第67話 覚醒 其のニ
「いやはや、いやはや、無事覚醒しましたねぇ。おめでとうございます」
にぱっとした笑顔で、拍手をしながら蒼竜に向かってそう言ったのは、既に天災にも似た妖力を内に収めた叶だった。
叶の少し背後では、盛大なため息をつく者と、眉間を押さえる者がいたが、どうやら叶の口を塞ぐ気はないらしい。
ぶわりと神気の昂る気配がして、香彩は蒼竜から離れる。
地を這い、大気を震わせる様な低いその唸り声は、明らかに怒気を孕んでいる。
少しずつ、蒼竜の腹部が膨らんで行くのを見て、近隣の本宿の迷惑になりかねないと判断した香彩は、息ひとつ吐いて胸元から一枚の札を取り出した。
紅の筆字に不思議な紋様の描かれたそれは、香彩の手の上で宙に浮く。
打つのは柏手だった。
まるで水面に落ちる水滴が起こす波紋のように、柏手の波動が空間に広がる。
もう一度、柏手を打つ。
柏手は力を借りる者への挨拶だ。
一度は地に住まう地霊や精霊。
そして二度は『謳われるもの』……真竜の加護を願う時のもの。
「伏して願い奉る。真竜御名、蒼竜、その御名において、我の呼応に力を貸したまえ」
香彩の声に反応して、札が光を集めるかのように皓々と輝き出した。
札を高く頭上へと放り投げるような動作をして、香彩はその言葉に『力』を込める。
「──陣!」
札を中心に半円を描いた結界が、この離れの宿を含む広い範囲で展開する。
と同時だった。
結界が形成されるのを待っていたかのように、地に響くような低い唸り声を出していた蒼竜が、叶に向かって凄まじい真竜の咆哮を見せたのだ。
その驚異的ともいえる音量に、その場にいた者が、咄嗟に耳を塞いだ。
ただひとりを除いて。
「あなたを利用したことは謝ります。ですからそんなに、怒らないで頂けると有難いのですが」
哮り声を聞いても顔色ひとつ変えずに、特徴的な抑揚のない口調で、そう言ってのけた叶に対して、蒼竜は大きく威嚇の声を上げる。
確かに竜の声色だというのに、それのどこに謝意があるんだと言わんばかりの、竜紅人の声が聞こえてくる様で、香彩はようやくこの蒼竜が『竜紅人』なのだということに、納得がいったのだ。
「その件も含めてだが……お前には、聞かなければならない案件が多いな、叶」
逃がさないように叶の肩を掴み、とても低い声で言うのは紫雨だ。
それに対して叶は、
「さぁ? なんでしょう?」
と、にっこりと、笑ってみせる。
はぐらかすつもりなのだと、この場にいた誰もがそう思ったが、ここで誰かがわざとらしく、大きなため息をついた。
何も感じていないように見せていた叶の肩が、ぴくりと動いたのを、紫雨は見逃さない。
「──で?」
ため息をついた者が放つ、たった一言に。
「……あ、後で答えます。ですから機嫌を……ですね? 咲蘭?」
見事に翻弄されている叶を、紫雨が楽しそうに笑う。
三人のそんな様子を、香彩はどこか遠い所から眺めている気分だった。
すぐ近くで話しているはずなのに、どうしてそんなことを思ってしまうのか、分からない。
側にいる蒼竜が、呆れたように喉を鳴らしているのが聞こえた。
それすらも遠くて。
(……そういえば、療……)
香彩は療の方へと、視線を移す。
療はやはり無言のまま、迷い子のような顔をして、蒼竜を見上げている。
一体どうしたのか。
彼の側に行って肩を叩いて聞いてみようと、香彩が一歩踏み出す。
それは突然にやってきた。
地に着いた足に全く力が入らないと、自覚した時には既に遅かったのか、先程まではっきりと見えていた視界が歪んでぼやけて回り出す。
倒れ込む香彩をかろうじて受け止めたのは、まばたきひとつで、人形へと戻った竜紅人だった。
香彩の額に触れて息を呑む。
「──おっさん! すごい熱だ!」
竜紅人の声に、駆け寄って来る足音を遠くに聞きながら、香彩はその意識を手放したのだ。