第36話 紫雨と香彩 其のニ
げんなりとした表情を浮かべる香彩に対して、紫雨はやはりどこか楽しそうに言葉を続ける。
「城を出たのは、いつだ?」
「えっと……昨日の早朝」
一瞬言葉に詰まった香彩が、思い出しながらそう告げた。
旅に出てから一日と少し。
その間に色々な事があったからか、随分長い間旅をしていたような気になっていたが、ほんの二日前までは特に何事もなく城にいたのだ。
(……まるで、僕たちが城から出るのを待っていたみたいだ)
何がそうなのかは分からないが、香彩はなんとなくそう思った。
「目的は……先程、療が言っていたことに間違いはないのか?」
紫雨の瞳の奥に再び見え始める怒りの色に、きょとんとした表情を、香彩は浮かべた。
「紫雨もしかして、今回のこと叶様から何も……」
「ご丁寧に、人が視察に出てから全て決まったことのようでな」
快然とした笑みと口調で話す紫雨に、香彩はあらぬ方向を向いて溜息を付いた。
紫雨が視察の為に城を出たのは、四日前だ。
その翌々日に霊鷲山の金毘羅が叶を請謁している。
叶からの勅命を受け城を出たのがその更に翌日……つまり昨日の早朝だ。
たとえ紫雨が外出していても、連絡手段は存在する。しかも主君といえども紫雨にとっては幼馴染であり、とても気安い関係だ。
それが敢えて連絡をしていなかったという時点で、叶が『魔妖関連で香彩を城から出す』ことを隠して置きたかったに違いなかった。
どすっ、という音が聞こえて、素知らぬ振りをしていた香彩が、音のした方へと向く。
紫雨が力任せに長椅子を、拳で打ち付けていた。
「……あやつめ」
城に戻ったら真っ先に問いただしてやると息巻く紫雨に、香彩は苦笑する。
たった一日と少しだ。
目的はどうあれ、一日くらいならば何度か仕事関連で城を出たことがある。だがそれは『紫雨』という名前が持つ、いわばお膳立てされ護られた道であると言う事に香彩は気付いていた。
今回の旅のように『何の用意もなく』城を出るのは香彩にとっては初めての経験だった。
何故そこまで護られるのか。
何故そこまで護ろうとするのか。
幾度か疑問に思ったが、これは『聞いてはいけないことなのだ』と、香彩は直感で理解していた。
「……僕か竜紅人が、連絡すればよかったんだよね」
香彩の言葉に、紫雨は呆れたように嘆息する。
「ちょっと色々あって……忘れてて」
「まぁ、忘れていて正解だな。どうせ潰される。式の無駄遣いだ」
誰に、とは紫雨は言わなかったが、確かにその可能性は高かった。
香彩が連絡を忘れていても、竜紅人がいる。だが竜紅人が動いていないということは、そういうことだ。
隠そうとしているものを、暴く時点で彼が出てくる。
自分の見定めた道筋を揺るがし、望む結果を変えるものを、彼は容赦はしないだろう。




