第三章 1
そこは、見れば見るほど奇妙な世界だった。
なぜだか、土から根っこが生えている。
土から根っこ。
枝もなければ、葉っぱもない、何より茎がない。白い根っこだけ。
それも、白い頭がにょきっと地面からのぞいている、という程度の話でもなく、空から無数の滝が降り注いでいるような光景なのだ……土の上に何個も置かれた、白い巨大なシャンデリア。ただしそのサイズが化け物なので、崖でも見上げている気分になる。根っこでできた崖だ。
なんとも、あべこべな世界だった。
そんな不思議な異界……茶と白の世界が、どこまでも続いている――。そんな世界で、押し潰したような時間が続いていた。
行く先に待つ困難な状況を想像したんだろう、どの表情も優れない。
「ともかくも、水、食糧、安全に寝ることのできる場所は、確保しないといけない。その点については、誰も異論はないはずだ!」
カランはヤケになったように騒いだ。
「ともかくは水、食糧! それに寝場所! それをなんとしても確保する……そう、なんとしてもだ!」
彼はそう言い切ると、深呼吸した。
「そう……まずは、そうしよう……ちゃんと確保できて落ち着いたら、この世界がどうなってるのか、探ることにしよう」
そうして、カランが落ち着いてから、その後。
「……それで、どうやって見つけて、どうやって確保するって?」
シモムラの当然の疑問に、
「まずは、そうだな……」カランは考え込む素振りをした。「ちょっと、休憩しよう……どうやって見つけて、どうやって確保するか、話し合うために」
その提案に、みんなは呆れ果てた―ただ、カランばかりを非難するのも可哀そうだ。なにせ、真っ先に見張りの番を買って出たんだから。
「この重要な役回りを、是非、このボクにやらせてほしい。みんなも疲れているだろうからさ……」
その一方で、ユネは休息どころではなかった。
さっきから続く頭痛が、たまらない。それに耐えがたい吐き気……それも、うっ、とするこの臭いのせいだ。
「でも、アーツ君じゃないけど、リアルだよなあ……」
「そんなの当たり前よ。だってリアルなんだから」
辺り一面に漂っているのは、土の匂い。
ざらざらして、涼しげで、こそばゆい……ずっと嗅いでいると、手を洗いたくなってくる。けれど、どこか懐かしくて、ずっと浸っていたい気もする。そんな匂いだ。
実際、ユネはこのまま浸ってしまいたいくらいだった。それに混じる、この臭い……リアルなこの臭いさえなければ。ついでに、
「でも、キミ、思わない? せっかく異世界に来たんだから。飛んだりするくらい、できてもよかったのに。転生はムリだったにしてもさ」
「今でも、飛ぼうと思えば飛べるわよ? そこの根っこに登ってね。飛んだ後のことは保証しないけど」
「怖いこと言うなあ」
さっきから目の前で繰り広げられているこの会話が、輪をかけてユネの神経を逆なでするせいで、やりきれない。
片方は、もうひとりいたぽっちゃりさん。タクミという名で、短い髪が汗で額にこびりついている。もう一方は、褐色の小柄な女の子……つまりジュミだ。
彼女の表情は、ユネと話す時とは違って、心なしか、柔らかい。くりくりした目の縁色が、かすかな笑みでキラリと光っている。そのことも、余計にユネの気に障った。
タクミは自分の大きなお腹をさすると、
「でも、せめてさ……せめて、この腹くらい、どうにかして欲しかったよ。リアルはリアルでも、飛ぶことはできなくとも、せめてね」
ジュミは綺麗に引かれた眉を、片方だけくいっ、と上げて、
「転移に失敗しなかっただけ、マシでしょ?」
「だってねえ……」タクミの声はかなり気落ちしていた。「それくらい、再構成の時に調整してくれたっていいじゃないの。結構なリスクも負って、ここまで来てるんだし」
「運動すれば?」
「それができれば、わざわざこんな世界に来ようなんて……」
「あら。じゃあどうしても困ったら、いい非常食があるってことね」
ぎょっとしたような顔で、タクミはジュミを見た。
「冗談よ」
しれっとジュミは言った。
すぐに少女は破顔して、
「当然でしょ!」
けたけた笑って、ジュミは今にも腹を抱えんばかり。
いや、あんたが言っても冗談に聞こえないってば。
ユネは心の中で突っ込んだ。
笑いが収まってから、ジュミはふわりと垂れた自分の髪に手を添えて、
「でも、実際、転生してないとも限らないわ」
まだびくついた様子を崩せないでいるタクミを見て、少女は可笑しいような、呆れたような表情をする。
「だって、転移の時にじつは、すっかり新しい身体と、心と、記憶を得てしまったのかもしれないでしょ? そうだとしたって、わたしたち、決して気づいたりできやしないもの」
タクミはちょっとばかし考え込んでから、
「つまり……ボクは、もともとこんな身体をした人間だ、っていう記憶とこの身体を持って、生まれ変わったってこと?」
「ええ。そういうこと。蝶が見る夢の話と一緒ね」
タクミは丸っこい顔をしかめて、
「まあ、そういうことも、あるかもしれないけどさ……」
「それに、もしかすると、気づいていないだけで、何かが変わってるかもしれないわよ?」
「何かって、例えば?」
「さあ?」
ジュミはいたずらっぽく笑ってみせた。
「考えてみればいいんじゃない? 自分を振り返ってみるいい機会よ」
少女が笑うと、緑がかった黒髪がさらりと揺れる。
タクミは顔面いっぱいで、『難問』を表現した。
ジュミはやっぱり、楽しげだ。
そんな様子を見ていると、これがこの子の素の姿なのかなと、ふと思う――何せ、その笑顔がとても自然に見える。
それにとても……可愛らしい。
ついつい目が奪われてしまうほどの、可愛らしいさ。笑顔を作る顔のすべてが、内側からあふれた感情で紡がれているように見えるのだ。そして、そんな表情を彼女に一度もさせたことがない、この自分……ユネはため息をついた。それから眉をしかめた。
また、例の臭いが強くなって、頭痛がひどくなってきた……。きっと、じっとしていたせいだろう。
ユネは自分の服を見下ろした。
首の根っこから腹辺り――そこに、べっとりとこびりついているものがある。
それは、赤黒い液体……ユネの心身を苛んでいるその臭いとは、そう、リアルな、血の臭い。
本当は防護服に付いているはず。見た目には、桔梗色のシャツを塗らして、気味悪く光っている。バケツの水でも被ったように、びちょびちょだ。乾いてきてはいるけれど、まだまだ臭いが濃い。
(せめて、着替えだけでもできたら……)
ユネは臭いから……その臭いを嗅ぐたんびに蘇る感触から逃れるように、首を振った。
あの怪物の皮膚――見た目よりもずっと柔らかくて、ぶよぶよだった――その皮膚を刃先が突き破った時の、あっけない感じ。刃が肉にずぶずぶ沈み込んでいく、不気味な感触。そして、怪物の骨に――骨だろう、きっと――硬い金属がぶつかった、鈍くて、じんとしびれる感覚。
それはまさに、刃物を通じて感じた、血と、肉と、骨の味。リアルな、生命の感触だった。
しかも、その生命も、アリやゴキブリのような命ではなく、ともするとイヌやネコよりもはるかに人間と近しい存在……頭痛のひとつも起ろうというものだった。
と、そんな『命を殺した』という感触に苦しむユネに、細くて、柔らかい声がかかる。
「君、大丈夫かい……? さっきからそんな顔してるけど」
ユネが顔を上げると、三十くらいの男の人。確か、キリエと名乗った人だ。ひょろりとした身体を少し曲げて、ユネの顔をのぞき込んでいる。長めの髪の下から、はしばみ色の瞳がのぞいていた。
ユネは怪訝に思って警戒する。声を、それも男の人にかけられるなんて、思ってもみなかった。
「まあ、だいじょうぶ、って言えるくらいには、だいじょうぶ」
それって大丈夫なのかな、とキリエは苦笑しながら、
「服の臭いを嗅いじゃあ、そんな顔を浮かべているのを見ると……もしかして、あの時のことかな、とか思ったりしたんだけど」
「……あの時?」
「つまり、君が怪物を斬り倒した時のことだよ」
胸中を見事に言い当てられて、ユネはいっそう目を見張る。
ユネの細かい表情の動きを、彼は長めの前髪に隠れがちな瞳ですばやく追った。するとふと、何かを思いついた顔をして、
「君、屠殺の経験はある?」
「え?」
「牛とか、鶏とか、豚とか……」
「ああ……」
ユネは記憶を辿ってみた……ないな。うん。
「それも、やってみればなかなか慣れないもんだよ……まして、今回は直立二足歩行……」
彼が何を言わんとしているのか、ユネにもやっとわかった。
「それに、明確な言語を持つくらい、知能も高そうな生物だから……」
彼は笑ったような、困ったような表情をした。
「アーツくんはあれだけはしゃいでいたけど、実際にやってみたら、楽しむっていうのはなかなか難しかったかもね……」
「べつに、私、楽しむつもりなんかちっともなかったけど」
ユネは抗議するように口を尖らせる。キリエは苦笑した。
「もちろんさ……ただ、つまりね、もしもあの生き物たちが、言語を持たないようなものだったとしても、あのサイズの『生き物』を殺すのは、なかなか大変なことなんだよ。つまり、『怪物』を殺すのは生易しいことじゃないってこと。アーツくんの言ってたように、まさに「リアル」な世界……君の苦悩は、何もおかしなことじゃない、と僕は思う。何せ今回は、殺した相手が相手だから……」
ユネはふと思って、
「あんたは、経験、あるの?」
「え?」
「その、屠殺の経験」
キリエは少し呆気に取られた顔をしてから、うなずいた。
「だから、大丈夫だよ……」
彼はかすかに笑った。
「時間はかかるけど、そのうち慣れるよ」
その微笑みには、ユネを気遣うような温かさがのぞいていた……けれど、その笑みを目にして、ユネは内心、ゾッとする思いがしていた。