのが4時過ぎだからあと1時間もしないうちにコフィンの電源は切れる。
私はそう考えて自分を納得させようとした。
不都合な事実に目を瞑って。
例えば、そう例えば仮にもプロゲーマーとして生き残ってきた私が攻撃を受けている事にも気付かずにまんまと罠にハマることなんてあるか? とか。
何重にも掛けてるはずの保険を全て無視して、私の防壁になんの警告も出させずに突破するよう相手がいるとして、そいつ本当に人間か? とか。
そんな疑問はずっと私の中にあったけれど、それを私は無い振りをした、見ない振りをして、気づかない振りをして目を瞑った。
だけど、そんな私のささやかな願いとは裏腹に、或いはだからこそ、彼女はいつの間にかそこにいた。
「ネ、エ……」
真っ黒なコートと同じ色の瞳。
顔の半分をマスクで隠した''美人な女''
「ワタシ…………キレイ?」
彼女はまるでずっと前からそこにいたみたいに私の背後に立っていた。