第一話 イヤな夢
「メリッサ=フォレッド。お前との婚約を破棄する!!」
婚約者である、アレク=エストール王太子が高々と声を上げた。
あぁ……やっぱり。
メリッサは驚きよりも納得してしまっていた。
彼の隣に立つ、ふわふわロングの髪をした少女を見て……。
「……殿下」
そう言った瞬間、自分の震えた声に驚き……目が覚めた。
そう、夢だった。
しかし、あり得る夢。
現実に起きるかもしれない夢。
「お嬢様、どうなされましたか!?」
着替えを持って来てくれた侍女頭のサリーが、心配そうに声を掛けてきた。
いつもは自分が来るよりも先に起き、軽く身支度を整えている筈のメリッサが、まだ起き抜けだったからだ。
髪はボサボサで寝汗の跡まであるのだ。しっかりしている彼女がこの姿となれば一大事である。
「大丈夫よ、サリー」
「ですが、ロッテ、湯あみの用意を!」
「はい! ただ今」
侍女頭は一緒に連れていたロッテに、湯あみの用意をする様に指示する。
ロッテが慌ただしく準備を整えに行くと、他の侍女達は何も言わずとも、タオルケットや白湯等を用意してくれた。
「ありがとう。少しだけ嫌な夢を見ただけよ」
メリッサは心配をかけまいと微笑んだ。
自分の悪夢のために、心配させては悪い。まだ現実には起こってはいない。たかが夢なのだから。
「心配事がおありなのですね? 私共では大したお力にはなりませんが、出来る事があればお申し付け下さいませ」
侍女頭サリーがそう言うと、侍女達も優しく微笑み頷いていた。
「皆、ありがとう。でも、夢だから。もしもの時は、手を貸してくれるかしら?」
メリッサはお礼を伝えると、用意してくれたお湯で顔を軽く濯ぎ、白湯を一口飲んだ。
「「「はい!!」」」
サリー達の優しさが、悪夢を洗い流す様に身体に温かく染みていた。
◇*◇*◇
天井からは何千万とする高額なシャンデリアが、いくつも吊るされ煌びやかに光っている。絨毯は毛足が短くフカフカ。
小さなテーブルには、ほとんど誰も口にしない軽食が、色とりどりに並べられている。
ホールの片隅には、ダンスのためだけのオーケストラが勢揃いしており、格の違いをまざまざと見せつけていた。
貴族の面倒くさい行事の1つに、毎夜の様に何処かで開かれる夜会がある。
独身者達が結婚相手を捜す場でもあり、お遊び相手を捜す場。いずれは官位に就くかもしれない人達との、伝手やコネを作る場でもある。
それは誰が開く夜会かによって様々だ。
今回は、とある身分の方の夜会だ。
招待を受けた方々は地位や名誉のある、御仁の息子や娘。いわゆる官僚達の子供の社交場と化している。
下は子爵から上は公爵まで、実に幅広く集まっていた。
「あらやだ。メリッサ様、また一人でしてよ?」
「婚約者のアレク様はどちらにいらしているのかしら」
「御執心の女性がいらっしゃるとか……」
婚約者のいる筈のメリッサが1人でいるのを見た令嬢達が、クスクスと聞こえる様に嗤い立てていた。
そう……メリッサ=フォレッドは何故か1人だった。
夜会といえば婚約者がいれば必ず連れているのだが、彼女にその連れが見えなかった。それを分かっていて、皆はわざと聞こえる様に嗤うのだ。
【人の不幸は蜜の味】
だがその不幸がいずれ、自分に降りかかる可能性を秘めている事にも、爵位を持った令嬢なら気付かなくてはいけない。
格下の爵位に言う悪口と、格上に言う悪口では意味が違うのだ。
彼女の婚約者はただの男性ではなく【王太子】なのである。
そして次期国王の婚約者であり、侯爵家の娘。なんなら王の右腕【宰相】の愛娘。自分の起こした小さな火種〈悪口〉が、自分の家には大きく〈お取り潰しとして〉降りかかってくるかもしれない相手。
それを目の前の優越感で、忘れてはいけない。
メリッサはそんな陰口や悪口が囁かれているのを知っていた。誰が言っているのも把握している。
父親を使って叩き潰せる力もある。だが、しない。
いつでも出来るからである。
「いつも楽しいお言葉、感謝致しますわ。リリアナ様、アンネ様、そしてフレア様。今夜は余りにも楽しかったので、是非お父様のお耳に入れておきますわね?」
メリッサは悪口を言って楽しんでいた令嬢に、ニッコリと微笑んで軽く頭を下げた。
要するに今の悪口も父に伝えておくわよ? と言ったのだ。
本当にペラペラと話すつもりはない。だが、さすがに毎回となれば、キリがないし苛つくのだ。少しばかり、意地の悪い言葉が出ても致し方がないだろう。
「「「あっ!!」」」
「いえ、あ、メリッサ様!」
「私達はそんなつもりじゃ!」
「家に帰ってまで話す事ではっ!!」
3人の慌てる声が背に聞こえた。
お父様に……と言われ、メリッサの父が誰がと思い出した様だった。
メリッサから宰相の父親に告げ口等をされたら、宰相の下にいる自分達の父の立場が悪くなると、やっと気付いたらしい。言い訳じみた声が、アワアワと聞こえる。
「ふふっ」
メリッサは遠ざかりながら小さく笑っていた。
慌てるくらいなら始めから、言わなければいいのに……と。身分を笠に着るつもりは端からない。ただ、人の不幸を嗤う言動が許せなかっただけ。
でも、言われて気付いたのなら、これからは悪口よりおべっかに変わるのかもしれない。それはそれで面倒くさいのだけど、悪口よりは精神的にイイだろう。
聞こえない陰口ならともかく、耳に入る悪口は非常に疲れるのだ。
悪口に当てられ少し疲れたメリッサは、テラスに行く事にした。一人でいる事で、勝手に可哀想だと話し掛けてくる相手にも、ほとほと疲れたからだ。
人気のないテラスは、静かで心も落ち着く。
少しだけそよそよと風を浴び、それから帰路に向かえばいいかな……と考えていた。
「行かない方がいい」
テラスに向かうメリッサの腕を、誰かが優しくも強い力で引き寄せた。
「なっ……や……」
テラスは逢い引きの場でもある事を、すっかり忘れていたメリッサは、頭に最悪な考えを浮かべてしまった。
力ずくで何かされたとして、自分の……侯爵家の未来を……。
突然抱きすくめられたメリッサは必死に「止めて」と口にし、男の腕から逃げようと見上げた時――
メリッサは思わず息を呑んだ。