お姉ちゃん
「ポメ太郎、初めて普通にクラスメイトと話せたぞ」
ポメ太郎は尻尾をフリフリさせながら俺のお腹の上で遊んでいる。
ポメ太郎と遊んでいる時は嫌な事を全部忘れられる。
リビングは俺とポメ太郎しかいない。両親は仕事が忙しいから帰りがいつも遅い。
俺は両親に対してもうまく喋れない。あの人たちは自分の考えを俺に押し付ける。
俺はこの家でポメ太郎の世話と、両親がいない時に家事をするだけの人間だ。
両親は自分たちができる事を普通に出来ない俺を嘆いている。
俺はそれでいいと思っている。両親には感謝している。こんな俺を育ててくれて、学校にも通わせてくれた。
お小遣いをもらうのは気が引けるから小学校の頃から断っている。
お年玉も学費に当ててほしい、とメモで伝えて全部返している。
「ただいまーー」
玄関から声が聞こえてきて心臓が跳ね上がった。
姉である聖子さんが帰ってきた。聖子さんは俺の一つ上のお姉さん。うちのクラスの関口君みたいに勉強も運動もできるリア充だ。いつも友達と遊んでいる。
聖子さんと俺は全く話さない。俺がバイトが無い日だからご飯の用意をしなきゃ。
ポメ太郎をお腹の上から離して、キッチンへと向かう。
さっき作っておいたからレンジでチンするだけ。
聖子さんの足音はリビングに向かわずに二階の自分の部屋へと向かっていた。
ご飯準備出来たから呼びに行かなきゃと思うけど、俺がリビングから居なくならないと下へ降りてこない。
同じ家族でも話しかけるのが怖い。
というよりも聖子さんにとって俺はお荷物だ。
俺のせいで聖子さんは大変な目にあった事があるから――
あれは中学の時だった。
その日は珍しく家族で近所のファミレス「サイゲリア」へと出かけた。
姉の高校合格祝いだった。
俺は邪魔になるからと言って断ろうとしたけど、姉が――
『あなた私の合格が嬉しくないの?』
と言ってきたから俺も一緒に行くことになった。
家族の団らん。
優しいであろう両親、文句をいいながらも俺に話しかけようとする聖子さん。
俺は必死に頭を回転されて会話をひねり出そうとしていた。
少し頭を休憩するために俺はドリンクバーへと向かった。
ドリンクバーは混んでいたけど、時間が潰せるから問題ない。
『やっぱ聖子って超可愛いよな』
『遊矢《ゆうや》、聖子といい感じなんだろ? もうイケんのか?』
心臓がドキッと跳ね上がった。聖子さんの名前を出している男たち。すごくチャラチャラしている見た目であった。うちの学校で見たことがある上級生だ。
人を見た目で判断してはいけない。
遊矢と呼ばれた男が嫌な笑みを浮かべていた。
『ん? ああ、もう落ちるぜ。へへ、今度カラオケ行こうと思ってんだよ。クラスの女子もって一緒にって嘘ついてさ。本当は二人っきりだぜ』
『お前またか。彼女いるんだろ?』
『俺もカラオケ連れてけよ』
『ん? まあ聖子は真面目過ぎるから本気じゃねえよ。遊んだらポイだ』
『お前マジ鬼畜だよな。ははっ』
チャラ男たちは自分たちの席に戻っていった。
聖子さんがこのファミレスにいることに気がついていない。
俺は嫌な事を聞いてしまった。聖子さんに伝えたほうがいいと思った。
だけどどうやって説明すればいいんだろう?
家族のテーブルを見ると、聖子さんが自分のスマホを操作しながら嬉しそうな顔を浮かべていた。俺が遊矢という人の言葉を伝えても信じてくれなさそうだ……。
チャラ男たちのテーブルを見ると遊矢という男の隣にはケバい女の人がいた。
とにかく行動しないといけないと思った。
俺は自分のテーブルには戻らず、いつの間にかチャラ男たちのテーブルの前に立っていた。
『なんだこいつ』
『お前誰だよ』
足が震える。上級生のリア充となんて話したくない。だけどこの男は聖子さんに危険を及ぼす。俺は緊張によって手に持っていたコーラを滑らせてしまった。
大きな音が店内に響く。
『て、てめえ何するんだ!! 喧嘩売ってんか!?』
『うお!? 汚れちまったじゃねえかよ!? なんとか言えよこのガキ』
店員さんも駆け寄ってきて大騒ぎになってしまった。
遊矢の隣にいる女子生徒が遊矢に寄りかかりながら俺を睨みつける。
『マジ土下座じゃん。気分落ちるわ』
心臓がバクバク鼓動する。素数を数えると緊張が解けるっていうけどそんな事ない。
身体が震えて動けない。俺はなんでジュースを落としたんだろう?
何がしたかったんだろう?
『なんの騒ぎなの? ちょっと真司……、え? 遊矢君? その子だれ?』
姉の聖子さんが騒ぎを聞きつけてやってきた。
『ちょ、なんで聖子がここにいるんだよ!? え、えっと、俺の……』
『あーしは遊矢の彼女よ。ていうか、あんたこそ誰よ?』
聖子さんは遊矢の彼女と言い争いを始めてしまった。
俺は耳を塞ぎたかった。俺が引き起こしてしまった事態だ。
『聖子、後で話すからちょっとどっか行ってくれよ』
そういいながら聖子さんを押そうとした遊矢。
俺はとっさに二人の間に入って、遊矢を押し返してしまった。聖子さんは俺の家族だ。
傷ついて欲しくない。そんな想いがあった。
思ったよりも力が入ってしまった。
遊矢は吹き飛ばされるようにテーブルにぶつかってしまった。
遊矢はうめきながら俺を睨みつける。
『なんだよこいつは……。マジ頭おかしいのかよ……。聖子の知り合いか? ていうか、顔そっくりだから兄妹か? あぁ、もう面倒くせえな……、お前は適当に遊んでただけだっつーの。なんだよその怖い顔。マジになんなよ』
聖子さんはショックを受けた顔をしていた。俺はそんな聖子さんの顔を見たくなかった。
いつの間にか俺は遊矢に顔を近づけていた。
なんて言葉をかけていいかわからない。ただ、聖子さんとは関わって欲しくない。
『――――っ』
『に、睨むんじゃねえよ……。くそっ、マジ頭おかしいぜこいつ……』
その時、聖子さんが言った一言が忘れられなかった。
『真司……、恥ずかしいから止めて……』
そっか、俺は聖子さんにとって恥ずかしい存在なんだ。俺は聖子さんを守りたかっただけなんだ。聖子さんに傷ついてほしくなかっただけなんだ。
何をやってもうまく行かない……。俺は、どうしようもない人間だ。
……その後の記憶はぼやけている。
ただ、聖子さんが泣きながら家に帰った事だけは覚えていた。
……姉はこの一件で遊矢に遊ばれていた事がわかり、遊矢と縁を切ったらしい。
それと同時に聖子さんは学校で友達を数人失った。
聖子さんには頭のおかしい弟がいる、という風の噂も流れた。
どうやって解決すればいいかわからなかった。間違った方法でも精一杯頑張ろうとした。
だけど……結局俺は聖子さんに迷惑をかけた。
その一件以来、聖子さんは俺に喋りかけて来ることはなかった。
俺はリビングに食事の用意だけして自分の部屋へと戻る。
そうすれば聖子さんが勝手に下に降りて食べに行く。
なるべく顔を合わせないようにした方がいいんだ。俺は聖子さんに嫌われているから。
自分の食事は面倒だからキッチンからパンを持ってきて自室で食べる。
俺は自室があるだけ幸せだ。
がらんとした自室にはテレビが置かれているだけだ。
いつ俺が出ていっても大丈夫なようになっている。
私服なんてジャージしかない。靴は穴が空いていて窮屈なスニーカーしか持っていない。
多分、家族にはそれがお気に入りだと思われている。
両親も聖子さんも、俺がいると苦しそうな顔をする。
高校卒業したら就職して一人暮らしをしようと思っている。寮がある会社に入れればいいけど……、そのためには学校の勉強をして成績を上げて、アルバイトでお金を貯めないと……。
俺は聖子さんが部屋を出る足音を聞きながら勉強を始めた。
いつもと様子が違った。
足音が俺の部屋の前で止まった。ノックの音が聞こえてきた。
息を飲む。こんな事はめったにない。きっと両親が俺に伝え忘れた連絡事項があるんだ。
聖子さんに会うのが怖い。
俺は扉を開けると聖子さんは下を向いていた。
視線は合わない。少しホッとする。
「昨日、あんたがバイト行ってる時、木下さんっていう人があんたを訪ねてきたよ。妹が車に轢かれそうになったのを助けてくれてありがとう、って。ねえ本当なの? ……お菓子持ってきてくれたんだけど――」
「……お、俺は、別に、ごめんなさい」
聖子さんに面倒をかけてしまった。きっと怒っているに違いない。
俺は家族に面倒をかけちゃいけないんだ。
反射的に謝ってしまった。
「――――っ。別にあんたは……悪くないわよ。その……バイト無理しないでね」
「――め、迷惑、かけます……」
それ以上言葉が出てこなかった。
聖子さんとの会話は久しぶりすぎて最後にいつ話したか覚えていない。
聖子さんにとって、俺は恥ずかしい人間なんだから――
何故か聖子さんは目をうるませていた。意味がわからない。
俺がまた何かしたのか?
「……あやまりたいのは私の方よ。……ううん、なんでもない」
聖子さんはつらそうな顔をしていた。
俺は家族がつらそうにしているのを見ていられない。
「だ、大丈夫、おれ、卒業したら家出るから。お金溜めてる。あっ、ご――」
その言葉を聞いた聖子さんは、唇を噛み締めて嗚咽を堪えてリビングへと去っていった。
ご飯が温まっているよ、と声をかけたかった。「ごっ」という掠れた言葉しか出なかった――
俺は勉強しようと机に向かったが、気分が乗らない。
珍しくスマホを手に取った。
……柳さんと連絡先を交換した。家族以外で初めてだ。
人とうまくコミュニケーションを取れない俺たち。今の聖子さんとの会話だってもう少し言い方があったはずだ。
関口君の事が好きな柳さん。
……自分の事じゃないけど応援したい。
俺も木下さんの淡い気持ちを抱いているから柳さんの気持ちはすごくわかる。
俺はその後、スマホの前で一時間ほど悩み――メッセージを送った。
『一緒にコミュ障を治したい』
俺は返信が来るまでスマホをずっと握りしめていた――