第192話 はいはーい、そこまでにしましょう
ルーミンに留守番を頼んで隣の部屋に向かう。こちらも診察室の外側の待合スペースには誰もいなかった。
「父さん、入っていい?」
「ソルか、構わんよ」
絨毯をくぐり中に入ると、父さんは一人で手控えに目を通していた。
「女の人は終わったみたいだよ」
「そうか、こちらもぼちぼちしか来ないから、そろそろ片付け始めてもよさそうだな」
明日は朝一でカインまで帰らないといけないから、早めに準備できたらそれに越したことはない。
「それじゃ……」
「ちょっと待て、ソル」
立ち去ろうとするのを父さんに止められた。
「そんなに急がなくていいだろう。ちょっと話をしよう」
改めて父さんの前に座る。
「まずはよくやってくれたね。疲れただろう」
「あ、うん、最初は慣れなくて戸惑ったけど、ルーミンも手伝ってくれたし、みんなが良くなってくれたからそこまではなかったかな」
「それは何より。……しかし、今回は母さんを連れてこなかったから、お前にはとりあえずのはずだったんだが……」
「あはは……」
最初は私が女の患者さんの話を聞いて、『これは大変! 重病だ!』ということにして父さんに診てもらう予定だったんだけど、みんななぜか症状が軽くなったからそのまま帰って行ってしまったんだよね。
「まあ、なぜそうなったかはともかく、病気が治まってくれてホッとしたよ」
ほんとそう思う。特効薬が無いこちらの世界、目の前で人が亡くなっていくのを指をくわえて見ているだけってことだってありえたのだ。
「それでソル、やってみてどうだった?」
「えーと……みんなの笑顔を見えたのはよかったかも」
父さんがうんうん頷いている。
「辛いこともあるが、これがあるから薬師はやめられないんだ」
父さん、仕事に誇りを持っているもんね。
「それでだソル。お前には知識もあるようだし、本格的に薬師の仕事も覚えてみたらどうだ?」
「薬師の?」
「ああ、そうだ。西の方ではそうでもないらしいが、知っての通りこのあたりでは私が女性を診るのはなかなか大変なんだ。これまでも……」
父さんが言葉を濁した。直接診ることができていたら、助けられた命があったのかもしれない。
「女性を診ることができるのは今は母さんだけだが、ソルもいると、こうやって他の村への往診に行く機会も増えるはずだ。工房の仕事も大切だと思うが、よかったら考えてみてくれないか」
「う、うん……」
〇1月25日(土)地球
土曜日の武研の活動が終わった後、午後から久しぶりに集まって勉強会をすることになった。
「海渡、そこの式はそのままだとまずいぜ」
「はえ? ……あ、中学ではまだ習ってませんでした」
海渡が式の部分だけを消しゴムで消してる。
海渡は高校の勉強を始めているから、たまにこういうことがあるんだけど……
「いやー、教えてもらわなかったら入試の時に気付かずに書くところでした。先輩たちに見てもらって正解です!」
「気付かずって……お前、わざとだろう!」
中学では正しい式をすらすらと書き始めた海渡の口元から、赤い舌が出ている。
海渡からの勉強を教えてくださいのヘルプ。最近会えてなかったから口実だったみたいだ。
「まあいい、お前は勉強を続けろよ。そのために集まったんだからな」
海渡がぶーたれてるけど、その通りだから仕方がない。
「それで樹、さっきの話だけど、俺はお前のやりたいようにしたらいいと思うぜ」
タリュフ父さんから言われたことを、みんなにも伝えたんだ。自分一人では、決められそうになかったから。
「ボクはタリュフさんの意見に賛成。あちらの世界には医者が少なすぎる。病気は祈禱で治すってところもあるんだよ」
「あ、それルーミンも聞いたことあります。たしかビント村の南の山を越えたところには、シャーマンみたいな人がいるって」
そうなんだ……
「それ、マジで治るのか?」
「さあ、そこまでは定かでありません」
当たり前のように海渡が会話に参加しているよ。まあいいか。
「でもまあ、近くに薬師がいなかったら祈りたくもなると思うよ」
あちらの世界に超自然的な力があるのかどうかわからないけど、何とかしてほしいという気持ちを伝える相手が祈祷師とかシャーマンとかなのかもしれない。
「だよな。そういう気持ちを無碍にできねえよな。それでよ、ソルが薬師になるということは樹は医者を目指したほうがいいんじゃねえのか?」
「はて? 僕たちってお医者とか無理なんじゃなかったですか?」
「はい、毎日確実に切り替わりますから、手術中だと手元が狂って大変なことになると思います」
切り替わる時間は分かっているから対処できそうなんだけど、目の前の人が死にかけているのにそんなのを気にして手術とかできないと思う。というか、ソルが薬師を目指すことを前提に話が進んでいる……
「ですよね。僕はこちらでもあちらでも、その時間は包丁は持たないように気を付けてます」
「それに、樹先輩は教育者を目指されていたはずです」
凪ちゃんの言う通り、僕の第一志望は東大の教育学部。
「はい。子供たちのために学校を作るって仰られてました」
知識の底上げができたら、みんなの暮らしももっと豊かになると思う。
「教育のノウハウについては遠野先生にお願いして教えてもらうことができたら、ソルは薬師になれるよ」
「風花はやけに薬師を推すな」
「だってみんなに武術を教えて盗賊に殺される危険性は低くなったけど、病気はそうじゃないじゃない。ボクはみんなとできるだけ長く一緒にいたいよ」
うん、僕もそう思う。
「風花の言うこともわかるけど、だからといって樹にそれを押し付けるわけにはいけねえって」
「はいはーい、そこまでにしましょう。樹先輩、このように僕たちは意見をまとめることができませんでした。あとは樹先輩がお決めになってください。僕たちはそれをサポートさせていただきます」
みんながうんと頷いてくれた。
「ありがとう、それじゃ僕の話を聞いてくれるかな」