第32話 離れにて 其のニ
離れは一層の、大きくて広い平屋造りの建物だった。
本宿からは少し歩かないといけないが、この離れが元々は商談や、来賓のために使われているものというだけあり、部屋数も多く、また散策を楽しめる庭が広く整えてあった。
竜紅人は一室に敷かれてある寝具に少年を寝かせる。
あの時、起き上がってしまったことが影響してか、少年は再び意識を失っている。しばらくは目覚めることはないことを、竜紅人は何となく理解していた。
(……あれは、誰だ)
知っていたはずなのに、どうしても思い出すことが出来ない。
思い出せないのに、自分は少年を知っていて、少年もまた自分を知っている。
その噛みわない歯車が、何だか妙に気持ちが悪い。
竜紅人はその部屋を後にした。
離れの部屋は外廊下と障子戸で、一部屋ずつ仕切るような造りになっている。障子戸は意外にも厚みがあって、普通に話をしているくらいの音であれば、外廊下やそれを挟んだ隣室に聞こえてくることはない。
だが療に負けず劣らず聴力の発達した竜紅人には、少し離れた部屋で話をしている声がよく聞こえていた。
竜紅人は見事な装飾が施されている、欄間の部屋の障子戸を開けた。
部屋の中が急に静かになる。
大広間だった。
中央に大き目の机があり、食べやすい握飯と香漬、そして香茶が用意されていた。
本来のこういった場所での食事は、宿の者が部屋を行き来し、品書き通りにひとつずつ用意される。だが人払いを命じたと言っていた以上、そのような食事は無理がある。
多分食べやすいものを用意させたのだと、竜紅人は思った。
だが手を伸ばす気にはなれなかった。
ふと見れば空いた皿もあれば、握飯をひとつ残した皿もある。
香彩や療、紫雨は『力』を行使していたから、空腹にもなるだろう。咲蘭は元々食が細い。
竜紅人は小さく溜息を付くと無言で座る。
目の前にある、自分用の夕餉。
やはりどうしても手が出せない。
「……食わんのか?」
正面に座る紫雨の言葉に、竜紅人は黙って頷く。
何か物を言おうとした竜紅人を遮ったのは、療と香彩だ。
「ちょっ……竜ちゃんどうしちゃったの!?」
「本当だよ、竜紅人が食べないなんて。大丈夫なの?」
普段は何も感じないのに、今ばかりはふたりの少し高い声に辟易する。
その空気を察したのか、それとも表情に出てしまっていたのか、紫雨が少しは静かにしろとふたりを黙らせる。
それを見た咲蘭が小さく溜息をついた。
「竜紅人。せめて一切れの香漬を。香茶は心を和ませます。一口飲んで、少し落ち着きましょう」
そう言って笑む咲蘭に、竜紅人はああと返事を返した。
言われるがままに香漬をかみ砕き、香茶を啜る。
程よい香茶の温かさが何とも心地良く、喉を通り、腹を温める。
ほぅ、と竜紅人は息をつく。
少し気持ちが落ち着いても、やはり握飯を手に取る気にはなれなかった。




