流れ征く者
「ば、化け物……」
野武士の口から小さな悲鳴とともに出てきたその言葉で、男はあらためて実感する、自分はやはり化け物なのだと。
そう言われた男、名無しの腹には刀が突き刺さったままだが、血は一滴たりとも流れてはいない。痛みと呼べるものも、男にはなかった。刺さっているという感触はあっても、自分が死に近づいているという実感はない。まさに化け物と呼ばれるにふさわしいと、自身でさえもそう思える。
名無しの周りにはすでに死体が二十近くも転がっている。名無しによって一撃で斬り殺されたのだ。みな一様に恐怖の表情を浮かべたまま、息絶えている。どれほど戦意を失っていても、容赦はしなかった。別段憎く思っているわけではない。村の者達に恩があるわけでも、義理があるわけでもない。ただこのままでは、あの村人達は『生きて』いられなくなってしまう。そうして自分の『生きる』意味を知るための材料が少なくなってしまうのが惜しいと思えただけであった。
名無しは腹から刀を引き抜くと、近くに投げ捨てた。
残りは四人。ただその四人も、すでに自分の人生を諦めている。
「さらった者たちがいるだろう? どこにいる?」
震えながら、野武士の一人が後ろの小屋を指差した。名無しは小さくうなずく。
「もうお前たちに用はない。この地から去れ。次に会えばお前たちをどこまででも追って、必ず殺す。……行け」
感情のない瞳から放たれた視線が、野武士たちの身体に突き刺さる。蜘蛛の子が散るように、野武士たちは逃げていった。
名無しは小屋に入ると、置いてあった着物に着替えた。さすがに穴の空いた着物を着ていれば、なぜ無傷なのかを疑われてしまうと思ったからだ。
捕まっていた娘五人ほどを解放し、村へと帰ってからの村人の感謝の言葉は、限りないものだった。皆名無しに口々に礼を言っていき、その夜には村人たち全員での宴が始まった。なけなしの食料だったはずだが、みな嫌な顔一つせずに食料を運び、夜空の下で宴会が始まった。笑う者、泣く者、励ます者、後悔する者も、ただ今を楽しむ者も、月がうつる美酒に酔いしれた。
久しぶりの酒を浴びるほどに飲みながら、いつしか名無しは眠りに吸い込まれていった。
名無しは久しぶりに夢をみた。いつのことだったかは思い出せない。ただ、返り血による深紅の鎧を身に纏い、戦場で刀を振り続け、目に映る敵をひたすらに殺し続けていた日々の記憶だ。一度の戦において、何十人、あるいはもっと多くの者を切り続けた。なぜか、本当に自分でも分からないが、なぜだか弓は自分の身体を避けていく。当たる気がせず、ただ殺意のままに敵を斬り続けるのは、快感でもあった。無意識のうちに笑みが顔に浮かべられていく。
そのうちに“鬼”と呼ばれ、敵からだけではなく、いつしか味方からも畏怖されているのを知った時、名無しは絶望した。そして、戦の場面から切り替わり、強い光に包まれ、ふと気がつくと目の前には矢があった。胸に刺さっている。痛みというよりも、恐怖と、そして怒りがにじり寄ってきた。矢が飛んできたと思われる方向に顔を上げると、息を荒くしながら弓を構えている男がみえる。それは、その男は、自分のことを一番に慕ってくれていたはずの……。
背中にじっとりと汗をかきながら、名無しは目覚めた。先ほどみた鮮明な夢が、かつて本当に起こったことなのかどうか、名無しには分からない。確かめようもない。記憶の糸をいくらたどっていっても、それはすでに深い闇の中に消えていったようだった。
身体を起こして辺りを見回すと、村人達は外だというのに皆寝息をたてながら寝ている。まだ外は薄暗く、朝日も顔を覗かせてはいない。朝日が昇る前に村を発とうと、刀を杖代わりにして名無しは立ち上がった。鍔と鞘の擦れる音が、微かに辺りに響く。子供は家の中で寝ており、大人達はみな酒に酔いつぶれ、熟睡しているはずだった。しかし、酒を一滴たりともの飲まず、ただ安らかに眠っているだけの者もいた。村長である。名無しがたてた微かな物音に反応し、目を開けてゆっくりと身体を起こした。
「名無し様、もう、発たれるのですか?」
朝の寒さに身震いし、村長は手を擦り合わせ、そして声を低くし、名無しに声をかける。
「ああ。朝日が昇る前に……。もう私は必要ないだろうしな」
その言葉に、村長は首を横に振った。
「名無し様、もしよろしければ、この村にずっと住まれませぬか? 村人はみな、あなた様に言葉が尽きてしまうほどに感謝しております。私の娘も、あなた様を好いておるようです。もちろん、娘の夫とならずとも、どうかこの村に腰をおろしてはもらえないでしょうか」
名無しは村長の瞳をじっと見つめた後、一度地面に視線を落とした。
「無理をしなくていい。気味が悪いはずだ。どうして、あいつは一人で乗り込んだはずなのに、無傷で帰ってこられたのかとな……」
村長の瞳が揺れ動いた。
「いえ、そのようなことは……」
その声は、確かに震えていた。
「いいさ。もう慣れている……」
名無しは刀を腰に差すと、脚を前へと進めはじめる。
村長が引き止めようと、腕を伸ばした瞬間だった。
ゆっくりと足下に光が忍び寄ってきた。朝日が昇ったのだ。
名無しは心の中で舌打ちした。名無しは反射的に村長の方へ振り返る。
その光が村長の脚に触れた瞬間、村長の瞳は大きく開かれ、そして、閉じられた。
村長はゆっくり目を開けると、目の前の名無しを一通り見回した後、首を傾げた。
「はて、あなたはどちら様でしたか? なぜ私たちの村に……?」
名無しは短く息を吐くと、薄く、今にも壊れそうな表情を浮かべた。
「悪い酒に当たったようだな。私は御領主様の使いの者。近隣に住まう山賊を討ち取りに参ったのだ。その任は成功し、先ほどまで皆で酒を呑んでいたのだ。もう少しこの村に滞在したかったが、今日中に御領主様の元に戻らねばならんため、失礼する……」
そう言いきった後、名無しはあっけにとられる村長に背を向けた。
「お待ちくださいお侍様! せめて、お名前だけでもお聞かせいただけないでしょうか……」
名無しは振り向くと、短く言った。
「聞いたところで、詮無きことだ……」
そうして、村長の眼に映る名無しの姿は、朝日の中へと消えていった。
名無しはまた、どこかへと流れる。
いつまでかは分からない。
どこまでかも分からない。
名無しに与えられた永遠の命は、罰なのだろうか……。