第十七話 本当の婚約破棄
ーーその後。
アーシュレイ王弟殿下が提案した制約内容に、メリッサの胸は早鐘を打った。
メリッサにとって悪くない話だったが、すぐに返事は出来なかった。
その提案は、決して嫌という訳ではない。だが、その制約は彼のメリットが見えない。
なのに、自分に好機を与えてくれるのは何故か。
それを訊いたら、アーシュレイ王弟殿下は恥ずかしげもなく、こう言った。
『キミが大切だからだ』
アレク王子にも言われた事がない台詞に、メリッサの心は揺らいだのであった。
少し考えさせて欲しいとお願いすれば、勿論だと頷いてくれた。
ただ、返事に期限は決められていなかったが、早めの方が良いと言って帰って行った。
父フォレッド侯爵が、婚約相手を決めてしまうかもしれないし、アレク王子とマーガレットの事を精算される可能性もあるからだ。
父が決めた婚約者に、メリッサは今更異論は告げられない。
アレク王子とマーガレットのおままごとみたいな関係も、国王や王妃の出方次第ではすぐに終わりを告げるだろう。
となれば、次の候補が出ない今、表立って白紙になっていないメリッサとの関係は、何事もなかった様に続く事になる。
父の返答次第でメリッサは、すぐにでもアレク王子の婚約者に戻るのだ。
もう、自分の人生を誰かに振り回されるのはゴメンだ。
好きでもない人と、一生同じ道を歩むなんてウンザリする。
メリッサは今まで流されるままで、考えなかった事、行動を起こさなかった事を後悔していたのである。
◇*◇*◇
ーーその夜。
父が屋敷に帰宅して早々に、メリッサは書斎に呼ばれた。
アーシュレイが、自分の留守中に来訪した事を知ったからだ。
「彼は何しに来た?」
侍女の持って来た紅茶には一切口を付けず、ソファに座った途端にそう言ったのである。
当然、使用人達や母にも訊いたに違いない。
だが、聞き耳さえ立てられない場所での会話だ。メリッサ達が何の話をしていたなんて、想像でしか出来ないのである。
この父の言葉を聞いて、メリッサは感嘆してしまった。
アーシュレイは、既に全ての可能性を考えた上で、あんな場所で話をしたのだ。
屋敷からも見通しが良い場所。それは、逆にこちら側も人が来ればすぐに分かる場所だ。聞き耳しようにも近寄れば、すぐにバレてしまうのだ。
「少し話をしました」
さて、どうしようか? とメリッサは考えた。
ありのままを話しては何の意味もない。アーシュレイが、わざわざ父のいない時間を狙って来てくれた意味が無駄になる。
だからといって、何も話さないで誤魔化せる訳もない。
「話とは?」
「自宅療養していると耳にしたらしく、お見舞いに」
わざと困惑した様に答えておく。嘘は言ってはいないが、全てではない。それを今、悟られる訳にはいかない。
「お前に花を持って来たとか?」
「えぇ、王宮の薔薇園で栽培している薔薇でしたわ。アマンダローズではありませんでしたけど、綺麗ですわね?」
アマンダローズとは、国王が王妃アマンダの何回目かの誕生日に合わせて、品種改良させた王妃だけの薔薇だ。
数回見せてもらった事はあるけど、アマンダらしい情熱の赤。濃すぎて逆に、引くぐらいの赤さだったのを覚えている。
「アレク殿下がマーガレットさんに、アマンダローズを渡されたのを見た事はありましたが、流石にアーシュレイ殿下はそんな良識外れな方ではありませんよ」
嫌味も混じりさせ、メリッサはココにはいない婚約者を揶揄ってあげた。
「そうそう、それで思い出しましたわ。つい先日の夜会でマーガレットさんは "エストールブルー" のドレスを着ていらしたわ。アレク殿下はマーガレットさん、いえマーガレット様をお披露目した様なものですわね」
「……」
アーシュレイとの会話を訊いたのだが、余りにも酷いアレク王子の行動に話が移り、父は渋い顔をしていた。
アマンダローズを渡した事も、エストールブルーのドレスを贈った事も、調書には載っていた。
だが、やはり娘メリッサも知っていたのだ。
エストールブルーを贈るなんて論外だ。しかも、夜会でお披露目したなんてあり得ない。
父フォレッド侯爵もそれについては憤りを感じたぐらいだ。
メリッサは夜会でどれだけ恥を掻かされたか想像に難くない。
だがーー。
だが、である。
「アレク殿下とは、やはりやり直せそうもないか?」
マーガレットは王妃には迎えられない。
次もいない。そう思うと、国を憂いてフォレッド侯爵は聞いてしまった。
「……」
アーシュレイの言った通りだと、メリッサは思った。
父である前に、この国の宰相なのだ。
「婚前の浮気の1つ、許してやる事は出来ないか?」
父のこの言葉に、メリッサは一気に幻滅してしまった。
アレク王子自身から1度も謝罪の言葉がないのに、何故自分が許さねばならないのだ。我慢する事は美徳ではない。
「お母様に1度、相談しても宜しいですか?」
「何をだ?」
「婚前の浮気を、妻としてどうお思いになられるのか」
メリッサが提案した途端に、父の声色が変わった。
怒っているのか、何かあるのか、読めない声色だ。
「訊いてどうする」
「同じ女として、何をお感じになられるのか、1度お聞きしたいのですわ」
首を傾げて可愛らしく言ってみた。
母がどう答えたとしても、自分が許せるかは別だけど。
「……」
メリッサがそう言うと、父は押し黙ってしまった。
母に訊いて、浮気を許せなんて言う訳がないと、知っているからだろう。
「婚前だろうと後だろうと、婚約までしているのであれば、許せませんわよ」
書斎のドアが、ノックもなくいきなり開いた。
立ち聞きでもしていたのか、母ローズが意味深な笑いをしている。
「立ち聞きとは非常識だぞ」
父が不機嫌そうな顔をして母を諫めた。
だが、母はそんな父などお構いなしにツカツカと書斎に入って来た。
「娘の人生が掛かっているのに、黙っていられますか」
「……」
「メリッサ。浮気は許さなくて宜しい。アレク殿下とは破談で決定です」
「お前、何を勝手に」
母ローズの満面の笑みに、父は何故かたじろいでいた。
確かに、満面の笑みだが妙に迫力があって怖いが。
「何故、キチンとアレク殿下とは終わったと公表致しませんの?」
「時期を見てーー」
「時期? 一体なんの?」
「色々あるんだ」
「何が色々ですの? メリッサはその間もずっと好奇な目や、蔑みの目で見られるのですよ!?」
「い、いや、しかしだな」
父、母ローズの剣幕にタジタジである。
国を憂うる宰相様も、妻には勝てないらしい。
「わたくしも、あなたがマーシャ? アリス? そんな名前のどこぞの令嬢と浮気していた時は、好奇な目で見られましたわ。そんな辛い思いをーー」
「お、お前!? サーシャの事をーー」
「あら、サーシャでしたの。勿論知ってましてよ? あぁ、踊り子の方も知っていましたけど?」
「なっ!!」
雲行きはガラリと変わった。
母はメリッサの事で、思い出したくもない過去と重ねてしまい、ペラペラと話し始めていたのだ。
聞いている限り、父は母との結婚前に浮気をしていたらしい。しかも、1人ではないとか。
それも、父はまだ相手の事をしっかり覚えているとか、メリッサは色々とドン引きである。
母は今までずっと黙っていたのだが、メリッサに自分を重ね苛立ちが復活した様子だった。積年の恨みとばかりに、父に鬱憤をぶつけ始めている。
「……」
そんな話を聞きたくなかったと、メリッサは衝撃を受けていた。
政略結婚とはいえ、父はずっと妻一筋だと信じていたのだ。
その虚像が崩れた瞬間であった。
「大体、何故わたくしが知らないと、お思いになられていたのかしら?」
「……」
「箱入り娘だから分かる訳がない? 甘いにも程がありましてよ?」
母が睨めば、父が愕然としていた。
今の今まで、バレていないと信じていたのだろう。瞬きさえ忘れているのだ。
母は黙っていただけで、許していた訳ではない。
なんなら、ずっとフツフツと燻り続けていたのだろう。たまたまきっかけがなかっただけで、マグマの様に静かに静かに煮え滾っていたのだ。
それが、今、沸き出てしまった。鎮火出来るかは、父の言動次第である。
「夜会に行けば、彼女はわたくしに突っかかって来るし、観劇に行けば好奇な目で見られるし、あの頃は本当に殺してやろうかと思いましたわ」
「……コロ」
父、顔面蒼白、唖然茫然である。
いつもにこやかな母に、そんな苛烈な一面を見たのだ。
ちなみに、どちらを殺そうと考えたのかは聞きたくない。
「メリッサ、浮気なんかする男は屑、塵、カスよ」
「……はい」
「ね? あなた?」
「……はい」
父はもう何も言い返せない様だった。
フォレッド侯爵は平静を装いつつ、余計な事を言わなければ良かったと後悔していた。
国王夫妻に言及した時は、父として意見を言ったのだ。だから、浮気は不貞で許せないと強調したが、実は内心は一回くらい……と思っていた。
だが、今、それを言ったら地雷だ。離縁もある。
昔はともかく、今は妻一筋。
フォレッド侯爵は妻に何も言えず、ただただハイハイと頷くしかなかったのであった。




