神様、いるなら今すぐ仕事しろ! ~神嫌いの辺境伯と、神に文句ばかりの聖女~
「帰れ」
馬車の扉が開いて、最初に聞こえたのがそれだった。
リーネは、踏み台に片足をかけたまま固まった。
目の前に、黒い外套の男が立っている。背が高い。目つきが悪い。顔立ちは整っているのに、愛想というものを生まれたときにどこかへ置いてきたような顔だった。
「……あの、まだ片足しか降りてないんですけど」
「なら、その足も戻せ」
グレンツ辺境伯ジークヴァルト。
王都では、血に染まった悪魔だの、魔獣を素手で引き裂くだの、好き放題に噂されている男である。
リーネは、残りの足も地面に降ろした。戻すつもりは、さらさらなかった。
「一週間です」
「何がだ」
「王都からここまで、一週間かかったんです。揺れる馬車で。宿の寝台は板みたいに硬くて、三日目からは宿もなくて、昨日なんか道の真ん中に牛がいて、半刻どいてくれなかったんですよ。牛が。半刻」
「そうか」
「そうか、で済ませないでください!その一週間の果てに、最初に聞いた言葉が『帰れ』ですよ!」
「二番目の言葉も『帰れ』だ」
「先に言わないでください!」
リーネの後ろで、護衛騎士のカミラが剣の柄に手をかけた。
「辺境伯様。こちらは教会が正式に派遣した聖女様です。そのような物言いは――」
「派遣を頼んだ覚えはない」
ジークヴァルトは、カミラを見もせずに言った。
「この土地に浄化は要らん。魔獣なら、俺が斬る」
「瘴気は斬れませんよ」
リーネが言った。
「魔獣が増えてるのは、土地に溜まった悪い魔力のせいです。それを散らすのが浄化です。剣でどうにかなるなら、聖女はとっくに失業してます」
「失業すればいい」
「しませんよ!需要あるんですから!」
「神の加護とやらで、魔力を散らすと」
「ええ、まあ」
リーネは、少しだけ目をそらした。
「正直に言いますと、聖女の浄化なんて、マイナスイオンみたいなものです」
カミラが、ばっと聖女を振り返った。
「聖女様!?」
「でも何か効いてる気はします。ちゃんと。体感で。プラズマクラスターくらいには効いてるかもなー的な気分は味わえます」
「聖女様、それ以上はおやめください!」
ジークヴァルトは、初めて、まともにリーネの顔を見た。
「よく分からない単語があるが、つまり、効くかどうか分からんものを、神の名前をつけて売っているわけだ」
「効くかどうか分からないとは言ってません。効き方の説明や効果が胡散臭いと言ってるんです」
「同じことだ」
「全然違います!空気清浄機だって、何が出てるのかよく分からないけど部屋の空気は良くなるでしょう!」
「何だそれは」
「知りません!でも良くなってる気分は味わえます!」
カミラが、両手で顔を覆った。神の御名を背負った聖女と、神を嫌う異端の辺境伯が、王都では誰も聞いたこともない謎の単語を例に出して言い合っている。どちらを先にたしなめるべきか、騎士の訓練では教わらなかった。
「お部屋のご用意は、できております」
いつの間にか、ジークヴァルトの後ろに、白髪の老執事が立っていた。
「ハインツ。帰すと言っている」
「はい。ですので、お帰りになるまでのお部屋でございます」
老執事は、表情ひとつ変えずに一礼した。
「お荷物は、こちらでお運びいたします。聖女様、長旅でお疲れでございましょう。牛の件は、たいへんでございましたね」
「……聞こえてました?」
「門の内側まで、よく通るお声でございましたので」
ジークヴァルトは、何も言わずに背を向けて館へ入っていった。
帰れとは、もう言わなかった。
通された客間は、日当たりのいい角部屋だった。寝台には干したての敷布がかかっていて、窓辺には小さな花瓶まで置いてあった。
「……帰れって言った割に、ずいぶんちゃんとしてません?」
荷ほどきを手伝ってくれた恰幅のいい女性が、くすりと笑った。メイド長のマルガだと名乗った。ハインツの奥方だという。
「旦那様は、客間の支度だけは、毎朝欠かさずお命じになるんですよ。お客様なんて、何年もお見えにならないのに」
「何でですか」
「さあ。嵐の晩に、道に迷った行商人が転がり込んできたことがありましてね。そのときお部屋がなくて、物置にお通ししたのを、旦那様、ずいぶん気にしておいででしたから」
リーネは、干したての敷布を見下ろした。
血に染まった悪魔、と王都では言われている男だった。
「……へえ」
「あら、聖女様。旦那様には内緒でございますよ。私が叱られますから」
マルガは、まったく叱られることを恐れていない顔で、部屋を出ていった。
◇
請求書を持ってきたのは、カミラだった。
「教会から、辺境伯様にお渡しするよう預かっております」
応接間の卓に、封筒が一通置かれた。教会の紋章入りの、立派な封筒だった。
ジークヴァルトは、開けもせずにそれを見下ろした。
「何だ」
「派遣に伴う、寄付金のご案内です」
「頼んでいない」
「聖女様を地方へお迎えになる領主様は、教会へ寄付をお納めになる習わしとなっております」
「迎えていない。勝手に来た」
「勝手に来たんじゃありません。送られてきたんです」
リーネが、長椅子に沈み込んだまま言った。もう一歩も動きたくない、という沈み方だった。
「私だって、教会からは『派遣先の領主様が多額の寄付をなさる』って聞いてきたんですよ。てっきり、あなたが泣いて頼んだのかと」
「泣いて頼む顔に見えるか」
「見えません。泣いたことあります?」
「ない」
「でしょうね」
ハインツが、封筒を丁寧に開けて、中の紙を広げた。老眼鏡をかけて、読み上げる。
「聖女派遣料」
「頼んでいない」
「聖女様歓迎儀礼費」
「歓迎していない」
「歓迎の祝宴費」
「宴など開いていない」
「神への感謝献金。任意」
「なら払わん」
「……の下に、小さく『必須』と」
ジークヴァルトの眉が、初めて動いた。
リーネが、長椅子から身を起こした。
「見せてください」
ハインツが差し出した請求書を、リーネは上から下まで読んだ。読んでいくうちに、顔がどんどん険しくなった。
「……歓迎儀礼費って、私、歓迎されてないですよね」
「されていない」
「されてないのに、されてる前提でお金取るんですか。祝宴費も。私、まだお茶も出てないんですけど」
ハインツが、すっとお茶を出した。
「ありがとうございます。いや、そういうことじゃなくて」
リーネは、請求書を卓に叩きつけた。
「前から思ってたんですよ。教会の偉い人たちって、お金の話になると急に具体的になるんです。普段は『神のお考えは人間には計り知れない』とかぼやけた表現で言うくせに、献金の額だけは金貨一枚単位で教えてくれるんですよ」
「神の考えが、金額で分かるのか」
「分かるどころじゃないです。神様は、募金箱に入れた貨幣の音で、金貨か銀貨か銅貨か、聞き分けられるらしいですよ」
ジークヴァルトは、少し考えた。
「鉄貨は?」
「募金箱の入り口には、鉄貨が入らない隙間しか空いてません」
部屋が、しんとした。
「この前なんか、孤児院の子が鉄貨を握りしめて大聖堂に来て、入らなくて泣いてました。私が銅貨に替えてあげましたけど。両替手数料は取りませんでしたよ」
「聖女様……」
カミラが、震える声で言った。
「それを、辺境伯様の前でお話しになる必要がありましたか」
「本当のことじゃないですか」
「そういう問題ではありません!」
カミラは、こめかみを押さえた。それから、絞り出すように言った。
「……それに、教会には、立派な方もおられます。私の故郷の神父様は、ご自分の食事を削って、孤児に分けておられました」
「知ってます」
リーネは、あっさり頷いた。
「私を育ててくれた孤児院の院長先生も、そういう人でした。冬になると、自分の外套を子どもに貸して、自分は毛布を頭からかぶって廊下を歩いてました。おばけみたいでした」
「では」
「だから余計に腹が立つんです。現場の人たちが身を削ってるのに、上の人たちが請求書に『必須』って書いてるのが」
カミラは、反論しなかった。
ジークヴァルトは、請求書をもう一度見た。
「……つまり、教会は、頼まれてもいない聖女を送りつけ、されてもいない歓迎の金を取り、任意の献金を必須にしている」
「そうです」
「腐っているな」
「腐ってますね」
二人の声が、きれいに重なった。
一瞬、二人は顔を見合わせた。
初めて、意見が合った。
「まあ、悪いのは神様の名前を使ってる人たちで、神様本人は……たぶん、関係ないんでしょうけど」
リーネが何気なく言うと、ジークヴァルトの目が、すっと冷えた。
「同じことだ」
「え?」
「救う相手を選ぶような神なら、最初からいない方がましだ」
低い声だった。請求書に腹を立てていたときとは、まるで違う声だった。
リーネは、何か言い返そうとして、やめた。
ジークヴァルトは、もう請求書に目を戻していた。
「……お前も、教会についてだけは、まともなことを言う」
「あなたこそ。帰れ以外の言葉、言えたんですね」
「必要がなかっただけだ」
「必要ありましたよ!最初の一言から!」
「最初の一言は、適切だった」
「どこがですか!一週間ですよ!牛ですよ!」
「牛は俺のせいではない」
「あの牛、あなたの領地の牛ですからね!」
ハインツが、そっと請求書を回収した。
「こちらは、いかがいたしましょう」
「送り返せ」
「かしこまりました。返送の郵便代は」
「教会に請求しろ」
リーネが、拍手した。
「それはいいです。すごくいいです」
「ついでに言っておきますけど、私、浄化が終わるまで帰りませんからね」
「帰れ」
「はい、三回目の『帰れ』いただきました。でも帰りません。途中で帰ったら、教会はまた別の聖女を送ってきますよ。新しい請求書と一緒に」
ジークヴァルトは、口を開きかけて、閉じた。
「しかも二人目の派遣だから、きっと『再派遣手数料』とか付きます」
「……」
「『前任者の不手際に対するお詫び献金』とかも付きます」
「……さっさと終わらせて、帰れ」
「最初からそう言ってくださいよ」
言い終えてから、リーネは自分のお腹が鳴ったのに気づいた。
ジークヴァルトも、気づいた。
「……飯は出す」
ジークヴァルトは、立ち上がりながら言った。
「出すが、請求はするな」
「請求するのは私じゃありません、教会です!」
「お前は教会の人間だろう」
「所属してるだけです!会社と社員は別人格なんです!」
「何だ、会社とは」
「知りません!お腹が空いてるんです!」
◇
夕食は、王都のどの宿よりもおいしかった。
牛肉のステーキ。焼きたての黒パン。根菜のスープ。
リーネは、道の真ん中であくびをしていた牛を思い出しながら、ステーキを睨みつけた。
「……お前のせいで、どれだけ苦労したと思ってるんですか」
ナイフを突き立てた。
「こんにゃろめ!」
一切れを口に運んだ。
「……うっま!」
牛への恨みが、少し晴れた。
食卓の向かいでは、ジークヴァルトが黙々と食べていた。
給仕をしていたマルガが、ジークヴァルトの皿を見て、ほんの少しだけ口元をゆるめた。客人と同じ卓で食事をする旦那様を、何年ぶりに見たのだろう、という顔だった。
「これ、すっごくおいしいです」
二切れ目を頬張りながらリーネが言うと、マルガは嬉しそうに頭を下げた。
「ありがとうございます、聖女様。旦那様のお好きな味付けなんですよ」
「マルガ」
「はい、旦那様。余計なことでございました」
マルガは、まったく反省していない顔で下がった。
しばらく、静かな食事が続いた。
沈黙を破ったのは、ジークヴァルトのほうだった。
「治癒魔術、と言ったな」
「言いましたけど」
「あれは、どの程度効く」
「どの程度って、怪我なら大抵は治りますよ。骨も、傷も」
「そうか」
ジークヴァルトは、パンをちぎった。
「アロエの汁と、どう違う」
リーネのナイフが、止まった。
「……何と、おっしゃいました?」
「アロエだ。火傷に塗る。うちの庭にも生えている」
「知ってますよ、アロエは!知ったうえで聞いてるんです!聖女の治癒を、アロエと比べました?」
「比べた」
「比べないでください!」
「なぜだ。どちらも傷に効く」
「効き方が違うんです!アロエは塗って何日もかかるでしょう!私のは、その場で治るんです!」
「アロエは、寄付金を取らない」
カミラが、壁際で小さく呻いた。
リーネは、ナイフを置いた。テーブルの端をつかんで、身を乗り出した。
「いいでしょう。証明してあげます。アロエとの格の違いを」
「いらん」
「いります!今、私の誇りがアロエと並べられてるんです!」
「並べたのではない。比べただけだ」
「余計に悪いです!」
ジークヴァルトは、何も言わずに水を飲んだ。
飲み終えてから、窓の外の庭に目をやった。
「……よく育っている」
「アロエの話はもういいです!」
翌朝、リーネの朝食の皿の横に、小鉢が一つ置かれていた。
薄緑色の、ぷるぷるしたものが入っていた。
「マルガさん、これ」
「アロエの寒天寄せでございます。旦那様が、聖女様にお出しするようにと」
リーネは、食卓の向こうを見た。
ジークヴァルトは、何食わぬ顔で黒パンをかじっていた。
「……ちょっと」
「庭に生えていた」
「わざとですよね」
「体にいい」
「わざとですよね!?」
リーネは、寒天寄せを一口で食べた。おいしかったのが、余計に腹立たしかった。
◇
その日の昼前、館の門が激しく叩かれた。
「旦那様!荷車が横転して、子どもが下敷きに!」
ジークヴァルトが立ち上がるより早く、リーネが食堂を飛び出していた。
門の前の通りに、壊れた荷車が転がっていた。その脇で、七つか八つくらいの男の子が、腕を押さえて泣いていた。腕は、おかしな方向に曲がっていた。膝からは、血が流れていた。
母親らしい女が、真っ青な顔で子どもを抱きかかえている。
リーネは、石畳に膝をついた。
「はい、ちょっとごめんね。見せてくれる?」
声が、さっきまでとまるで違った。
「痛いね。すごく痛いね。うん、分かるよ。でもね、お姉ちゃん、これ治すの得意なの。ちょっとだけ、あったかくなるからね」
リーネの両手が、白く光った。
光は、男の子の腕を包み、膝の傷を包んだ。曲がっていた腕が、ゆっくりと、元の形に戻っていった。血が止まり、傷口が閉じていった。
男の子は、泣くのも忘れて、自分の腕を見ていた。
「……いたくない」
「でしょ。動かしてみて。ゆっくりね」
男の子が、恐る恐る腕を曲げた。伸ばした。それから、母親を見上げて、にっと笑った。
母親が、泣きながら何度も頭を下げた。リーネは、ひらひらと手を振った。
「お礼はいいです。あ、もし寄付してくださるなら、孤児院が併設されている教会に直接お願いします!」
母親が、こくこくと頷いた。
「それから、たまに『教会でーす!』って玄関先に来る人たちには、絶対渡しちゃダメですよ!」
「えっ、あの方たちも教会の人では……」
「中央の集金担当です!神様の名前を出せば財布が開くと思ってるんですから!」
リーネが立ち上がって振り返ると、ジークヴァルトが、少し離れたところに立っていた。いつから見ていたのか、分からなかった。
リーネは、胸を張った。
「どうです。『効くかどうか分からんもの』でしたっけ?」
「……効くな」
ジークヴァルトは、あっさり認めた。
リーネは、拍子抜けした顔をした。
ジークヴァルトは、男の子が母親と手をつないで帰っていくのを、黙って見送っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……病気も治せるのか?」
リーネは、少しだけ考えた。
「全部じゃありませんけど。一応は。病気の種類にもよりますね」
「そうか」
それだけだった。
リーネは首をかしげて、ジークヴァルトの横顔を見た。何か続くのかと思ったが、ジークヴァルトはもう館のほうへ歩き出していた。
◇
浄化は、子どもを治したその日の午後から始めて、三日かかった。
館の周りから始めて、街の井戸、北の牧草地、森の入り口。リーネが手をかざすたびに、淀んでいた空気が少しずつ軽くなった。
ただ、北の牧草地だけは、浄化した翌朝に行ってみると、また空気が重くなっていた。二度やっても、同じだった。
「どこかから、流れてきてるんですかね」
「どこからだ」
「分かりません。もっと北のほう、としか」
ジークヴァルトは、毎回ついてきた。監視だ、と本人は言った。
「信用してないんですね」
「していない」
「正直なのは、いいことですけど」
浄化の二日目、街の井戸を清めていると、近所の人たちが集まってきた。
リーネが驚いたのは、誰もジークヴァルトを怖がっていないことだった。王都の噂では、領民も恐れて目を合わせないはずの男だった。
ところが、井戸端のおかみさんたちは、平気で彼に話しかけていた。
「旦那様、うちの屋根、この前の嵐のあと直していただいて、ありがとうございました」
「ああ」
「旦那様、うちの子がまた背が伸びまして」
「そうか」
ジークヴァルトの返事は、一言ずつだった。それでも、おかみさんたちは満足そうだった。
◇
三日目の夜、最後の浄化を終えて館に戻ると、ジークヴァルトは裏庭の東屋で一人、剣の手入れをしていた。
リーネは、少し迷ってから、向かいの椅子に座った。ジークヴァルトは、顔も上げなかった。
「一つ、聞いてもいいですか」
「聞くな」
「聞きます。あなたは、どうしてそこまで神様や教会が嫌いなんですか」
剣を拭く手が、止まった。
「……教会の人間に、話すことはない」
「教会の人間として聞いてるんじゃありません」
リーネは、少しだけ言葉を探した。
「私も、神様にはいろいろ思うところがあるので。……あなたはどうしてなのかなって、気になったんです。前に、救う相手を選ぶような神ならいない方がましだって、言ってたでしょう」
ジークヴァルトは、しばらく黙っていた。
剣を鞘に収めて、卓の上に置いた。
「子どものころに、病気をした」
ぽつりと、そう言った。
「国中の医者に診せたが、誰にも治せなかった。父と母は治す方法を探し回った。探して、探して、最後に、ある宗教の集まりにたどり着いた」
リーネは、黙って聞いていた。
「祈れば治る、と言われたらしい。寄付をすれば、祈りは届く、と。父と母は、祈った。寄付をした。俺の病気は治らなかった。だから、もっと寄付をした。足りないのは信心だと言われて、もっと。最後には、領地の金にまで手をつけた」
ジークヴァルトの声は、平らだった。何度も頭の中でなぞって、角がすり減った話し方だった。
「それでも、治らなかった。金も、望みも、尽きたんだろう。ある冬の朝、父と母は、二人で命を絶っていた。俺を、置いて」
虫の声が、やけに大きく聞こえた。
「そのあと、外国にいた叔父が戻ってきた。帝国で、新しい治療法が見つかったと言って。俺は、それで治った。叔父はあの集まりを訴えて、取られた金を取り返した。領地は、叔父が立て直した」
「……」
「父と母が、馬鹿だったのは分かっている」
ジークヴァルトは、自分の手を見ていた。剣だこだらけの手だった。
「騙されて、金を注ぎ込んで、領民に迷惑をかけて、最後には息子を置いていった。褒められたことは、何一つない」
少し、間があった。
「だが、俺を治したかった。その気持ちだけは本物だった」
ジークヴァルトは、顔を上げた。夜空のほうを見た。
「あの二人が祈ったのは、たった一つだ。息子を助けてくれ、と。それだけだ。そんな切なる願いすら神は聞かなかった」
リーネは、何も言わなかった。
神は試練を与えた、とか。ご両親は天で安らいでいる、とか。教会で、何百回も聞かされてきた言葉が、喉まで来ては消えた。どれも、目の前の男に言っていい言葉ではなかった。
代わりに、別のことを言った。
「私、川べりの草むらで拾われたんです。五つのとき」
ジークヴァルトが、こちらを見た。
「何で一人でそこにいたのか、覚えてません。親の顔も。孤児院にいたとき、毎晩お祈りさせられました。神様は、良い子のことは見ていてくださいますよ、って。でも、隣の寝台の子は、熱を出して、良い子のまま死にました」
リーネは、膝の上で手を組んだ。
「それからずっと、思ってるんです。私みたいなのにこんな加護をくれるくらいなら、あの子に少し分けてくれればよかったのにって。神様のやることって、基本的に配分がおかしいんですよ」
ジークヴァルトは、何も言わなかった。
ただ、リーネの話を、最後まで聞いていた。
「だから、あなたが神様を許さないのは、当たり前だと思います。私も、たぶん許してないので」
しばらく、二人とも黙っていた。
先に口を開いたのは、ジークヴァルトだった。
「……お前は、なぜ聖女をやっている」
「お給料が出るからです」
「……」
「あと、怪我してる人を見ると、放っておけないんです。治せるのに治さないのって、なんか、神様みたいで嫌じゃないですか」
ジークヴァルトの口の端が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったのかどうか、リーネには分からなかった。
「おかしな聖女だ」
「おかしな辺境伯に言われたくありません」
「俺はまともだ」
「初対面のお客に『帰れ』を三回言う人は、まともじゃありません」
「そろそろ四回目を言おうか?」
「言わなくていいです!」
ジークヴァルトは、剣を手に取って立ち上がった。
「明日も早い。もう寝ろ」
「言われなくても寝ますよ」
◇
翌朝、ジークヴァルトは軍装で食堂に現れた。
「北の森で、魔獣の目撃が増えている。今朝は、牧草地の羊がやられた。調べに行く」
リーネは、パンをくわえたまま顔を上げた。
「私も行きます」
「だめだ」
「浄化、まだ北の森の奥が残ってるんです。目撃が増えてるなら、たぶんそこに悪い魔力が溜まってます。どうせ行くなら、一緒に済ませたほうが早いです」
「危険だ」
「危険なところを浄化するのが、聖女の仕事です」
ジークヴァルトは、腕を組んだ。
「足手まといになる」
「なりません」
「魔獣が出たら、どうする」
「逃げます。全力で。得意なので」
カミラが、一歩前に出た。
「聖女様。私も、辺境伯様のご判断に賛成です」
リーネは、パンを落としそうになった。
「カミラ!?」
「森の奥は、騎士である私にとっても未知の土地です。聖女様の御身を、確実にお守りできるとは申し上げられません」
「裏切り者!」
「お守りしたいからこそでございます!」
「カミラは、私の味方だと思ってたのに!」
ジークヴァルトが、パンにバターを塗りながら言った。
「部下のほうが、主人より賢いな」
「黙っててください!今、身内で揉めてるんです!」
結局、ジークヴァルトが折れた。
森の奥の浄化が残っていることは、事実だった。魔獣が増えている原因が魔力の淀みなら、その場で散らせる者がいたほうがいい。
「俺の指示には、必ず従え」
「従います」
「勝手に前に出るな」
「出ません」
森までの道は、ぬかるんでいた。
「歩きにくいです」
「黙って歩け」
「馬は」
「森の中では使えない」
「牛は」
「……乗りたいのか」
「乗りたくはないです。言ってみただけです」
「あの牛なら、まだ街道にいる」
「まだいるんですか!?」
「あれは、あそこが好きらしい」
カミラが、後ろで小さく咳払いをした。オットーは、主君が道中で私語をしているのを、生まれて初めて聞いたという顔で、前だけを見て歩いていた。
北の森は、昼でも薄暗かった。
先頭を、ジークヴァルトと護衛騎士のオットーが歩いた。その後ろにリーネ、最後尾をカミラが固めた。
進むほどに、空気が重くなった。木々の葉が、妙にくすんだ色をしていた。道の脇に、小鳥が何羽も落ちていた。どれも、傷ひとつなかった。
「……匂いがします」
リーネが、立ち止まった。
「腐った卵みたいな。悪い魔力が、どこかで溜まりすぎてる匂い」
ジークヴァルトが、片手を挙げて一行を止めた。
崖の根元に、蔦に覆われた裂け目があった。人が一人、屈んで通れるくらいの幅だった。
「こんな洞窟、地図にない」
オットーが、低い声で言った。
ジークヴァルトが、裂け目の蔦を剣で払った。奥から、生ぬるい風が吹き出してきた。
中は、広かった。
天井の高い空洞が、奥へ奥へと続いている。壁のあちこちで、黒ずんだ結晶が鈍く光っていた。結晶には、どれも細かいひびが入っていた。光は、心臓の鼓動のように脈打っていて、その間隔が、見ているあいだにも短くなっていった。
「……溢れる寸前です」
リーネが、ささやいた。
「器いっぱいに水を注いで、まだ注いでるみたいな。いつこぼれても、おかしくない」
その結晶の周りの地面が、ゆっくりと盛り上がっていた。
土が割れて、何かが這い出してきた。
牙のある、狼に似た魔獣だった。一匹。二匹。結晶の数だけ、次々と。
「ここで、生まれてる……」
リーネの声が、かすれた。
「魔力が溜まりすぎて、魔獣が湧いてるんです。こんなの、聞いたこと――」
言い終わる前に、洞窟全体が震えた。
奥の結晶が、一斉に光った。黒い光だった。光が脈打つたびに、地面が割れ、魔獣が這い出した。十、二十、数えるのが追いつかなかった。
「魔力が暴走してる!」
「退け!」
ジークヴァルトの声が、洞窟に響いた。
一行は、裂け目から外へ飛び出した。その背中を追って、魔獣の群れが溢れ出してきた。森の木々を押し倒しながら、黒い波のように広がっていく。
その波の向かう先に、街があった。
「オットー」
ジークヴァルトは、剣を抜きながら言った。
「街へ走れ。門を閉めさせろ。領民を、城壁の内側へ」
「旦那様は」
「ここで止める」
「お一人で、あの数を――私も残ります!」
「命令だ!」
ジークヴァルトは、振り返らなかった。
「お前の足がいちばん速い。俺が止められなかった分は、お前が街で止めろ。行け!」
オットーは、唇を噛んだ。剣を握る手が、震えていた。
それから、深く一礼して、走り出した。一度も、振り返らなかった。
ジークヴァルトの手足に、赤い光が走った。
その瞬間、群れの中から一頭、ひときわ大きな魔獣が飛び出した。ジークヴァルトではなく、その後ろの、白い法衣のほうへ。
「聖女様!」
カミラが、リーネを突き飛ばした。
魔獣の爪が、カミラの肩から脇腹までを裂いた。
鎧が砕ける音がした。カミラは地面に倒れた。
「カミラ!」
ジークヴァルトの魔法剣が、魔獣を両断した。
リーネは、這うようにしてカミラのもとへ駆け寄った。血が、驚くほど速く広がっていた。
「動かないで。今、治すから」
リーネの両手が、白く光った。傷口に当てる。血が、少しずつ止まっていく。けれど、傷は深かった。
「……聖女様」
カミラが、かすれた声で言った。
「私を見捨てて、お逃げください」
「見捨てるなんて、そんな神みたいなこと、私はしません!」
「不敬!!」
血まみれの騎士の叫びが、森に響いた。
リーネは、構わず治療を続けた。傷がある程度ふさがったところで、片手を地面について、カミラの周りに白い光の膜を張った。半球の形をした、小さな結界だった。
魔獣が一頭、結界に飛びかかって、弾き返された。
「そこから出ないで。絶対に」
「聖女様、ですが」
「言いたいことは、あとでまとめて聞くから」
リーネは立ち上がった。
ジークヴァルトが、群れの前に立っていた。
赤い魔力をまとった剣が、一振りごとに、魔獣をまとめて薙ぎ払っていく。それでも、群れは途切れなかった。洞窟の裂け目から、黒い波は溢れ続けていた。
「何をしている」
ジークヴァルトは、振り返らずに言った。
「お前は邪魔になる。とっとと逃げろ」
「何をするつもりですか!」
「ここは俺の土地だ。お前は関係ない」
「あります、関係」
「何?」
リーネは、ジークヴァルトの隣に並んだ。
「浄化に私を寄越したのは、神の導きだそうです」
白い法衣の袖をまくった。
「なら、導かれた私に、聖女の仕事をさせてください」
ジークヴァルトは、一瞬だけ、横目でリーネを見た。
「……好きにしろ」
◇
ジークヴァルトが、地面を蹴った。
身体強化の赤い光が、さっきより強く全身を走った。踏み込みひとつで、群れの先頭に届いていた。魔法剣が赤く燃えた。横に払う。三頭がまとめて吹き飛んだ。返す刃で、飛びかかってきた一頭を、空中で斬り落とした。
速い。リーネの目では、ほとんど追えなかった。
それでも、群れは街のほうへ流れようとしていた。正面の数頭を斬っても、脇から、後ろから、黒い影が木々のあいだを抜けていく。
ジークヴァルトが、剣を高く掲げた。
今度の赤は、体をめぐる光ではなかった。剣先から、波紋のように外へ広がった。
次の瞬間、街へ向かっていた魔獣たちが、一斉に足を止めた。首をめぐらせて、こちらを見た。何十という赤い目が、ジークヴァルト一人に向けられた。
全ての魔獣が、彼に向かって殺到した。
リーネは、目を閉じた。
悪い魔力の匂いは、魔獣の数だけあった。濃いところ、薄いところ、動いているところ。目で追うより、そのほうがよく分かった。
「左!木の陰から、三つ!」
ジークヴァルトは、振り向かなかった。左へ剣を払った。木の陰から飛び出した三頭が、飛び出したのと同じ速さで地面に落ちた。
「後ろ、一つ!」
見もせずに、背後へ突いた。手応えがあった。
「……便利だな」
「褒めてます!?」
「次」
「右、上!枝の上です!」
赤い刃が、頭上の枝ごと魔獣を斬り落とした。
けれど、数が減らなかった。斬った端から、裂け目の奥から新しい群れが溢れてくる。ジークヴァルトの周りに、黒い塊が何重にも膨らんでいった。
リーネは、その塊を見て、息を止めた。
集まっている。敵意を集める魔術のせいで、群れの全部が、ジークヴァルトの周りの狭い場所に押し寄せている。
「そのまま、もっと集めてください!一か所に!」
「何をする気だ」
「まとめて洗います!」
「洗う?」
「浄化です!まとめ洗いです!」
ジークヴァルトは、一瞬だけ、横目でリーネを見た。
それから、剣を高く掲げ直した。赤い波紋が、さっきより強く広がった。散っていた魔獣までが、引き寄せられるように彼のもとへ殺到した。
黒い塊が、一つになった。
リーネは、両手を地面に叩きつけた。
白い光が、地を這って走った。光は、ジークヴァルトの足元を中心に広がり、群がる魔獣の群れを、下から一斉に包み込んだ。
悪い魔力から生まれた獣たちの輪郭が、ぐずぐずと崩れた。牙が鈍り、足が止まった。
「今です!」
言われる前に、ジークヴァルトは剣を振っていた。
赤い刃が、一回転した。動きの止まった群れが、輪の形に、まとめて吹き飛んだ。
リーネは、思わず拳を握った。
「いける……!」
「次は、もう少し早く寄越せ」
「注文が多いです!」
「振る前にだ。振ったあとでは遅い」
「分かりました、振る前ですね!」
二度目は、もっと噛み合った。
ジークヴァルトが群れを寄せる。リーネが洗う。崩れたところを、赤い刃が薙ぐ。その合間に、リーネの治癒が、振り下ろす直前の彼の腕に届く。
ジークヴァルトは、剣を振りながら、ほんの一瞬だけ、ふさがった自分の腕を見た。
「……アロエより、効く」
「今それ言います!?」
「事実を言った」
「もっと早く言ってください!昨日とか!」
結界の中で、カミラが両手を組んでいた。祈りの言葉が、途切れ途切れに聞こえてきた。主よ、どうか、お二人を。
その祈りに、二人の言い合いが、ずっと割り込み続けていた。
洞窟の奥が、また脈打った。
今度の脈は、さっきまでと違った。裂け目の縁の岩が、内側から押し広げられて崩れた。這い出してきたのは、狼ではなかった。牛ほどもある、角の生えた獣だった。一頭ではなかった。
リーネが洗う。輪郭が崩れる。けれど、崩れきらない。大きな獣は、白い光の中を、そのまま突き進んできた。
ジークヴァルトの剣が、角を受け止めた。足が、地面にめり込んだ。
「危ない!」
「構うな、洗い続けろ!」
一頭が、群れからこぼれた。
ジークヴァルトの網から外れて、まっすぐに、カミラの結界へ突進した。
白い膜に、角がぶつかった。膜に、ひびが走った。
「カミラ!」
リーネは、片手を結界のほうへ向けた。白い光を、膜に注ぎ込む。ひびがふさがる。その分、ジークヴァルトの足元の光が、薄くなった。
ジークヴァルトが、一足で結界の前へ跳んだ。角の獣を、横から斬り払った。
その背中に、洗いきれなかった別の獣の爪が届いた。脇腹が裂けた。
ジークヴァルトは、声も上げずに群れの正面へ戻った。また、剣を高く掲げた。赤い波紋が、もう一度広がった。けれど、その光は、最初よりずっと薄かった。
リーネの両手が、震えていた。
結界を保つ。治癒を飛ばす。群れを洗う。三つを、同時に続けることはできなかった。どれかを止めれば、どれかが崩れる。
ジークヴァルトの片膝が、地面についた。
すぐに立ち上がった。立ち上がって、また斬った。けれど、リーネには見えていた。彼の背中の赤い光が、灯りの消えかけた蝋燭みたいに揺れているのが。
このままでは、もたない。
リーネは、空を見上げた。
木々の隙間から、灰色の空が見えた。
「……神様」
声が、勝手に出た。
大きな獣が、ジークヴァルトに体当たりした。彼の体が、地面を滑った。剣を突き立てて、止まった。
「いるのか、いないのかも、ハッキリしない」
ジークヴァルトが、立ち上がった。血の混じった唾を吐いた。また、群れの中へ踏み込んでいった。
「何かが起きれば、神の奇跡。何も起きなければ、信仰が足りない。いつもそう。いいところだけ持っていって、悪いことは全部こっちのせい」
結界に、また角がぶつかった。ひびが、さっきより大きく走った。リーネは、片手を結界に向けたまま、叫ぶのをやめなかった。
「私は、アンタを認めない。良いとこ取りで、気まぐれなアンタも。アンタに振り回されて、騙されて、それでも祈っちゃう人間も。みんな、嫌い。大っ嫌い」
隣の寝台の子の顔が浮かんだ。会ったこともない、この領主の父と母の顔が、なぜか浮かんだ。毛布を頭からかぶって廊下を歩いていた、院長先生の背中が浮かんだ。
ジークヴァルトの赤い光が、ふっと、消えかけた。
「嫌いだけど」
リーネは、両手を空へ突き上げた。結界からも、治癒からも、手を離した。全部を、空に向けた。
「今、この時だけ、アンタに頼む」
白い光が、リーネの体から溢れはじめた。
「この、人間らしい我儘な私の願いに、応えなさい!!」
光が、膨れ上がった。
「今この時、この場所で、奇跡を起こしてみせなさーい!!」
白い魔力が、爆発した。
リーネ自身にも、何が起きているのか分からなかった。自分の中のどこにこんな力があったのか、知らなかった。光は、森を白く染めた。リーネの体を突き抜けて、まっすぐに、赤い光のほうへ流れていった。
ジークヴァルトの剣へ。
赤と白が、重なった。
魔法剣の刃が、伸びた。
一歩分。十歩分。木々の梢を越えて、なおも伸びた。赤い炎の芯に、白い光がまとわりついて、空に向かって立ち上る一本の柱になった。
ジークヴァルトは、自分の手の中の剣を見上げた。
それから、振り返らずに、言った。
「……聖女」
「何ですか!」
「洞窟は、どこまで続いている」
「山の、奥まで!たぶん全部!」
「そうか」
ジークヴァルトは、剣を両手で握り直した。街を背に、洞窟の口と、そこから溢れる黒い群れと、その向こうにそびえる山へ、まっすぐ向き直った。
踏み込んだ。
振り下ろした。
音が、遅れて来た。
光の刃は、魔獣の群れを真上から通り抜けた。群れが、光の中で消えた。刃はそのまま、洞窟の口へ、その奥の岩盤へ、山そのものへ食い込んでいった。
山が、鳴った。
縦に一本、白い線が走った。山頂から麓まで。線の内側から、光が噴き出した。洞窟の奥で脈打っていた黒い光が、その白に呑まれて、ひとつ、またひとつと消えていった。
轟音が、森を揺らした。
光が収まったとき、山は、二つに割れていた。
割れ目の奥に、もう黒い光はなかった。魔獣も、いなかった。淀んでいた空気が、嘘のように澄んでいた。鳥が一羽、割れた山の上を、何事もなかったように飛んでいった。
リーネは、真っ先に結界のほうを振り返った。
白い膜は、まだそこにあった。リーネが手を離したあとも、あの光に呑まれて、かえって厚くなっていた。その内側で、カミラが目を見開いたまま、膝立ちになっていた。どこにも、新しい傷はなかった。
街のほうの森は、静かだった。刃が走ったのは、街と反対の方角だけだった。倒れた木も、割れた地面も、すべて山の側にあった。
ジークヴァルトの手の中で、剣は元の長さに戻っていた。
彼は、それを地面に突き立てて、膝をついた。
リーネも、その場にへたり込んだ。
しばらく、どちらも口をきかなかった。
「……今の」
先に口を開いたのは、リーネだった。
「今の、私が出したんですかね。それとも、何かが出したんですかね」
「知らん」
「ですよね」
リーネは、空を見上げた。灰色だった雲が、ところどころ切れて、薄い青がのぞいていた。
「私も、知りません」
ジークヴァルトは、それ以上何も言わなかった。リーネも、それ以上は聞かなかった。
◇
遠くから、蹄の音が近づいてきた。
オットーが、領兵を引き連れて戻ってきたのだった。城門は閉め終えた。領民は全員、城壁の内側に入った。それから、主君のもとへ引き返してきた。一度も休まずに走ってきたらしく、馬も人も、汗まみれだった。
「旦那様!ご無事で――」
オットーは、そこで言葉を失った。
「……街は」
ジークヴァルトが、膝をついたまま尋ねた。
「無事です」
オットーは、我に返って答えた。
「門の外まで来た魔獣は、一頭もおりません。領民は全員、城壁の内側に。けが人も出ておりません」
「そうか」
ジークヴァルトは、それだけ言って、長く息を吐いた。
ジークヴァルトの背後で、山が二つに割れていた。
結界の中のカミラも、身を起こしていた。傷はふさがり、顔色も戻りはじめていた。彼女もまた、割れた山を見上げたまま、口を開けていた。
ジークヴァルトは、剣を支えに立ち上がった。
それから、へたり込んでいるリーネの前まで歩いてきた。
「立てるか」
「立てません。魔力、すっからかんです」
「そうか」
ジークヴァルトは身をかがめ、リーネを抱え上げた。
「ちょっ、えっ!?何してるんですか!?」
「立てないんだろう」
「立てませんけど!だからって、これは!」
「落とすぞ」
「落とさないでください!!」
リーネは慌てて、彼の首にしがみついた。
「……お前、元気だな」
「口を動かす元気は残ってるんですよ!」
ジークヴァルトは、リーネを抱えたまま、割れた山を見た。
人間にできることではない、その力が残した結果を改めて見た。
「……それでも、神などいない」
リーネは、黙って聞いていた。
「あれを、神の奇跡と呼ぶ者はいるだろう。だが、俺は呼ばない。父と母の祈りを聞かなかったものが、今日だけは聞いたというのなら、なお許せない」
それから、ジークヴァルトは、腕の中のリーネを見た。
「だが、お前はここにいる」
リーネを抱える腕に、少しだけ力がこもった。
「……それは、一つの救いになるのかもな」
リーネは、何か言い返そうとした。
何も、出てこなかった。首に回した腕を、どこに置き直せばいいのか、急に分からなくなった。
「――奇跡です」
背後から、震える声がした。
カミラだった。結界の中で膝立ちになり、両手を胸の前で組んで、割れた山を見上げていた。目に、涙が光っていた。
「神の奇跡です。聖女様の祈りに、神が応えてくださった。あの山は、神の御業の証です」
カミラは、ジークヴァルトに向き直った。
「辺境伯様。あの山を、聖地としてお祀りすべきです」
「断る」
「お断りします」
二つの声が、同時に響いた。
カミラは、ぽかんと口を開けた。
「……え」
「俺の領地だ。勝手に聖地にするな」
「あれを聖地にしたら、教会が絶対に宣伝に使います。『聖女の祈りで山が割れた』とか言って、寄付金を集めます。歓迎儀礼費とか取ります」
「取らせん」
「取りますよ。あの人たちは、取ります」
カミラは、抱えられたまま断言する聖女と、抱えたまま頷く辺境伯を、交互に見た。
「で、ですが、巡礼の方々が、きっと大勢お見えになります。領地も潤いますし」
「人が来るのか」
ジークヴァルトの顔が、露骨に曇った。
リーネが、ぷっと吹き出した。
「嫌そうですね」
「嫌だ」
「人付き合い、本当に苦手なんですね。巡礼者なんて、来たら毎日門の前で行列ですよ。毎朝『帰れ』って言わないといけなくなりますよ」
「言わない」
「言うでしょう、絶対」
「言わない。巡礼者は要らん」
ジークヴァルトは、割れた山を見上げたまま言った。
「うるさいのは、お前一人で十分だ」
リーネの動きが、止まった。
「……今の、どういう意味ですか」
「言葉どおりだ」
「言葉どおりって、どっちの意味ですか。うるさいから一人で十分なのか、一人いれば十分なのか」
「どっちでもいい」
「よくありません!全然意味が違います!」
「同じことだ」
「全然違います!前者は悪口で、後者は、その、なんか、違うやつです!」
「何が違う」
「それを今聞いてるんです!」
オットーが、そっとカミラの隣に立った。
「……旦那様が、あんなにお話しになるのは、初めて見ました」
「……聖女様が、あんなにお顔を赤くなさるのも、初めて見ました」
二人の騎士は、顔を見合わせた。それから、黙って、割れた山のほうを見た。
「答えてください!」
「帰るぞ」
「話をそらさないでください!」
「腹が減った」
「私もです!ステーキお願いします!でも答えてください!」
ジークヴァルトは答えずに、オットーが引いてきた馬の前まで歩いた。リーネを鞍の上に横向きに降ろすと、自分は手綱を取って歩き出した。
「ちょっと、まだ答えてもらってません!」
「前を見ていろ。落ちるぞ」
オットーの連れてきた領兵たちは、少し離れたところで、二人のやり取りを見聞きしていた。全員、ひどく神妙な顔で、馬のあとについて歩いた。
一人が、隣の一人に小声で言った。
「……旦那様が、聖女様を抱き上げて、お前一人で十分だと仰った、よな」
言われたほうも目を丸くしながら、また隣に何か言った。
リーネは、それに気づかなかった。鞍の上から問い詰めるのに忙しかったのだ。
◇
翌朝、リーネは、門の外のざわめきで目を覚ました。
窓から見下ろすと、館の門の前に、人が並んでいた。籠を抱えたおかみさん。酒樽を転がしてくる男。花束を握りしめた子ども。列は、坂の下まで続いていた。
寝間着のまま階段を降りると、玄関でジークヴァルトが、腕を組んで立っていた。眉間に、見たこともない深さの皺が寄っていた。
「何事ですか」
「分からん」
門の前の先頭にいたのは、井戸端のおかみさんだった。屋根を直してもらったと、ジークヴァルトに礼を言っていた人だった。
「旦那様!おめでとうございます!」
「何がだ」
「聖女様を、お迎えになるんでしょう!」
リーネは、その場で固まった。
「……はい?」
「昨日、山で!旦那様が聖女様を抱き上げながら、『俺には、お前一人がいてくれればそれで十分だ』って!領兵に出てたうちの亭主が、この耳で聞いたって!」
門の前の列から、拍手が起きた。
「そんなこと言われてません!そういう意味で言われてもいません!」
「聞き間違いだ」
ジークヴァルトが、低い声で訂正した。
「そもそも『うるさいのは』が抜けている」
「まあ!じゃあ、聖女様のお声だけは、ずっと聞いていたいということですね!」
「どうしてそうなるんですか!」
おかみさんは、にこにこしたまま、籠を差し出した。中には、焼きたてのパンと、卵と、なぜか赤ん坊の産着が入っていた。
「気が早すぎます!」
ジークヴァルトは、籠を受け取らずに、きっぱりと言った。
「俺が聖女に求婚などするわけがないだろう」
「はぁ!?何ですか、その言い方!」
「事実だ」
「私だって、あなたなんかと結婚する気ありませんからね!」
「なら問題ない」
「ありますよ!求婚もされてないのに、何で振られたみたいにならなきゃいけないんですか!!」
門の前の列が、どよめいた。おかみさんたちが、意味ありげに顔を見合わせた。
「痴話げんかだねえ」
誰かが、しみじみと言った。
騒ぎを聞きつけて、カミラが廊下の奥から駆けてきた。包帯を巻いた肩に、きちんと上着を羽織っていた。
昨日、結界の中から一部始終を見ていたカミラは、門の前の光景だけで、事情を理解した顔をした。そして、聖女の名誉を守るために、一歩前へ進み出た。
「皆さん、誤解です!」
よく通る、騎士の声だった。列が、静かになった。
「辺境伯様は、聖女様に求婚などなさっていません!あれは、魔力を使い果たして歩けなくなった聖女様を、仕方なく抱き上げただけで!」
「仕方なく!?」
リーネが、カミラではなくジークヴァルトを振り返った。
「そこに食いつくな」
「だって今、仕方なくって!」
「事実だろう」
「事実でも腹が立つんですよ!!」
カミラが、慌てて両手を振った。
「い、いえ!辺境伯様は、聖女様を大切に思っておられるからこそ、お抱きになったのです!」
一拍おいて、門の前が、歓声で揺れた。
「おおおおっ!」
「カミラァ!!」
「申し訳ありません、聖女様!なぜ私が説明すると、こうなるのでしょう!?」
ジークヴァルトは、額に手を当てていた。
そこへ、廊下の奥から、香ばしい匂いが流れてきた。
リーネは、嫌な予感がして振り返った。
マルガが、前掛けで手を拭きながら、台所から顔を出していた。
「あら、旦那様。皆さんお揃いで。お祝いの料理、もうすぐできますからね」
「マルガ」
「はい」
「違う」
「あら、違うんですか」
マルガは、ちっとも残念そうではない顔で、頬に手を当てた。
「もう、鶏を絞めてしまいましたけど」
ジークヴァルトは、何か言おうとして、やめた。
リーネも、何か言おうとして、やめた。
門の前では、領民たちが勝手に祝いの歌を歌いはじめていた。ジークヴァルトは、それを止めなかった。止める言葉を探しているうちに、二番が始まってしまったのだった。
ハインツが、静かに玄関に現れた。手に、一通の封書と、ペンを持っていた。
「旦那様。丘ひとつ向こうのお屋敷で隠居なさっている叔父上様から、先ほど使いが参りました」
「……何と」
「『おめでとう。式の日取りが決まったら知らせよ』と」
ジークヴァルトの眉間の皺が、さらに一段、深くなった。
「どこから聞いた」
「昨夜のうちに、領兵の一人が、叔父上様のお屋敷にも報せを走らせたようでございます。善意で」
「善意で」
「はい。善意で」
ハインツは、ペンを構えた。
「お返事は、いかがいたしましょう」
「誤解だと書け」
「誤解です、って書いてください」
二人の声が、きれいに重なった。
「かしこまりました」
ハインツは、さらさらとペンを走らせた。
「では、『ご婚礼の予定はございません』と」
「当然だ」
「当然です」
また、声が重なった。
二人は、顔を見合わせた。それから、同時に、そっぽを向いた。
ハインツは、二人の横顔を順に眺めた。
それから、何事もなかったように、もう一行だけ書き足した。
『現時点では』




