第24話 黒翼 其のニ
春の暖かな日差しの様な咲蘭の気配と相俟って、まるで一枚の絵を切り取った様な、静かで完成された世界が、そこにはあった。
香彩の目の前に、ひらりと綺麗な羽が舞い降りて来る。思わずそれを掴もうとして、湯殿へ足を踏み入れた途端、羽は静かに消え、咲蘭の気配も隠れてしまった。
何故かすごく惜しいことをしたように感じて、香彩は「綺麗、だったのに……」と咲蘭に言うと、それは残念と返され微笑まれる。
咲蘭の背にある黒翼もすでに消えていて、滅多に見られるものではなかったが為に、本当に残念だと香彩は心内でそう思った。
「咲蘭様の故郷の人達も、みんなそうなんだよね?」
すごく幻想的な光景なんだろうなぁ、と言いながら香彩は、咲蘭の向かい側で彼と同じ様に湯に足を付けて座る。
身体も沈めたいが、思っていた以上に湯が熱かったのだ。
普段香彩が湯に浸かるのは、禊という、身体に付いた穢れを落としたり、身を清めたりする時だ。
長い時間を掛けて行うものなので、湯は温めに加減されている。それに慣れてしまっている所為か、この湯殿の湯がどうも熱くて、ゆっくりと少しずつしか入っていけない。
ようやく身体を沈めて、ほっと息を付く香彩を、くすりと笑う声が聞こえた。
「……幻想も慣れれば日常ですよ。香彩」
「確かに、その国の人達にとったら当たり前の光景なんだろうなぁ。見てみたいなぁ」
香彩自身、司徒の勉学の一環で習ったり、本を読んだりして知識があるだけで、実際には行った訳ではないのだが、もし機会があるのなら是非行ってみたい国だった。
麗国の東、海に浮かぶ本島と大小の島々から成る国、東海国は有翼亜種と呼ばれる種族の住まう国だ。遥か昔に天の寵愛を受けていた白翼の有翼人が、身体の衰えを天に知られることを恐れ、自ら堕ちたその地で作った国だとされている。
この国の人々は白翼の有翼人の子孫だと云われ、生まれて来る子供には必ず白翼が生えている。ごく稀にだが黒翼の生えた子供が生まれることがあり、それは瑞祥の象徴なのだという。
「まぁ、そうそう当たり前、というわけでもないのですよ」
「えっ? そうなの?」
「ええ。雛である内は感情に左右されることが多いので、翼を出したくても出せないことの方が多いんです。成人すると落ち着きますが、他の国との交流が盛んな最近では、翼の売買を目的とする者達も増えてきましたので、仕舞っておくことの方が多いですよ」
何かの文献で読んだ、翼切、という言葉を香彩は思い出す。
文字通り『翼を切る』ことだが、これは有翼亜種の翼のことを意味している。
他国では有翼亜種が大変珍しい上に、羽根一枚でも身に付けていると不思議な『力』が働いて、身を護ってくれるという噂がある為か、高値で取引されているという。翼切ものといって、彼らの羽根がふんだんに使われた衣着や装飾品を持つことは、富の象徴なのだ。
たとえ自分の国であっても翼を出して歩くのは、狙ってくれと言っているのに等しい。
「敢えて翼を出して歩いている者もいますが、大体が『力』の強い剛の者です。自らを囮として翼切者を炙り出そうとしているので、警戒心がとても強い。もし東海国へ行かれることがあれば、覚えておいて下さいね」
東の隣国など余程の機会がないと行くことはないだろうと思う香彩は、間延びした返事を咲蘭に返した。
「……何やら納得してない様子ですが?」
くすりと笑いながら咲蘭は、湯の中に立つと香彩に向かって歩き出す。そして香彩の隣に来ると湯の中に身体を沈めた。
「やっぱり……もう少し見たかったなぁって」
事情を聞いてしまうと、やはり惜しいことをしてしまった気がしてならない。
だめ? と聞く香彩に、咲蘭が面白そうに再びくすくすと笑った。
「構いませんよ……と言いたいところなのですが、先程も言ったでしょう? 雛は感情に左右されることが多いので、自分の意思で翼を出したりすることが難しいんです」
湯を使えて思わずほっとしたんでしょうね、と他人事のように話す咲蘭に、香彩はきょとんとした表情をしたのだ。