第54話 無限の回廊 其のニ
そう思いひたすら前へ走る香彩の腕を掴むものがある。
思い切りそれを振り解こうとして、香彩は掴まれている手の感触が何か違うことに気付いて、留まった。
自分を追いかけて来ている紫雨のものにしては柔らかく、療にしては大きいのだ。
「……落ち着きなさい、香彩」
優しく芯のあるその声色の中に、心の底に静かな怒りを湛えているかのような雰囲気を感じ取って、香彩は彼を見る。
その表情は、何に譬えればいいのか。
彫像のような顔ばせと感情を表すことのない瞳は、冷たい印象を見る者に与えるというのに、口元は微かに笑みを浮かべていて。
まさに氷の微笑ともいうべきその顔に、香彩の心の中を占めていた焦りの気持ちが、すぅと冷めていくのを感じていた。
香彩の気持ちが落ち着いたのを見計らって、咲蘭はそっと掴んでいた腕を離す。
めぇめぇと二匹の鵺の子供が、心配そうに咲蘭と香彩を見上げていた。
「ごめんなさい、咲蘭様」
「……ここで私に謝ったら、紫雨が可哀相ですよ、香彩」
そう言って咲蘭が香彩の背後を見る。
紫雨が香彩を追いかけて走ってくるのが見えた。
その息が少し上がっている。
対して、香彩を捕まえた咲蘭は、平然としている。
(あれ……?)
香彩は何気に前方を見た。
外廊下の少し奥に、見えるのは療の姿だ。
療は呆然として、香彩と視線を合わせている。
「え……何で療が僕より前にいるの?」
それに何で咲蘭様が、ここにいるの?
香彩の言葉に全員が端と気付く。
何気に療が前方に向けて走り出した。多分癖なのだろうか。足音の全くしない走り方だったが、その気配が前方のとある部分で一度消える。
そして。
後方から療の気配がしたと思いきや、紫雨の次に姿を現わせたのだ。
「まさかこれって……結界?」
香彩が紫雨に向かってそう問いかける。
紫雨はここぞとばかりに、とても大きな溜息を付いた。
息の整わないまま、紫雨が今度は逃がさないとばかりに、香彩の二の腕をがしりと掴んだ。
その力加減や、着衣の上から感じる体温や手の感触が、とても馴染み深くてしっくりくる。
無意識だろうが、掴まれた腕ごと自分の側へ置こうとばかりに引き寄せるその動作は、香彩の心をひどく安心させるものであり、彼は心の中で密かに笑んだ。
「そんなに掴まなくても、もう行かないよ?」
「二度も飛び出していったというのに、信用できると思うのか?」
「……行かないって。それにもう『行けない』し」




