第58話 『葵』という名 其の一
竜紅人。
だめだよ。
竜紅人。
少年が目の前で必死に自分の名前の呼ぶ様子は、どこか遠い所から眺めているような感覚に似ていた。
今にも泣きだしそうな表情で。
傷だらけの腕を伸ばして。
(……何があったんだ?)
(何でそんな……そんな顔をしてるんだ?)
伸ばされたその腕を、手に取って。
聞きたかった。
お前をそんな表情にさせているものは、何なのか。
竜紅人がそっと少年に向かって腕を伸ばす。
最後に見えたのは、少年の凍り付いた顔。
腕に込められた力は、いとも簡単に少年を掻き消したのだ。
「──っ!」
薄っすらと目を開けた竜紅人は、身体を動かした瞬間に訪れる痛みに、思わず顔を歪ませた。無意識にその部分に手をやり、自分の『癒しの力』を発動させる。
痛覚に治まりが見える頃、濡れた感覚のある手を自分の視界の届くところへ持ち上げる。腕がひどく重い感じがした。
見えるのは血に濡れた手、その五指。
べったりとしたそれは、妙に鉄臭くて、そして獣臭がした。
(こんな手を……)
自分はどこかで見た気がした。
自身の手だったのか、そうではなかったのか分からない。そんなぽっかりと開いたがらんどうな記憶を、ぼんやりとして思い返す。
(自分ではなかったら、誰の?)
記憶の片隅に残っているのは。
耳の奥で今でも聞こえてくる、あの声は。
全て、葵のもの。
『葵』という名前に、ぼんやりとしていた竜紅人の意識が覚醒する。
確か自分は叶の攻撃から葵を庇って、倒れたのではなかったか。
竜紅人は俊敏に飛び起きて、二人の気配のある方へと向き直る。
その光景に、息を呑んだ。
今まさにその刹那。
叶の鋭爪が、長い銀糸の髪に首を締め上げられた葵の身体を、切り裂いた。
苦悶の叫び声を上げ、首を絞める髪を振り解こうとしていた葵の腕が、だらりと下がる。
それを見遣って叶は、締め上げていた髪の力を緩めると、どさりと葵が地に落ちた。
「──葵!!」
動く様子の全くない、伏した姿に。
竜紅人は少年の元へ駆け出し、その身を抱き起した。
借り物だった葵の姿が、少年の姿へと戻る。
胸から腹部へと切り裂かれた傷から溢れ出す鮮血は、葵が着ていた着衣をどす黒く染め上げていった。
「葵!」
竜紅人の呼び声に、葵がそろりと目を開けるが、瞳の中に光はすでになく、とても空ろに竜紅人を見ていた。
そっと。
竜紅人に伸ばされた血濡れの手が。
「……りゅこ……と。ごめん……」
微かに頬に触れて。
力なく落ちた。
その手が、記憶の中のものと全く同じで。
自分の為に、必死に呼び続け、手を伸ばしてくれたものと、同じもので。
まるで冷水にでも触れたかのように。
曖昧だった『記憶』そのものに背筋を叩かれたかのように。
竜紅人は思い出す。
『葵』とは、何であったのか。
竜紅人は力の入っていない少年の手を取ると頬に触れさせ、自身も少年の手に頬を寄せた。
「……どうして、忘れることが、出来たんだろうな……」
竜紅人の言葉に返事はない。
「なぁ? 『葵』……?」
今度は確信を持って、竜紅人はその名を呼ぶ。
名付けたのは、己自身だ。
「今度は……俺が、『呼ぶ』番だな?」
ゆっくりと、だが確実に思い出されていく、がらんどうな中身に、竜紅人は堪らず目を閉じたのだ。




