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蝉鳴りのマリー  作者: あぐらまる
2/9

受音

県立清龍高等学校。

二階の校舎にある二年生教室の窓際の席。

梅雨前の湿度を含んだ風が申し訳程度に吹き込む窓から見える空には細長い雲が蛇行しなから伸びていた。

教室には数学教師である矢口の粘着質な口調で述べられる公式の説明だけが響いている。

健雄はその声には意識を傾けず、あの雲は伝説の龍というやつなのではないだろうか。

そんな子供じみた夢想にふけっていた。


「では、この問題を…空閑!解いてみろ!」


耳障りな声が自分の名前を呼んでいる。

きっと余所見をしていたのをみつけてのご指名だろう。

健雄はひどく煩わしかったが黒板を一瞥して立ち上がると書かれていた問題の答えを難なく言い終え座り込み、また窓の外の空を眺めはじめた。

矢口は怒りを交えた表情で、おもしろくなそうな顔をしていたがグチグチと独り言を言うと再び授業を続行した。

雨でも降るのだろうか。

生ぬるい風が吹く。

退屈な授業。

退屈な日常。

どんなに空を見上げていても、龍が駆け巡ることもなく、女の子が降ってくることもなく倦怠感だけが健雄の心に降りつもっていた。

ただ最近頻繁に起こりだした耳鳴りに混じり何処かで蝉の鳴き声が聞こえた気がした。




「さすが、頭の出来が良い人はちがいますねー」


休み時間になると背の高い黒縁眼鏡のクラスメイトが健雄に話かけてきた。

幼なじみの佐藤海正だ。

健雄は曖昧な笑みを浮かべて応えた。


「最近、耳鳴りが酷くてねー。集中力が低下してんだわ」


軽く耳を叩いてみせる健雄に海正は片方の口の端だけを僅かに上げて微笑んだ。


「しかし、健雄もよくよく死神に目をつけられるよなぁ」


死神。

矢口のあだ名だ。

その風貌と陰湿的な性格から、生徒達からそう呼ばれている。

矢口が自分を嫌う理由を健雄はなんとなくわかっていた。

健雄もまた矢口を嫌っているからだろう。

矢口を好む者は健雄が知る限りでは皆無だが、自分は他の者より特に矢口を不快に感じている自覚があった。

基本的に人間関係に波風をたてることを避けるために誰とでも当たり障りなく接する健雄だが、矢口だけはどうしても好きになれない。

それはきっと自分がなりたくない大人像の御手本ような存在だからだろう。

陰湿的で小心者、そのくせに自尊心だけは高い。

いつか自分が、あんな大人になってしまったら。

そう思うと、とても恐ろしかった。

そうして嫌いあう悪循環が生まれていると感じていた。

数学教師である矢口が嫌い。

だからこそ健雄は数学の自己学習を怠らず、むしろ得意な教科となっていた。

そんな性格なのだ。


「おかけで寿命が縮む思いです」


軽く鼻で笑う健雄に海正は、ふと思い出したように話題をかえてくる。


「ま、そんな事よりさ。例の図書館、今日開館だろ?健雄は行かねーの?」


本日開館する運営を民間に託し、新しいスタイルを試みる図書館の事だ。

館内には従来の貸し出し図書だけではなく、コーヒーショプや書籍やCDなどの販売、館外には新しく森林公園を造り上げ、館内の喫茶スペースは無論のこと、天気の良い日はその公園などでコーヒー片手に読書などを楽しめるといった趣向だ。

この図書館を新たな名物にすることも一つのコンセプトにある。

この図書館の開設にあたって各方面から賛否両論の声があがっていたが湯陶里市の革新派の市長を先頭に推進された。

それゆえに開館前からメディアに取り上げられいた話題の図書館だ。

報道陣もいるだろう。

そんな時に行くのは億劫以外のなにものでもない。


「…きっと初日は混んでるよ」


そう呟く健雄に、


「まぁそうかもしれないな」


海正はそう応えると自分の席に戻り次の授業の準備をしはじめた。







下校時、海正と別れた健雄は自宅のある中町へと向かっていた。

家から近いからという理由で清龍高校への進学を決めたというだけあって学校と健雄の自宅の距離は遠くない。

綺麗に整備された街路樹を何気なく見上げながら歩く。

樹上にはまだ蝉などはいるはずもなく昼間に聞こえたような気がした蝉の声はやはり空耳だったのだろう。

あら、こんにちは。

すれ違う昔からの顔見知りのおばさんの挨拶に健雄も会釈と、こんにちはの言葉を返す。

昔から温泉地としてそれなりの賑わいを見せているこの町は最近の区画整理によって新しい道や建物などが増えてきているとはいえ、まだまだ古い建物などもあり観光客が求めるであろう旅情をかもし出している。

そしてコンビニなどの新しい建物や自動販売機などでさえ町との調和を乱さぬように落ち着いた色で統一感をだすように配慮してある。

それは町並みだけではなく、ここに住みなす人達も皆、一人一人が温泉地の住人を演じ、温泉地は温泉地という幻想の上に成り立っているようにも感じる。

時がゆっくりと流れているように感じる雰囲気をユトウリタイムと呼ぶ者もいるこの町には、若者が求めるような刺激は少ないけれど、健雄は自分の生まれ育ったこの町を概ね気にいっていたし都会などに出ることもなく、ずっとこの町で暮らしてもいいと思っていた。

しかし、その気持ちはこの町に理想や愛情を見出だしての事ではなく波風を立てたり必要以上に目立ったり、リスクを背負う事を嫌う健雄の性質からくる消極的な愛着からだった。

何事も必要以上に求めると、ろくな事がない。

それが齢、十六歳の健雄の世界観だった。

見慣れた街路樹、見慣れた小道、見慣れた住人の顔。

それらとすれ違い、いつものように帰宅の途につく。

玄関を開けて、ただいまと言うと母親のおかえりの声が茶の間から聞こえた。

茶の間に顔を出さず、そのまま階段をあがり、自分の部屋にあがる健雄の背中に


「タケちゃん。図書館行かないの~?」


との声が聞こえたが、今日はいいやとだけ答えて早々に自分の部屋にひっこんだ。

湿度を含んだ部屋はムシムシとしている。

窓を開けて風を通すとベッドに寝転び一息ついた。

耳鳴りがやまない。

気分転換の為にCDを流す。

スピーカーから、いれっぱなしにしていたジミ・ヘンドリックのバンド・オブ・ジプシーズが流れだした。

ボリュームをさげなさいと叫ぶ母親の声が階下から聞こえたが、健雄は聞こえないふりをした。

























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