第1話 序幕 其の一
水の気配が漂っていた。
ただそこに存在するだけで、森の中にある川沿いを歩いているかのような、澄んだ湿り気ある空気が広がる。側にあれば、日々の喧噪を忘れてゆったりと癒され、落ち着いてしまう。
彼はまさにそんな水の魔妖であった。
水の魔妖は、片膝を折り、頭を垂れている。
敬意の証だ。
「遠路遙々、よくいらっしゃいました。金比羅殿」
耳心地の良い声が、響く。
金比羅と呼ばれた水の魔妖は、頭を上げると重さを感じさせない動作で、すっと立ち上がった。
腰の辺りまで真っ直ぐに綺麗に伸ばされた、薄青色の髪が動きに合わせてさらりと揺れる。
「急な請謁に応じていただき、感謝致します。叶様」
その言葉に叶と呼ばれた者が、まるで面白いものを見つけた子供のように、にいと笑った。
「面白いことになっているようですね」
どこから取り出したのか、叶は白翼の付いた扇で自身を扇ぐ。
そして用意されている長椅子に、ゆったりと横になった。
身体に纏わり付くかのような、長く真っ直ぐな銀糸の髪が長椅子に広がる。それを特に気に留める様子もなく、彼は長椅子の手すりに片肘をついた。
金比羅は言葉を返すことなく、ただ無言のまま叶を見ている。
「鵺、ですか。元々天に住まう魔妖が、何故降りてきたのか」
気になりますねぇ、と言いながら叶は扇を広げ、口元を隠す。
金比羅は何も反応せず、ただ彼を見続けていた。
今自身が反応すれば、どんな言葉を彼に向けてしまうのか、分からなかったからだ。
それほど心の深いところで、じんわりと温められていく下火のように、小さな怒りという感情が積もっていくのが分かった。
だがそんな感情も、叶からすれば『面白いこと』のひとつにすぎないことも、金比羅は分かっていた。
『叶』という全ての魔妖の王であり、また神の化身ともいうべき彼の気まぐれさは、決して今に始まったことではないのだ。
金比羅は小さく嘆息して、感情を、呼吸を整える。
「その降りてきた場所が国境に近い、我が霊鷲山国と、この麗国とを繋ぐ街道であり、今もまるで何かを探すかのように、付近を徘徊しているのです」
報告や目撃証言は多数。今はまだ霊鷲山側で目撃されているが、麗国側に伝わるのも時間の問題だった。
「街道を使う旅人や商人は、足止めを余儀なくされている状態です。このままでは両国の物資の物流が途絶えてしまいます。また迂回をした者が誤って鬼族の生息範囲に入ってしまい、攫われてしまう報告も受けています」
人や魔妖に危害を加えている様子はないが、街道を利用している人々は、実際目にした者の話や噂にすっかり怯え、まだ開拓途中の獣道へと迂回している状況だった。整備されていない道は獣や、野生の魔妖がいて大変危険だ。
またその迂回として使っている道は、鬼族と呼ばれる鬼達の住む生息範囲に近い。彼らの中には未だ人を食料として狩る種属も存在しているため、彼らに攫われたら最期、生きては帰って来ることは出来ないだろう。
腕に自信のある剛の者や、護衛のある者は迂回の道を進むことが出来るが、それ以外の旅人や様々な物資を運ぶ商人なんかは、国境近くの山宿に足止めをされている。
このままでは、後に生活物資の流通に影響が出てくる。
それに鵺の天に住まう魔妖、天妖としての甚大な気配に、付近に生息する他の魔妖達が触発され、凶暴化する危険性もあった。
「叶様、どうかご助力を。我ら霊鷲山の者は皆、水の属性。雷獣である鵺とは相性は悪く、警戒され、話をすることすら適いません」
どうか、ご助力を。
金比羅が重ねて言う。
叶の口元は扇で隠されたままであり、その紫闇の瞳だけが金比羅に向いていた。
金比羅は決して叶から視線を外さず、ひたむきに見つめている。瞳だけでは、どうも表情を読むことができない。
その隠された口元は、一体どんな感情を浮かべているのか。
沈黙が続いた。
やがて、小さく息をついたのは、叶の方だった。
「……分かりました、金比羅殿。この件、お引き受け致しましょう。早急に天妖と話のできる、腕の立つ者を派遣致します」
「感謝至極に存じます」
「──ただひとつ条件があります」
深々と頭を下げようとした金比羅の動きが止まる。
「鵺が国境を越え、我が麗国に入ったことを確認した後、貴方は国境全てに結界を張り、霊鷲山への立ち入りをしばらく禁じて下さい。理由は自ずと分かるでしょう。噂が出回っている今なら何かと結界も張りやすい」
いいですね、と叶が念を押すように金比羅に言う。
丁寧な口調に騙されそうになるが、それはまさに魔妖の王としての勅命に違いなかった。
是、と。
金比羅が片膝を付き、深々と頭を下げながら応えを返す。
ぱたん、と扇を閉じる音が聞こえた。
もしこの時、金比羅が頭を上げていたなら、見ることができただろう。
決して感情を表に出さない、無という表情を。
そしてその、にぃとした幽鬼めいた窃笑を。




