居酒屋に入ったら、隣のテーブルに着いた同期の女の子が酔った勢いで俺へのデレをぶちまけ始めた
金曜日の夜。
定時で退社した俺・酒井信夫は自宅の最寄駅に着くなり、行きつけの居酒屋に直行した。
「お好きな席にどうぞ」と言われたので、俺はカウンターの一番奥の席に座る。注文なら、もう決まっていた。
「取り敢えず、生で」
メニュー表など見ることをせず、お決まりのフレーズを店長に告げる。
10秒足らずでジョッキが目の前に置かれたので、俺は生ビールをグイッと一気に飲み干した。
「プハァ! 美味え!」
明日は休みだという解放感と、一週間お疲れ様という自分への労いが、一層ビールを美味くする。
大人になり、仕事を始めて、社会という荒波に揉まれ続けた結果「学生に戻りたい!」と考えるのは日常のことだけど、ビールを飲んでいる今この瞬間だけは、大人になって良かったなと心底思えた。
時間がまだ早いせいか、店内にいるお客さんは、俺とあともう1グループしかいない。
女性3、4人のグループらしく、俺が来店した頃には既に出来上がっており、会話も盛り上がっていた。
だからといって、周囲の迷惑も考えず大きな声で会話して良いわけじゃないだろうに。
しかし「うるさい」と注意してトラブルに発展するのも嫌だし、我慢出来ない声量じゃない。
俺はそのまま気にすることなく、ビールを飲み続けていた。
居酒屋で酒を飲み始めて、1時間が経過した。
俺はお手洗いに行こうと席を立つ。
例の女性グループのテーブルの横を通り過ぎようとしたところで、一体どんな人たちなのだろうと思い、チラッと彼女たちを一瞥した。
卓に着いていたのは、俺とそう年齢の変わらない女性たちで。驚くことにその中に、俺の同期の真城蘭子が混じっていたのだ。
「あいつ……友達なんていたのか」
同期の中でも真城は大人しいタイプで、特定の誰かと飲みに行ったりしているところを見たことがない。
会社の飲み会なんかでも、「自分は人見知りだから」と言って終始無言を貫いている。
そんな彼女があんなに大きな声で会話するなんて……正直、意外だった。
お手洗いを済ませた俺は、自分の席に戻る。
お酒を飲み、つまみを食べながら……いけないとわかっていつつも、つい隣のテーブルの会話に聞き耳を立てていた。
別に盗み聞きして、真城の弱みを握ろうというわけじゃない。俺が知りたいのは弱みではなく、彼女自身だ。
前述の通り、真城はあまり他人と話さない。それは俺も例外ではなくて。
つまり俺は真城のことを、よく知らないのだ。
では、どうしてそんなにも真城のことを知りたいのか? そんなの……彼女が好きだからに決まっている。
「大将、生おかわり」
もう何杯目かもわからない生ビールを、一気に飲み干す。
顔が赤いのは、酔いのせいなのか、或いは好きな女の子がすぐ近くにいるせいなのだろうか。
◇
真城に惚れたのは、新入社員の頃だった。
入社して半年が経った頃、俺は頼まれていた発注をし忘れるという大きなミスをした。
上司からは延々と怒られて、同期からは「あっ、こいつ仕事が出来ない奴なんだ」と思われる。
俺自身、入社当初抱いていた自信ややる気を失いかけていた。
明日会社に行くのが怖い。上司や同期と顔を合わせたくない。
もういっそ、会社辞めちまおうかな。俺がいなくたって、きっと仕事は回る。寧ろ、俺がいない方が、円滑に物事が進むかもしれないし。
ネガティブな感情は胸の中からどんどん溢れてくる。そしてとうとう――
「あーあ。死にてえな……」
そんな域まで達してしまった、その時、
「何をバカなこと言ってるんですか?」
真城が声をかけてくれた。
「はい」と、真城は缶ビールを差し出してくる。
「こういう時は、飲みましょう。飲んで嫌な気持ちを吹き飛ばすのが一番です」
「……悪いな」
缶の蓋を開け、ビールと一緒に嫌なのことを流し込んでいると、隣に座った真城がチラッチラッと頻りに俺に視線を向けていた。
一口飲んではこちらを見て、また一口飲んではこちらを見る。そんな行為を繰り返しているわけだから、俺の方も気にならないわけがなかった。
「……何か言いたそうだな」
「えっ? なっ、何のことですか?」
「すっとぼけても無駄だぞ? さっきから、何度も俺のこと見ていただろ?」
「……バレていましたか」
寧ろあれだけ見ていて、バレていないと思ったのかよ。
「で、何を言おうとしていたんだ? 罵詈雑言か?」
「ビールまで奢って罵るわけありませんよ。励まそうとしたんです」
「マジでか」
「マジです。……でも私って、口下手じゃないですか。だからいざ酒井くんを前にしたら、何て声をかけたら良いのかわからなくなっちゃって」
成る程。それで話しかけるタイミングを測ろうと、さっきからチラ見していたのか。
「やっぱり、ダメですね。普通の会話も出来ないのに、誰かを励ますなんて出来るわけがないです。だから……」
真城は立ち上がる。
これ以上自分に出来ることはないと判断して、帰るつもりなのだろうか? 欲を言えば、もうちょっと一緒にいて欲しかったけど……こうして気にかけてくれただけで、ありがたいと考えるべきだろう。
そんな風に思っていると、トンっと、真城が俺に体重を預けてきた。
「酒井くんの気持ちが落ち着くまで、こうやって一緒にいることにします」
自分じゃ何も言えないから、無理して励まそうとすることはせず、敢えて何も言わない。
でもそれは、俺の為に何もしないということではなくて。
皆が俺のことを見放している中、真城だけが俺を気にかけてくれた。その優しさに、心底救われた。
「……グスッ」
知らず知らずのうちに、俺の目から涙がこぼれ落ちる。それ程までに、真城の気遣いが嬉しかった。
「酒井くん……?」
「悪い。見なかったことにしてくれ」
まったく。男が人前で泣くなんて、みっともないよな。
しかし真城は、そうは思わなかったようで。
「心配しなくても、何も見ていませんよ。後ろを向いているんで、何も見えませんよ。なので、どうぞ好きなだけ」
それから5分くらい、泣き続けていただろうか。
真城はこの日の出来事をなかったことにしてくれたみたいだけど、彼女に恋をしたこの日を、俺は今でも鮮明に覚えていた。
◇
真城を好きになってから、早数年。これまで沢山の仕事を一緒にしてきたわけだけど、それでも真城蘭子という女の子について知っていることは少なかった。
勇気が出ずに真城に話しかけようとしない俺と、人見知りが故に俺と話そうとしない真城。互いに接点を持とうとしないのだから、そりゃあ交流なんて増えるわけがない。
だけど遠くから見ているだけじゃ、いつまで経っても恋が成就することなんてないよな。
真城と会ったのも、何かの縁だ。ここで知り得た情報で、彼女に話しかけてやる。
真城たちのテーブルの話題は、仕事の話から恋愛に変わりつつあった。
「ところでさ、蘭子は彼氏とか出来たの?」
それは今俺が一番聞きたくて、同時に一番聞きたくもない情報だ。
「いるわけないじゃん。……好きな人ならいるけど」
「おぉ! 学生時代恋愛とは無縁だった蘭子にも、ついに春が来たのかぁ。因みに、会社の人?」
「……うん」
真城の好きな人が社内にいるとは、意外だった。なにせ彼女は、仕事中でも極力人と会話しないよう徹しているのだから。
同期の誰かかな? 他部署にイケメンの先輩がいるって話も、聞いたことがあるな。或いは……まさかの部長とか?
「へ〜。同じ会社に、蘭子のハートを射止める人がいたなんてね。ねぇねぇ、どんな人なの?」
「それは……頑張り屋で、何事にも一生懸命な人。だから仕事で大きなミスをしちゃった時もさ、凄い落ち込んじゃって」
「蘭子が励ましてあげたの?」
「まぁ。だって、放って置けないじゃん」
半ば惚気るような真城の言い方に、彼女の友人たちは「ヒュ〜」と茶化す。
「で、その人のどんなところが好きなの? 仕事に真面目なところ?」
「それもあるけど……一番は、ミスを受け入れて、反省出来るところかな。大体の人って、ミスをしたら言い訳をしたくなるじゃない? 「あいつのせいだ」とか、「時間がなかったんだ」とか。彼はそうやって何かのせいにしようとはせず、自分が悪いんだってきちんと反省していたんだよね。もっと言うと、泣いていたんだよね。そういうところを見た時「あぁ、この人は素直な人なんだなぁ」って思って、その……」
後に続く言葉が恥ずかしかったのか、真城は一度そこでお酒を飲んだ。
「……好きになりました」
同期の中でミスをしたことがない奴なんて一人もいない。特に入社した直後なんて、毎日のように何かしらミスをしていた。
もしかしたら真城は、その都度ミスした同期を慰めていたのかもしれない。でも……涙を見せるなんてみっともない姿を晒したのは、多分俺だけだろう。
これって、あれか? 実は俺と真城は両思いだったって思っても、勘違いじゃないよな?
その後も隣のテーブルは盛り上がっていたけれど、真城の好きな人の正体が気になりすぎて、俺の耳には何も入ってこなかった。
◇
時間を忘れて飲み続けた結果、いつのまにか日付が変わっていた。
そろそろ帰ろうかと思って会計を済まし、居酒屋を出ると、先に出たはずの真城たちとばったり出会した。
「真城……」
「酒井くん……」
ほんの少しだけ高くなる、真城の声。友人たちは、そんな彼女の些細な変化すら見逃さなかった。
友人の一人が、真城に耳打ちをする。
「もしかして、蘭子の好きな人?」
「……うん」
ヒソヒソ話をしているつもりみたいだけど、酒が入っているせいか、結構声量が大きくなっている。今の会話、丸聞こえでしたよ。
しかしこちらも飲酒していたので、顔の紅潮を誤魔化すことが出来る。
……いや、それはどうなんだろうか? 果たして赤くなった顔や胸の高鳴りをお酒のせいにするのは、素直な生き方と言えるのか?
真城は俺の素直なところが好きだと言ってくれた。だったらこの場で俺の取るべき行動は一つだ。
「真城、この後少し時間をくれないか?」
俺が真城を誘うと、彼女の友人たちが「きゃーっ!」と中学生のように騒ぎ出す。
それでも人の恋路を邪魔したり揶揄ったりするほど、子供じゃない。気を遣って二人きりにしてくれた。
『……』
見つめ合ったまま、何も言わない二人。静寂が、口下手な二人を包み込む。
先に口を開いたのは、真城の方だった。
「……何か用ですか?」
「用って程じゃないんだけどな。伝えたいことがあって。……今度二人で、どこかに行かないか?」
「どこかにって……それはデートの誘いですか?」
「……まぁ。デートといって、差し支えない」
デートに誘われた真城は……目を見開いていた。
しかしすぐに嬉しそうに微笑む。
「是非。一緒にお出かけしましょう」
「本当か! だったら、どこに行きたい? 映画館か? 遊園地か?」
「そうですねぇ……出来ることなら、酒井くんの家に行きたいです。今すぐにでも」
「俺の家に? それって……」
女の子が深夜に好きな男の家を訪れる。その意味がわからない程、お子様ではない。
期待に胸を膨らませる俺に、真城は腕時計を見せてきた。
「終電、逃しちゃったんで」
……なんだ。そういうことだったのか。
単に宿代わりにされただけだと気付き、俺は落胆する。そんな俺に、真城は悪戯っぽく囁くのだった。
「こんな言い方しか出来ないで、ごめんなさい。私って人見知りで、その上……素直じゃないんです」
素直じゃない。真城のその言葉の真意を掴むのは、どうやら俺の家に着いてからになりそうだ。