307 魔王、解き放つ(主神side)
ミスリル鉱山近辺で繰り広げられる攻防を、魔王こと主神オーディンは眺めていた。
場所は彼の本拠、魔王城から。
全知全能である神は、地上のどこにいようとも地上のあらゆるすべてを見通すことができる。
「だいだんえんー、素晴らしい!」
ぱち、ぱち、ぱち……。
魔王の間の広い空間に、気のない拍手がよく響いた。
「嫌がらせのつもりでくっ付けたベゼタンくんを逆に利用してダリエルくんを絆すなんてね。なかなかやるじゃん、いーじゃん、すげーじゃん」
独り言のように呟く魔王。
その姿は、ラクス村に潜入した時と変わらない。
あどけない子どもの姿だった。
全能の存在なれば姿かたちす阿蘇の時の気分で自由自在だが、いちいち変えるのが面倒なのか。
「まあ、見世物としては最高に面白えかなー? イダくんはどう思う?」
「はッ」
その傍らには、全身純白のあどけない少年が跪いていた。
子どもに従う子ども。
見ようによってはままごとのようであるが、しかし、けっしてそうは思えぬ緊迫した空気がある。
ともあれ、見た目より遥かに歳経た、この世の存在ですらない過去の四天王『天地』のイダは言う。
「気骨の好ましさはさておき、由々しい事態かと。彼らの望みが達成されては地上より争いは断たれ。弛緩した停滞に支配されてしまいます」
人には多くの意見があるが、少なくともイダにとって平和は許しがたいことだった。
生前は、今よりなお混迷する戦乱時代を生き抜いた猛者。
死後には、魔王が支配する世界の一つヴァルハラへ迎えられ、未来永劫戦い続ける存在へと昇華した。
そんな来歴を持つ彼だからこそ、争いのない世界など可能性を示唆するだけでも許しがたいのだろう。
「平穏を求めること自体は否定しませんが、それは闘争を乗り越えた先にこそあるべきものです。戦いを途中でやめるなど言語道断。魔王様のお許しをいただきますれば、この私みずから阻止に向かいますが……?」
「いいよ、いいよ、ちょっと意見を聞きたかっただけ」
この世界の主神でもある魔王は、それでもまだ気のない雰囲気で何を考えているのかわからない。
果たしてこの成り行きに喜んでいるのか、憤っているのか。
あるいは何の興味もないのか。
「そもそも、ベゼリアくんの行動を許可したのはぼくちんだしねー。いくらこの世界で一番勝手気ままにできる支配者でも。自分の言動には責任を持たないと……」
「魔王様は、あの若僧がここまでやることをお見抜きであったと?」
具体的なことはまだなにも成し遂げていないが、あのダリエルを説き伏せた一事だけでも驚嘆に値した。
何しろあの男は、魔王直々の要望すら退けた過去がある。
魔王が唯一、自分を倒しうると認めた力……『天』の力にたどり着いたというダリエル。
そんな彼だからこそ力ずくでは従わず、彼の真情に訴えかけることでしか動かすことはできない。
ベゼリアは、その真情に届いたということだろう。
イダはヴァルハラの使徒として、ただひたすらに力を信奉する者。
そんな彼にとって現世で四天王を務めるベゼリアなどまだまだ若僧に過ぎないが、それだけにダリエルを動かしたことが衝撃だった。
「……ベゼリアくんなんて眼中になかったさー」
魔王は言う。
「たまーに出てくるんだよね、ああいうこと言う子。『争いはやめよう』『平和が一番』。有り触れた綺麗言だから、定期的に繰り返されるんだよ」
「そして、どうなるのでしょう?」
「現状を見ればわかるでしょう? 何にもならないよ? そして平和がどうのと言い出した子らも何にもならない。地獄にもいかなかったしヴァルハラにもいかなかった。所詮凡百だよね」
ベゼリアもその一人かと思っていたので少しも注意を払わなかった魔王だった。
精々、ダリエルから見て仇である『泥水』ベゼタンとの血縁に着目し、ダリエルに何らかの刺激を与えられないものかと保存しておいたベゼタンの残留魂を憑依させた。
その程度のもの。
その一手が、世界全体の状況を思わぬベクトルへ突き動かそうとしている。
「好ましくないねえ……」
イダがますます深くひれ伏した。
ヴァルハラに迎えられるほど忠実な士にとって、魔王の意に反する状況などあってはならない。
「やはり私が出向きましょう。そして偉才ダリエルを葬り、ヴァルハラへ迎え入れればようございます」
「ドリスメギアンくんを滅した彼を、キミがどうにかできるって?」
その言葉はイダの胸に突き刺さる。
「天道に踏み入ったダリエルくんの存在力は、修羅道のキミらじゃどうにもならない。余計なことは控えたまえ」
「は……ッ!」
「ぼくちんはねえ……」
魔王は……神は語った。
その口調の重さに、イダも自然と身を引き締める。
「……何故生まれてきたのかな?」
「は?」
「ずっとわからなかった。全知全能であるはずのぼくちんに唯一知りえないこと。それは存在する理由。我が身が発生してから数万年は、それをずっと考えてた気がするねえ」
そして神は一旦、一つの回答を仮定する。
進化するためだと。
「生まれ出でたモノは、どんな形であれ変化していく。変化することそのものが生であり、変化をやめることが死だ。そしてぼくちんも存在するからには生きている、生きているから変化しなければならない。そしてどうせ変わるならいい方向に変わらねば」
よりよく、より優れた状態に変わること。
そういう変化こそが進化。
「しかしぼくちんは生じた段階で完全無欠だからね。これ以上進化しようがない。それならどうすればいいか? 自分自身が上へ行けないなら、自分を超える他者を創り上げればいいんだよ」
それが神の、今日まで続く戯れの始まりだった。
自分を超越するものを創り上げるため、まずは率直に最強の怪物たちを生み出したが上手くはいかなかった。
その怪物たちが今では魔獣と呼ばれる。
次に試みたのは、最初は弱い生命を少しずつ育て上げ、いずれは自分を超えるように導く。
ヴァルハラや地獄など、肉体から魂が開放されたあとも進化できる道筋も整えた。
ダリエルは、その果てに到達した回答の一つだ。
ついに人間は神を殺しうる段階にまで至った。
成果を得たと喜びながら、しかしダリエルは魔王を倒すことを拒否したのだ。
能力を持ちながら、実行する意志を持たない。
挙句、ベゼリアが唱える平和に傾倒し、協力を受け入れてしまった。
「彼の言動を見ているとねえ……思うんだよ、果たしてぼくちんがしてきたことは正しかったのか? とね?」
「それは……!?」
イダは聞いているだけで慌てた。
完全無欠の神が間違いを犯す、そんなことがあってはならないと。
「神を越えるということは、神を殺すこと。ずっとそう思ってきたし、これまで人類にもそうするように仕向けてきた。しかしダリエルくんを見ているうちに思えてきたんだよ。神を超える方法は、たった一つだけなのかとね」
神と戦い、神を倒し、神を殺す。
それだけが神を超える唯一の方法なのか。
しかしダリエルは、その唯一無二と思われる道筋を拒否し、それだけでなく以降いくつも神の思惑を超える振舞いをとってきた。
「そんな彼を見てきて思ったよ。真の意味でぼくちんを超えること……神を超えるということは、それこそぼくちんが想像もしたことのない方法によってでなければならないんじゃないかとね」
神の想像から逸脱するほどでなければ神を超えたことにはならない。
図らずも今、ダリエルは神の整えた世界の構造を逸脱しようとしている。
「もしかしたらこうして神の構築した世界を踏み越え、人間が人間だけの想像力で新たな世界を築き上げることこそ、真に神を超えることになるのではないか?」
「違います……違います!」
イダが声を震わせ拒否する。
「我が主よ……何故そのような無体なことをおっしゃるのです? 私たちは、ただアナタのお役に立つため、アナタを超えるために今日まで奮ってきたのです」
死後肉体が滅びようと、ヴァルハラという魔界に踏み入れてまでみずからを鍛えるのは『自分を超えよ』という神の命令に従って。
「私だけではありません……! ドリスメギアンなどは私など及びもしないほど……アナタのために正義も誇りも捨てたのです! なのにそれが間違いであったなど、それではヤツがあまりに報われません!」
「別にぼくちんが『捨てろ』と命じたわけじゃないしね……」
魔王が虚空へ手を伸ばす。
「でも早とちりしないでくれ。まだ結論が出たわけじゃない。彼らが正しいのかどうか改めて試してみようじゃないか」
そう、たった今一つの試練を乗り越えたばかりのダリエルたちに。
さらなる試練をまたすぐ与える。
「ダリエルくん。……キミが、ぼくちんの想定を真に上回るなら。あの子ももう必要ないだろう。あの子をどう処するかキミのお手並みを拝見して、改めて結論を出したいと思うよ」
魔王の手から放たれる魔力が、遥か遠くへと運ばれる。
「さあ、長い間『待て』させて悪かったね。もう我慢しなくていいよ。好きなようにこの世界すべてを食い尽くすがいい。キミはそのために生まれてきたんだからね」
神が最初に生み出した、ただ神を超えるためだけに生まれた存在。
その中でも最凶最悪とみなされた五体目の魔獣。
「お手、おかわり、ふせ……、よーし、すべてを食らい尽くせ極魔獣フェンリルよ。…………行け」






