第25話 黒翼 其の三
「え……雛?」
「ええ。有翼亜種は二十五で性分化が起こって成体となります。私は成体まであと五年程、というところですね」
「そう、なんだ……咲蘭様が……雛……」
咲蘭をじっと見つめながら、香彩が小さく呟いた。この何とも言えないとても意外な感情を、つい最近味わった様な気がしたのだ。
「……まあ、確かに『雛』という柄ではないですが」
声が響いたのだろうか。
小さな香彩の声をしっかりと聞き取った咲蘭が、不満そうに言う。
そんな咲蘭をくすりと笑うのは香彩だ。
「ごめんなさい、そんなつもりで言ったんじゃないんだ。竜紅人のこと思い出しちゃって」
「……彼がどうしたのです?」
「うん。竜紅人と療と一緒に紅麗に向かう途中でね、療がまだ覚醒前の竜紅人を『幼竜』って言ったことがあって、それを思い出したんだ」
普段の竜紅人を見ているだけに、あの『幼竜』という言葉があまりにも似合わな過ぎて、今の咲蘭に通じるものがあるなと香彩は思ったのだ。
咲蘭が大きく息をつく。
「確かにあなたの気持ちは分かりますが……一緒にされると、どうも複雑ですね。しかも彼はつい先程『成竜』になったのでしょう?」
咲蘭の言葉に、そうだけど、と返事をしようとして、ふと香彩は気付いた。その意外性に、再びきょとんとして咲蘭を見る。
「もしかして……咲蘭様、早く大人になりたいの?」
「何故そうなるんです?」
額に手を当てて、がっくりとした表情で言う咲蘭に、珍しいものを見たと香彩は思った。
咲蘭が感情を顕にしたり、それに伴った仕草を見せるのは、彼の上司達の前がほとんどだ。香彩や他の者の前だと、たおやかに笑んでいる印象しかない。
「まあ確かに、成体にならないと解決しない問題もあったりしますが、だからと言って『早く』とは思わないですね」
そうなんだ、と香彩は咲蘭から視線を外して湯殿の天井を見上げる。
綺麗に組まれた草葺きの屋根に覆い被さる、木々の葉擦れの音がとても心地良い。葉と枝の隙間から僅かに見える空は、先程よりも白んでいた。
刻は待つこともなく、確実に過ぎていくのだ。
「僕は早くなりたいよ、大人に」
大きくため息をついて、香彩が言った。
「早く大人になって、あの人が背負ってる色んなものを、一緒に背負えるようになりたい」
不意に伸ばされる手がある。
くしゃりと撫でられる頭に香彩は、くすぐったそうに笑いながら、再び咲蘭の方を向いた。
「あの方は、なかなか背負わせてはくれないと思いますよ、香彩」
「うん、知ってる」
香彩の応えに、咲蘭は先程よりも強めにわしゃわしゃと頭を撫でる。
「ところで咲蘭様?」
「何です?」
「髪の毛びしょびしょなんだけど」
濡れた手で頭を撫でられていたのだから、当然といえば当然なのだが、香彩は敢えてそう咲蘭に告げた。
「ついででしょう? どうせあの方に、私に洗って貰えと言われたのでは?」
うっと詰まる様子の香彩に、咲蘭はくすくすと笑う。
「放っておけば、あなたは適当に済ませてしまうでしょう? さすがは、あなたの性格をよくご存知ですよね」
「あの人……いつまで僕を子供扱いするんだろう」
「あなたがあの方の子供である限りは、いつまでも子供なのだと思いますよ」
さて、と言いながら咲蘭がゆっくりと立ち上がった。
「あなた自身が洗ってもさぞ綺麗なのでしょうが、どうか私にその春の宵闇に咲く、藤瑠璃色の春花の様な髪を、洗わせて頂けませんか? 香彩」
子供扱いが嫌だと言った香彩に合わせる様にして、咲蘭が微笑みながら手を差し伸べる。その余りのいたたまれなさに、香彩は盛大にため息をついた。
「……いや、あの……変なこと言ってごめんなさい。どうか普通に、普通に洗って下さい」
「素直が一番ですね、香彩。子供扱いして貰える内にたくさん『子供扱い』して貰いなさい。あとたったニ年です。ニ年であなたは十八。嫌でも『大人の扱い方』をされるのですから」
それは決して覆すことの出来ない決定事項だ。
いずれ引き継ぎを行い、受け継がれるであろう仕事であったり、中枢楼閣を護る式神であったりと、成人すると同時に責務と重圧がのし掛かって来る。
だが香彩がこれから歩む道を既に歩み、自らの力だけで切り開き、地位を確立させた者がいる。
彼はこれからも香彩の意思とは関係なく、見守り続け、心を砕き、時には忠告するのだろう。
それが心強くもあり、鬱陶しくもある。
洗場へと促され、とても優しい手つきで髪を洗われながら、香彩はそんなことを思ったのだ。