第49話 神妖 其の四
『肉体』の方に入り込んだあの気は、絶望に満ち、深い慟哭と愛憎に溢れた、怨嗟だった。澄み渡る天より降りてきたばかりの者にとって、その念はあまりにも強すぎた。
葵の言い様を嘲笑う様に、叶は冷笑を浮かべた。
「まるで仕様の無いとでも言いたげだな」
叶が再び鋭爪を構える。
「忘れられた者よ。不要の者よ。では聞き方を変えようではないか」
──お前は、これまで何をしていたのだ?
これまで。
そう言われて、葵は愕然とした。
思い出されるのは、愚者の森で土鬼に襲われて逃げ回っていた時のことだった。
(では、それ以前は?)
(それ以前は、何だ?)
(自分は、何だったのか)
思い出すことの出来ない記憶の深い穴を見つけた葵は、動揺を隠しきれずに口元を手で覆う。そうしないと恐ろしさで叫び出しそうだった。
そんな葵の様子を尻目に、叶は一歩また一歩とその間合いを詰めていく。
不意に叶の紫闇の瞳に、赤みがかかった。
それは身体中に巡り巡らせた妖力の影響か。
それとも感情の顕れか。
「忘れられた者よ。あの者がお前を思い出さぬ限り、お前は存在してはならぬのだよ。いつかの日に、お前という存在が足枷となる。現に、お前がこうしてここにあるのも、お前を愚者の森へと放つ存在があったが為」
「なっ……」
困惑する葵に、叶がその一歩を踏み出し、その鋭爪を振り下ろす。
かろうじて葵が手刀で受け止めるが、最初のような気迫はすでになかった。
油断をすればやられると分かっているのに、叶の言った言葉が、葵を思考の海へと渡らせる。
だからだろうか。
葵は気付くことはなかった。
いつの間にか背後に回っていた、叶の髪の一房に。
「──ぐっ……!」
妖力の塊である長い銀糸の髪が、葵の首を締め上げ、そして宙へと持ち上げる。
苦しさに喘ぎ、髪を外そうとする葵の一瞬の隙を付いて。
叶はその鋭爪で、葵の腹を切り裂いたのだ。




