第31話 離れにて 其の一
碧麗の街は、街道を中心に発展している街だ。
街の中央に宿や商店や屋台などが集まっているためか、その街に住む人々も中央地域近くに居を構えていることが多い。
特に活気があるのは日が南中より少し西へと傾いた時間で、夕餉の材料を買いに出向いたり、森抜けの準備をする者達で溢れている。
だが夕暮れ時にもなると、徐々に店は閉まり始め、日が沈むと同時にほぼ全ての店が閉店し、その門は固く閉ざされる。宿もまた辺りが夕闇に包まれる頃には、客を取らず、同じく門を固く閉じる。
愚者の森が近いからだ。
たとえ街道や、街の至るところに『紅麗』の灯があっても、日が暮れたら人々は用心のため、あまり出歩くことはない。
西に陽が落ちてから果たして何刻が経ったのか。
街道から少し離れた場所にあるこの一軒の宿だけは、未だに門を閉じる気配がない。
とても大きな宿だった。
本邸の他に離れと庭があり『紅麗』の灯りが、その道を明るくと照らしている。
宿の前では門の開閉と警護のための門番が立っていた。屈強な男だった。だが門番は内心どうしても落ち着かない。今までこんな時間まで門を開けたことがなかったからだ。
それに、門番の前には今日の客が、待ち人を今かと待ち続けている。
上客だった。
幾度か遠くから顔を見たことがあったが、こんなに近くでしかも長い時間、その姿を見ることになるとは、夢にも思わなかった。
そして労いの言葉を掛けられるとは思ってもみなかった。
「このような時間まで、門を開けさせてしまうことになるなんて、申し訳ない」
高く結われ肩に落ちた艶やかな漆黒の髪が、動きに合わせてさらりと揺れる。
なめらかに唄い流れるかのようなその声に聞き入ってしまい、門番は慌てて返事をする。何を言ったのか全く自分で思い返せないくらい、門番は動揺していた。
上客の憂う表情と視線は、街道に向けられている。
無理もなかった。
上客と共に来たもうひとりの上客が、陽が落ち切ってもまだ戻って来ない。
何度か手配や準備のために、宿の中に入って行ったもの、やはりここへ戻って待ち続けている。
門番はその憂愁の顔をどうにかしたくて、無礼と思いながらも、ぐっと拳に力を入れて話かける。
「さ、咲蘭様。む、紫雨様は前大司徒だった御方。魔妖など相手になりますまい」
きっと、大丈夫ですよ。
門番の言葉に、上客が微笑んだ。
「ありがとうございます。気を遣わせてしまいましたね」
絶句という言葉はこういう時に使うのだと、門番は思った。
初めは見た目の印象から噂通りの、慈悲もなく温和さも感じられない、氷のような冷たい美貌の人だと思った。この国にはあまり見ない、漆黒の髪と瞳の色が余計にそう思わせたのかもしれなかった。
だが今はどうだろう。
『氷の美貌の人』以外の印象が一掃された。
譬えるのなら熱い氷だ。
繊細で冷たく整った容姿の中に、情に熱い華やかさのようなものが彼には存在した。そして笑むことによってまるで大輪の華が咲いたような、艶やかさと儚さが顕れる。
その笑んでいたが表情が、突如鋭さを帯びた。
上客の視線が再び、街道の方を向く。
数人の駆ける足音が、こちらへ向かってきているようだった。
その姿を、薄闇と灯りが作る濃影の向こうに見つけた時、上客が声を上げた。
「こちらです。紫雨」
現れたもうひとりの上客が門をくぐる。
そして続くのは三人の少年達だった。
その中のひとりの少年に門番は目を見張る。
少年が、ぐったりとした少年を抱き抱えていたからだ。
「……奥の離れを。人払いの下知は済んでいます」
「相も変わらず、察しの良いことだ」
行くぞ、ともうひとりの上客が、少年達に声を掛け、先導する。
上客……咲蘭は門番に軽くお辞儀をして、その後を追いかけ、やがて離れへと続く道の向こうへと消えて行った。
門番はしばらくその方角を眺めていたが、非日常の巡り合いは終わったのだとばかりに、門を閉める準備に取り掛かる。
今宵は同僚と一杯やりたいものだ。
肴はある。
しかもそれは極上だ。
門番は楽しみに笑みを浮かべて、ゆっくりとその門を閉じた。




