第33話 離れにて 其の三
「……すまない」
竜紅人が握飯の乗った皿を押し返す動作をする。
察した咲蘭が皿を竜紅人の目の届かない位置へと下げた。
紫雨の言い付けを守っているのか、療と香彩が無言のまま、固唾を飲んでその様子を見ている。そんな顔をするなと言ってやりたい竜紅人だったが、今はそんな心の余裕がなかった。
正面に座る紫雨は何も言わないが、確かに待っているのだ。
竜紅人が話す、その時を。
視線を真っ向から受け止める。
「……正直言って、話せることがない」
竜紅人の言葉に紫雨が目を見張る。
「それはどういう意味だ?」
「そのまま、その通りだ。……俺には葵が誰なのか、分からない。知っていると理解しているはずなのに、それが何なのか分からない」
だから話せることがない。
「葵は……確かにあの時、俺の名前を呼んだ。呼ばれた瞬間分かったんだ。『葵』という名前と、旅の間、何度か呼ばれた気がしていたその声が」
この声だった。
竜紅人は香彩の方を見る。
香彩も驚きの表情をしていたが、竜紅人に頷くと、視線を紫雨へと変えた。
気付けば咲蘭も療も、紫雨を見ていた。
竜紅人も再び、紫雨を見る。
こういう時の今後を決める決定権は、紫雨にあることを全員が理解していた。
「……ここで情報のない者同士、雁首揃えていても仕方あるまい。今日は休んで、早朝城へ向けて出立する。奴に問いただす案件もあることだしな」
紫雨の言葉に全員が返事を返す中、竜紅人だけが言承けもなく、じっとしていた。
竜紅人は特に拒否したいわけではなかった。
少年がいる以上、一度城に戻った方がいいに決まっていた。
だが自分の中のがらんどうな心と記憶が、自分をここに留めたがる。
「……わかったな。竜紅人」
その理由をと、問い正されても説明ができないと判断した竜紅人は、自分の中に沸いた疑問を押し込める。
「ああ……分かった」
竜紅人の返答を聞いた紫雨は、ここにはもう用がないとばかりに無言で立ち上がった。
「……香彩」
今まで話していた声色より、少し低めの声色で呼ばれた香彩は即座に応答する。
紫雨は、ついてこいとばかりに香彩に向けて顎をしゃくった。
香彩は立ち上がり、残された三人に明るくおやすみと言って手を振ると、紫雨に続いてこの部屋を出て行った。




