第51話 兆し 其のニ
「──気持ちは、落ち着いたのか?」
香彩が再び獣に構い出したのを見計らったのか。視線は香彩と咲蘭に向けたまま、声を落とした紫雨の言葉に、療の表情が硬くなる。
何のことを言っているのか、分からない療ではなかった。
何故なら今日、自分が目の前にいる紫雨に救われたその瞬間を、鮮明に思い出す出来事があったからだ。
最後まで自分に付き添い、追手と戦いながらその命を散らした同胞に対する痛みと、麗河の冷たさ。河瀬に叩きつけられた痛みと、息苦しさ。
命の終わりという。
仄暗い川底から忍び寄って、腕を伸ばして掴んでくる冷えた手の様なものが、逃さないとばかりに雁字搦めにする。
その底無しの恐怖が。
とても温かい腕と、洗練された『力』に救われた。
天敵である療に対し、最後まで戦い抜いてくれた紫雨と。
その場にいて滅多に見ることのない『力』を振るった叶に。
(……だから、かな)
執拗なまでの追手とその数を、実際に見て戦った者だから分かるその違和感を。竜紅人には話すことが出来なかった確証のない焦燥感を、紫雨には耳に入れて置くべきだと思ったのは。
黙り込んだ療の頭に、そっと手が置かれた。
大きくて温かいそれはすぐに離れたが何故か、つきりと胸が痛むような気がして、療は視線を足元へ落としたまま紫雨に告げる。
「……紅蓮は、彼奴が死んだって言ってたけど」
紫雨の息を詰める気配が伝わってくる。
「オイラ……どうしても思えないんだ」
用意周到に自分を追い詰めた相手だからだろうか。謀略がすぐに明らかになったからとは言え、大きな力を持っていた者が潔く服毒して、自ら命を絶つだろうか。
「療……」
紫雨が療に対して何かを言おうとした、その時だった。
始めに敏感に反応を示したのは、鵺の子供達だった。
次に瞳に動揺の色が隠せないまま、すっと立ち上がったのは咲蘭だ。
そして横にいた香彩が、紫雨と呼びかける。
同じ様にして療もまたその気配に気付き、紫雨を見上げた。
それは見知った、天妖の気配だった。
ただいつもと違うのは、抑制されていた力が解放されていたこと。
紫雨は、あやつめと質の悪い笑みを浮かべ、懐から小さな護符を取り出すと、香彩と咲蘭に渡す。
「手遅れかもしれないが、飲まないよりはましだろう」
ふたりは無言で頷くと、舌の上に置くようにして護符を口に含む。
暫くした後、嚥下することによって身体の内側から、自身にとって悪しき『気』のようなものに対する抵抗力を増幅させるのだ。
効果はさほど長くは続かないが、妖気によりまず始めに侵される気管支を護ることが出来る。
護符とはいえ、異物を嚥下し、ほっと息をつくのは咲蘭だ。




