第60話 幕間―殺業―
視界に翳りが見えた。
何とも重い、重いこの身体。
背の翼を広げ、四肢を懸命に駆けようとも。
纏わり付くこの陰の気は、自身を堕とそうとする。
──ああ、重い。
目的の場所に近づけば近づく程、この身体は重みを増す。
耳障りな怨嗟の声が。
漆黒よりもなお昏い、陰の気が。
同じ場所まで堕とそうと、その触手を伸ばしているかのようだ。
──早く、早く。
絶たなくては。
辿り着かなくては。
このような昏くて、怨恨の溢れる場所にいる、あの子達は無事なのだろうか。
──愛しき子よ。
──どうか返事をしておくれ。
お前達のためならば。
お前達に害する者があるならば。
どんなことをしても絶ってみせよう。
──絶てばいいのだ。
『それは、なりませんよ』
抑揚のない特徴のある声が、頭の中に直接響くような気がして、彼女はその歩みを止めた。
宙に止まり辺りを見るが、それらしき姿は見受けられない。
だかこの懐かしくも憎らしい声を、彼女はとてもよく知っていたのだ。
「……彼君か」
よくよく探れば、子供達の気配のある場所に、彼君の気配があった。
(さて、どのような酔狂か)
人を哀れに思い、人の為に自ら天より堕ち、城という名の檻に捕らわれた神妖が、何を思ってここにいるのか。
何を思って話しかけるというのか。
天妖だ、神妖だと人は崇めるが、決して人と魔妖は相容れないものなのだと、身を持って知っている。纏う気に神気がなければ、人とはあまりにも違う外見と妖気に脅威を感じて、群れを成して狩ってしまう。
人とはそういう生き物だ。
そんな人の為に堕ちた彼の神妖を、天の同胞は愛らしくも憎らしいと思っている。
(……ましてや、伴侶の為など)
天より堕とされ、下界の生命の営みの連鎖に入ったとされる伴侶を探す為に堕ちたのだと、彼の神妖が堕ちた本来の理由を知れば、人はどう思うのだろうか。
彼女はくつくつと嗤う。
少しずつ侵食していく陰の気は、その思考さえも侵していく。理性が削られ、本来の魔妖としての本能が顕あらわになる。
(──ああ、重い)
身体中が重くて仕方がない。
この重苦しさから解放される為には、陰の気を持つ者を絶つしかないというのに。
『なりませんよ』
毅い力の含まれた声に、彼女は苦しそうに天を仰いだ。
それは真綿のように柔く、だが確実に彼女を縛る鎖のようなものだ。
それが酷く、苛立だしい。
腹立だしいと思うのに、やはり力の強い者に支配されることに愉悦を感じるのは、性か、本能か。
(誠に……厄介な)
彼女は眼下を見やる。
温かみのある灯火が、暗い闇の中に浮かんで見えた。それは破魔の力を持っているというが、天妖である彼女には通用しない。
たくさん集まっている灯火から少し離れたところに、子供達の気配があった。
そして彼君の神妖の気配と。
どこか懐かしい稀有な気配と。
(──ああ、駄目だ)
その者を目にした瞬間から。
ぶわりと全身の毛が逆立ち、背筋が凍り、尾の昂るのが分かった。
(……何と、何という業の深い)
絡み付く念は、怨嗟か嫉妬か。
(否、これは……)
殺業、か。




