第六話 困惑
「……何故」
メリッサは帰宅して早々に、目を見張っていた。
帰宅するや否や執事に客間に来る様にと伝えられ、着替えもそこそこに慌てて向かえば、いるハズのない人がいたからだ。
父が自分よりも先に帰宅していた事も驚きなのだが、何故かそこに王弟であるアーシュレイがいたのだ。
「私がいては、不服なのかな?」
アーシュレイは紅茶を飲みながら、面白そうにしている。
「滅相もございません」
そういう訳ではない。普通に帰宅して殿下がいれば、気構えていないだけに息が止まる。
後は純粋に、何の用で来ているのかが気になっただけだった。
「国事……とだけ教えておこうか? メリッサ」
気にしているのがバレたのか、王弟殿下がニコリと笑った。
「不躾な視線を向け、大変失礼致しました」
自分が問いていいモノではなかったと、素直に非礼を謝罪した。
自分が王妃になっていたとしても、目でモノを言ってイイ立場ではないのだ。
「構わないよ」
気にした様子もなく、アーシュレイはソファから立ち上がった。
父との話は終わっていたのだろう。
「メリッサ。少し話をしようか」
帰るのかと安堵していたメリッサは、思わず「は?」と言葉が漏れるところだった。
「庭園の薔薇は丁度見頃だ、メリッサ」
父に助けを求めたら、予想外の答えが返ってきた。
庭園の~なんて言うのだから、そこで話すといいって事なのだろうけど……。
何故? とは聞けずメリッサは仕方なく「はい」と返事をした。
◇*◇*◇
「見事だね」
アーシュレイは薔薇の庭園を見て、目を細めた。
王宮に負けず劣らずと言われている侯爵家の庭園。アレク王子が来た時も、同じ様に「見事だ」と言っていたのを思い出す。
あの時はまだ、私の事を婚約者として扱ってくれていた。
いつから、心変わりを……とは考えなくても分かる。
マーガレット=ブロークンという男爵家の少女が現れてからだ。
どう知り合ったか全く分からないが、高等部に入って出会ったとだけ人伝に耳にした。
しばらくするとアレク王子は、侯爵家にはパタリと遊びに来なくなった。それと同時に昼休みや放課後、2人でいるのを度々見かける様になった。
夜会のエスコートは徐々に減り、マーガレット男爵令嬢をエスコートする姿を見始めた。メリッサに対する贈り物はなくなり、その分マーガレットの身の回りに変化が起きていた。
明らかに身の丈に合わない、ドレスや宝飾品が増えていった。
そして……極めつけは先日の夜会である。
マーガレットが着ていたのは、王族のみに許されている "エストールブルー"のドレスだ。今まで婚約者であるメリッサが、着る事を許されていた色。
あれを見れば、マーガレット男爵令嬢がアレク王子の "何か"なんて聞かなくとも分かる。メリッサの自尊心もズタズタである。馬鹿にするにも程がある。
浮気も最低だが百歩譲って許したとしても、婚約者であるメリッサは立てるべき事。なのに堂々とし、浮気相手のマーガレットまでもがメリッサを小馬鹿にした態度だった。
メリッサの心は日に日にすり減り、今はもう疲弊しきっていた。
「……っ!」
メリッサの目の前が、突然真っ暗になった。
「上の空はいけないな、メリッサ」
アーシュレイが、メリッサの顔を覗き込んで微笑んでいたのだ。
どうやら、返答が曖昧になっていて心がココになかったのを、見抜かれてしまったみたいだった。
「た、大変……申し訳ありません」
そう謝罪しながら、慌てて数歩下がった。
アーシュレイの美貌が目の前で、ドキドキしてしまったのだ。
その挙動にクスリと彼が笑えば、頭上から降る美声に胸がドキリと跳ね上がる。
そして、アーシュレイからフワリと香る、優しく甘い甘美な香り。アレク王子にはない大人の香りだ。
メリッサは色んな意味でクラクラとしていた。
「どうせ、アレクの事だろう?」
耳元でそう言われ、メリッサはドキリとした。
それは、アレクの事と言われた事になのか、耳元に掛かる美声になのか、もはや自分では分からない。ただ、なんだか無性に……胸が痛くなっていた。
「気にするなとは言わない……だが、アレのために泣くのは少々妬けるね?」
「……え? あっ」
メリッサ自身も気付かなかったが、瞳からは涙が溢れていたのだ。
アレク王子との懐かしい思い出を振り返っていたら、自然と涙が溢れていた様だった。
「ん」
メリッサの涙をアーシュレイが、キスで拭う。
目頭に優しいキスを降らせていたのだ。
それは涙の跡を辿る様にゆっくりと、目頭から頬に、頬から――
――その時、パチリと目が合った。
「そんなに無防備だと、食べたくなるね? 可愛いメリッサ」
そう言ってアーシュレイは、メリッサの口端に僅かに掠める様なキスを1つ落とした。
「~~っ!?」
メリッサは一瞬何が起きたか、分からなかった。
だが、口端に何かが触れた様な感触はある。それが、王弟殿下の唇だと理解するのに数秒掛かっていた。
そんなメリッサを横目に、アーシュレイは食べ残しでも拭う様に、自身の口を妖しく艶かしく親指で拭った。
「……っ!」
その妙な艶っぽさに、メリッサは口を押さえたまま頬を紅く染めていた。
ひっぱたいてもイイ出来事だ。なのに、手は王弟殿下の頬には伸びず、自身の口や頬を隠すのに精一杯だった。
熱を帯びた頬を見られたくはなかった。だけど、その妖しく光る瞳から、何故か目が離せなかったのだ。
逃げなきゃダメと警告する自分と、まだ見ていたいと思う自分が頭の中で戦っていた。
戸惑いながらもメリッサは、足を少しだけ後ろに下げ距離をとる。それが今、メリッサの出来る小さな小さな抵抗。
「さて、今宵見る夢はアレクかな? それとも?」
戸惑うメリッサを愉しげに見つめ、ゆっくり近付くアーシュレイ王弟殿下。
そして再び、メリッサとの距離を縮めた。
「良い夢を」
そう言って、今度は口を押さえるメリッサの手の甲に、優しいキスを落として去って行ったのであった。