1話
6月の終わり。
梅雨なのに涼しい日が続いたある日、5時限目が自習になった。
現国の先生が風邪を引いて休んだのだ。
黒板にはデカデカと自習の文字。
みんな、ここぞとばかりに受験科目の強化をしてる。
なのに、私はまた絵を描いていた。
通路を挟んで隣に座ってる、西山くんの横顔を。
高3になった時のクラス替えで、西山くんの横の席になった。
初めて同じクラスになったから、話したことも無かった人。
隣の席になった時も、お互いに名前を言って「よろしく」と言っただけ。
西山くんはよく頬杖をついて前を見ていた。
どこを見ているんだろうと、そっと窺う。
でも、どこを見てるってわけでもなく、ただ前を見つめてる。
その瞳がまっすぐで、でもどこか寂しげで…
初めて見たときから惹き付けられて、描かずにはいられなかった。
西山くんに分からないように手元を隠しながら、ペンをすべらせる。
描いていて、いつも少し足りないと思ってしまう。
こうじゃない、西山くんの横顔はもっと…
どんどん西山くんの横顔が増えていく。
西山くんを見つめる時間も…
そうして、ノートが西山くんの横顔で埋まった頃。
私は西山くんを好きになってた。
7月に入ったある日。
最後の部活だった日。
帰りがけ、机に置いたままのノート一式を取りに来た。
教室に近づくと、ギターの音と歌声が聞こえる…?
ガラッと引き戸を開けると、薄暗い教室の中に人影が見えた。
「誰?」
よく見えなかったから声を掛けてみたら、西山くん…
「ごめん…人がいると思わなくて。西山くん、まだ帰らないの?」
そう言ってから、自分の机に向かった。
こんなタイミングで会うなんて思ってもいなくて、急にドキドキしてくる。
もしかしたら、西山くんに聞こえてしまうかも…
顔を見られたら分かってしまう。
私は、俯いて自分の机にかばんを置いた。
「ああ、ちょっとギター弾き始めたら、こんな時間になっちゃったんだ。岡本さんは部活?」
「うん、終わったんだけどノート全部教室だったから」
「そっか」
西山くんが軽音部だったことは知ってる。
定期ライブの時は、客席がいっぱいになるってことも。
3年になった時に引退したって聞いたのに…
教室で、ギターを弾いたりするんだ。
私は、西山くんのギターも歌も聴いたことがない。
もう少し早くここに来たら、聴けたのかもしれなかったのか。
残念な気持ちと、でも聴いたら平静でいられないような気もして。
まだドキドキしながら、机の中からノートを出した。
話をしながら、ノートをかばんに入れようとした時だった。
手からスルッとノートが抜け落ちて、バサバサっと開いた状態で、床に広がった。
いけない、ドキドキして上手く入れられなかった…
「大丈夫?」
西山くんがギターを置いて、サッとしゃがみこんで、広がったノートをつまみ上げてくれた。
「ありがとう」と言って、受けとろうとしたのに…
ノートをひっくり返して、目を見開く。
「これってもしかして…俺?」
「あ、ダメ、見ないで」
見ないでって言ってるのに。
返そうとしないでパラパラめくって見てる。
「これ、全部俺なんだね」
バレちゃった…
西山くんだらけのノート、まるでラブレターみたいで恥ずかしい。
あっという間に顔が赤くなってきちゃった。
「うん…ごめん」
ノートを持ったまま、西山くんが私の顔を見た。
「なんで謝るの」
「だって…黙って描いちゃったから」
「そんなこと」
そう言って、西山くんがノートを渡して来た。
「…怒ってないの?」
恐る恐る聞くと、西山くんがパッと笑顔になった。
「こんなよく描いて貰って、怒るわけないじゃん。」
「ほんとに?良かった…あの…これからも…」
「描きたいならどうぞ。俺は構わないよ」
「ありがとう」
良かった…
でも、安心するどころか今の笑顔でもっとドキドキしてきた。
もう、ダメ。
帰らなくちゃ。
「じゃあ、私帰るね」
「あ、俺も帰る。一緒に出ようよ」
「う…ん」
さっきのドキドキがまだ抜けないまま、駅まで一緒に歩いた。
その間、ずっと二人で喋ってた。
西山くんとこんなに話すのは、初めて。
好きだって思ってからは、なかなか話し掛けられなかったから。
でも、西山くんはそんなこと知らないから、色んなことを聞いてくる。
気づくと、自然に話が盛り上がってた。
私、人見知りだったはずなのに。
人懐こくて、私の言ったことをよく聞こうと、時々顔を覗き込む。
無意識かもしれないけど、その度にまたドキドキした。
そんな風に喋っていたら、あっという間に駅。
偶然教室で会って、一緒に帰る。
たまたまでも、私にとっては大きな出来事だった。
それから、教室で西山くんから話し掛けられるようになったんだから。
授業が終わって、すぐ帰るつもりだった。
だが、カバンを机の上に置いた途端、頭の中に微かにメロディーが流れた。
これは、曲が出来そうだ。
そう思ったら、居ても立ってもいられなかった。
皆が帰るのを辛抱強く待ち、ロッカーからケースに入ったギターを取り出す。
そして、頭の中で鳴り始めたメロディーを、ゆっくりとギターで鳴らしていった。
どのくらいの時間がたったのか。
教室の引戸がガラッと開く音で、我に返る。
誰かが入って来た。
あれ…隣の席の子だ。
「ごめん…人がいると思わなくて。西山くん、まだ帰らないの?」
びっくりして目を丸くしたあと、俯きながら俺が腰かけてる後ろの席に、近づいて来た。
「ああ、ちょっと弾きたくなっちゃって、没頭してたらこんな時間になっちゃったんだ。岡本さんは部活?」
「うん、終わったんだけどノート全部教室だったから」
「そっか」
部活組も大変だな。
そろそろ引退なんだろうけど。
そんなことをチラッと考えていたら、バサバサッと音がした。
振り向くと、ノートが開きっぱなしで落ちてる。
「大丈夫?」
ノートの背をつまんで持ち上げてひっくり返すと、ひらっとページが繰られた。
ページいっぱいに横顔の絵。
「…これってもしかして…俺?」
「あ、ダメ、見ないで」
見ないでって言われても…
こんな風に自分が描かれていたら、見てしまうじゃないか。
「これ、全部俺なんだね」
「うん…ごめん」
ノートを持ったまま、少し俯いてる岡本さんの顔を見た。
赤くなってる…
見られて恥ずかしがってるのか?
「なんで謝るの」
「だって…黙って描いちゃたから」
「そんなこと」
そう言って、岡本さんにノートを渡した。
すると彼女ノートを胸に抱えて、俺を見た。
「…怒ってないの?」
恐々した顔で聞かれたから、思わず笑ってしまう。
「こんなよく描いて貰って、怒るわけないじゃん」
「良かった~あの…これからも…」
「描きたいならどうぞ。俺は構わないよ」
「ありがとう」
ホッとした顔で、ノートをしまう彼女。
いつの間にか自分のことを見ていて、あんな絵を描いてるなんて。
なんだか不思議な気がした。
まるで…告白されたみたいだ。
あんなに描いたってことは、あんなに岡本さんに見られてたってこと。
なんだか、俺まで顔が熱くなってしまった。
帰ると言う岡本さんと、駅まで一緒に歩いた。
さっきの気持ちのまま、やけにハイテンションで色んなことを喋った。
岡本さんが聞いてくれるのがなんだか嬉しくて。
駅下で別れるまでそれは続いて、笑顔でじゃあ、と手をちっちゃく振る彼女を見て、名残惜しくなった。
なんだろう、これ。
さっき、教室で浮かんでいた曲は、いつの間にか消えてしまった。
そのかわり、眠りから覚めたみたいに、別の曲が鳴り出したんだ。
俺の中で眠っていたメロディーを、彼女が目覚めさせたのか。
困った顔をしてノートを抱いていた彼女が…