プロローグ
結芽はネット上で、ある募集広告を見つけた。
「異世界へのリアルな旅」
この時代、人類が果たした異世界旅行は、月からほとんど更新できていない。
そんな中、「異世界へのリアルな旅」……しかも、命の保障もないという。
広告主は、誰もが知る倫理研究所。ここが信用できないとなれば、もはや信用できるところがどこもなくなってしまう……とはいえ、こんなものに募集する人がいるわけ……。
そう思った結芽は、いつの間にか、応募を完了していたのだった。
少女が座っている。その手に、刃物を握って。
小さな刃物は、カッターらしい……その右手に軽く握られて、刃先がぶらぶらしている。どうやら少し、錆びている。その白くて、つぼみのような手を見るに、まだ十代前半だろうか。柿色に近い赤毛が、かすかに揺れている。
次の瞬間。
カッターのうすい刃が、肌に食い込んだ。
ぷにっとした柔らかい肌……少女自身の肌だ。少女が自分で、自分の肌にカッターを押し当てたのだ。そのまま力を込めて、引き抜いていく。
ゆっくりではあるけども、しっかりとした動き。まるで、刃を肌に馴染ませようとするかのような……。引かれた線に沿って、赤い玉が膨れる。つーっと、血のスジが垂れる。
少女の目は冷めていた。痛みを、じっと見つめているような目。機械的な目だ。
その目が、不意に動揺した。
動画を撮られているのに、初めて気がついたらしい。
少女はすっかり固まっていた。頬はこわばって、目が不安げだった。
その腕から、赤いスジが流れていく……。
…………。
その映像を見ていた結芽は、ふーっとため息をついた。両の手のひらで目頭を押さえて、まぶたをほぐす。
最近、流れてくる動画はこんなものばかり。
「あーあ……」
ふと、そんな言葉が漏れる。
こういった動画を見ていると、なんだか、とても……悲しくなってしまうのだ。
ロクでもない、と言えば、ロクでもない。
もちろんそれは、この少女のことではない。そうではなくって、ロクでもないのは動画を撮っている人もだけど、それ以上に、動画を拡散する人たち。その人たちは、そんなことをして有名になったり、金を稼いだりする。
ネットのいろんなところで、人の性を晒して、その生を八つ裂きにする、そして出来上がった真っ赤な血の海を堪能する……いわば、ハイエナたちだ。人の不幸を食い物にぞろぞろ集ってくる肉食獣たち。いや、ハイエナは死んだものしか餌にしないのだから、ハイエナよりもタチが悪いかも。
もっとも……。
(ロクでもないのは、私自身もだ……)
何しろ、結芽も見てしまっているわけなのだから、その当の動画を。しかも、流れてくるたんびに再生してしまう。見たら後悔するのは、わかり切っているのに。
それも、仕方ないと言えば、仕方ないところもある……見てしまうそれなりの理由も、確かにあった。けれど、つい思ってしまうのだ……なんなんだろう、と。
「ホントに、なんなんだろう、この世界……」
直近で見たニュースも、こんなものだった。
国民の三人に一人が、本気で自殺を考えたことがある……。
こんな驚くべき統計結果が得られたのは、記憶にいまだ新しい産業構造の変革、第四次産業革命、それに伴う大不況に、そして大失業の影響でしょうか……。
(そういえば、社会の倫理観がすっかり壊れてどうこうとか、そんなことも言ってたような……)
もはや、当然の結果とさえ言いたくなる。
(そりゃ、こうやってリストカットする子も増える、ってもの)
つまり、世界はとっくに、負の尾っぽをぱくぱく食べるウロボロス、自分の尾っぽを食べては身体を伸ばし、ずっとぐるぐる永久機関。不幸の実を食べて、不幸の種を産み落とす……こうして動画の閲覧数を稼ごうとする人も後を絶たないわけだ。
そんなわけだから……どうしようもなく、悲しくなってしまうのだ。
「うー……。はあ……」
再び、ため息をつきそうになる。その手が、ふと止まった。ネットをふらふらしていた視線も釘付けになる。
こんなものを見つけてしまったからだ。
これは、上都人倫研究所との共同研究プロジェクトです。
もちろん、これだけではただの告知文。
上都研は確かに誰もが認める権威ではあるけれど、企業と提携することもあれば、宣伝だってする。問題だったのは、次の文言。
このプロジェクトにおいて、次の被験者を募集しています。
『異世界へのリアルな旅を望む者』
……異世界への、リアルな旅?
結芽は、その文字を二度見した。二度見して、まぶたをグリグリしてからもう一度、一字一句を読む。
異世界へのリアルな旅。
見間違えではないらしい。
すると、とうとうおかしくなってしまったのだろうか……そうかもしれない。
なにしろ、人類が果たした異世界旅行は月からほとんど更新できていない。そのくせ、「異世界へのリアルな旅」だなんて。ちょっとどころではなく、馬鹿げてる。夢物語じゃなければ、ただの詐欺だ。
その上、こんな文が付いていればなおさらだった。
これは、人生がどうなろうと構わない、そういう方限定です。
すなわち、命の保障はできません。
この広告が注意を惹くためだけのものだったなら、確かにいい戦略だ。
ただ、上都研が関わっているとなると、簡単に笑い飛ばすわけにもいかない。国内有数の研究所、その名前は小学生でも当たり前に聞いたことがあるくらいなのだ。ここが信用できないとなれば、もはや信用できるところがどこもない、なんてことにもなりかねない。
まあ、そうは言ったものの、怪しいものは怪しい……それなら、結芽の頭がおかしくなったか、時期違いのエイプリルフール、さもなくば、広報担当者の頭がおかしくなかったかのいずれかだ。文章はその後、こう綴られていた。
なぜなら、その異世界がどのようになっているか、まるでわからないからです。
そもそも、その世界への転移が上手くいく保障もありません。
転移は、ある種の分解と再構成を経ることで達成されます……言うなれば、試験的な「転生」です。場合によっては、まったく新しい肉体、まったく新しい人生を歩むことになる可能性もあります。
ただ、人間による臨床実験は行なわれていません。それゆえ、この世界へ還ってこられる保障もありません。
これは謂わば、未知の世界の調査。
宇宙の果てへの探索……深海一万メートルの潜水……異次元への訪問……いずれも危険を伴います。
これはまさしく、世紀のプロジェクトなのです。
異世界という新天地で、新たな資源を発掘し、新たな居住地を開拓する、そして、現在の地球が、この社会が、あるいは世界が抱えた、困難な状況を打破する……その役割を背負った救世主が、ここから生まれるのです。
この度、栄えあるこのプロジェクトに参加する被験者を募集します。
こうした文言に続いて、もう少し詳しいプロジェクトの説明や註、応募方法なんかの細々としたものが載っている。
つまり、このプロジェクトは――この広告がもし本当に正しいのなら――正真正銘、異世界への転生を目的としているということ。人数が多ければ、抽選らしい。
抽選だなんて……。これで応募をする人がいるんだろうか……と思ってネットを泳いでみれば、ネットのどこもかしこも、この話題で持ち切りだった。
なにより問題となっているのが、これが上都研究所との共同研究だということ。どうも、名前を騙っただけの詐称でもなく、広報が乗っ取られたとかいうこともなく、正真正銘、上都研究所が関わっているらしい。その上、行政から支援金も出ている……それも、かなり莫大な額。つまり、国のお墨も付いている。
ただ、いくらなんでも中身が中身。あっちらこっちらで論争の大嵐だった。いろんな可能性が検討され、いろんな情報が持ち寄られ、いろんな夢想話が繰り返され、装飾ケバケバしいパレードでも見ている気分になる。
やっぱり、馬鹿げてる――。
そう思った結芽は、じっと広告文を見つめて、気づいた時には応募を完了していたのだった。
2023年執筆。珍しく、現代の潮流に「比較的」合わせた作品です。