そう・・・私はコーデリア
「どうかしたかい?」
声がした方に顔を向けると、きれいな銀髪に濃紺の瞳の青年が心配げに瞳を揺らし、私を見ていた。
私は目の前がぐらついたように感じ、体のバランスを一瞬失ったように思った。何が起きたのか分からないが、バランスを崩したのが一瞬だったため転ばずに済んだようだ。ただただそこに茫然と立ち尽くしていた。
「コーデリア?」
不安気に青年は私の顔を覗き込んだ。
そう・・・私の名前はコーデリア。今年18歳になるのを機に婚約者と結婚することになっていた。今日はその婚約者の実家が結婚祝いとして下さる屋敷を見に来たのだ。結婚後に住む予定である。婚約者は2歳年上で幼馴染の・・・名前は・・・。
「セオドア様。ようこそいらっしゃいました。この屋敷を管理しております執事のセバスと申します。」
50歳くらいで短い白髪交じりの灰色の髪を丁寧に撫でつけ、鼻の下に長方形にきれいに切り揃えた髭を持ち、モノクルを付けた痩せた男性がいつの間にか近づいてきていて挨拶をしてきた。
そう、私の婚約者の名前はセオドア。親同士が仲良く、小さい頃から交流があった。ずっと幼い頃から私をかわいがってくれたお兄様。大好きで、いつもお兄様の後ろにくっついていた。その大好きなお兄様はいつしか大好きな男性になり、私の婚約者になった。
『ほら、ピンクのバラが満開だ。■■■の瞳のようだね。きれいだ。』
そう、私の瞳は一見すると茶色だが、角度や光の加減でピンク色に見えるのだ。彼はいつも私の瞳をキレイで好きだと言ってくれた。
「婚約者のコーデリアだ。」
セオドアが私の背に手を当てセバスに私を紹介した。手の感触に物思いにふけっていた私ははっと現実に引き戻された。私は慌ててスカートの端を摘まんだ。
「セオドア様の婚約者の・・・そう、コーデリアです。今日はよろしくお願いします。」
セバスは背筋をピンと伸ばし胸に手を当てると、頭を下げた。
「執事のセバスです。今後お二人がこのお屋敷に住まわれるようになりましたら、わたくしが筆頭となりお二人のお世話をさせていただきます。よろしくお願いいたします。」
セバスは頭を上げると優しく微笑んだ。
「まずは一階からご案内いたします。こちらへどうぞ。」
セバスは奥に見える廊下の方に歩いて言った。
ああ、ここは玄関ホールだった。先程から私たちは玄関ホールに立っていたのだった。大理石でできた床、中央にゆったりとした二階に続く階段、階段脇にはバラを中心にダリアやリンドウが添えられている花瓶、壁際にはクラシカルな甲冑、壁には大きな金色の額縁に収められた風景画、その横には大きな振り子時計。玄関ホールは古めかしい作りの落ち着いた空間だった。
振り子時計は10時5分を指していた。文字盤の下には大きな振り子が規則正しく揺れているのが見えた。
あらっ、まだ来てから五分と経っていないのかしら?私は首を傾げた。あの時計は時間丁度にその時間分の鐘の音、ボーンという音が、屋敷中に響く音が鳴るはずだ。私に聞いた覚えはない。ぐらついたことといい、今日は疲れているのかしら・・・。
そう、結婚式を控えやることは山積みだった。招待客の選定、招待状の作成、ドレスの仕立て、披露パーティーの装飾や料理などなどだ。仕事が忙しい婚約者があまり関われなかったので、私が概ね一人で、と言ってもお母様とお義母様が手伝ってくれていたけど、対処していかねばならなかった。
さすがにボーンと十回も時計が鳴れば気付いたはずだ。しかもこの屋敷はとても静かだ。足音が響くほど静まり返っているのだ。
どうかしてるわ、気付かないなんて。
「さぁ、行こう。コーデリア。」
セオドアはさっと手を差し出した。彼はいつも紳士的で優しい。私は少し微笑んでその手に自身の手を重ねた。私は彼の私より少しだけ高い体温が温かくて好きだった。そう、温かくて・・・。
「あらっ、手が冷たいわ。調子が悪いの?」
「そう?いつも通りだけど・・・最近仕事が忙しかったから疲れているのかな。」
「あまり無理しないでね。」
「ありがとう。君はいつも優しいね。」
セオドアは優しく微笑んだ。あっ、いい笑顔。そう、彼が私を見つめる瞳はいつも優しい。そう?あれ、なんで、そう?
「こちらへどうぞ。」
セバスはいつの間にか一番手前の部屋のドアを開け、指をきっちり揃えた手で部屋の中を案内した。
「こちらは応接室になります。」
セバスの誘導で中に入ると、ゴブラン織りのソファセットを中心に壁際には暖炉が赤々と燃え、暖炉の上には一対の陶器の猫が置かれ、窓は庭に面しておりコスモスが風に揺れていた。今日はあいにくの天気でどんよりとした雲から落ちてくる雨に花たちも寒そうにしていた。
「いいね。ちょうどいい広さだ。ほら、暖炉の上に猫の置物があるよ。コーデリア、君は結婚したら猫を飼いたいと言っていたね。」
セオドアは楽しそうに猫の置物を見ていた。
私は結婚したら猫を・・・飼いたいと彼に言った?のね。あれ、言った?って何?疑問形?私ってば、彼に言った言葉を忘れているの?嘘?私、本当に疲れているのね。私は気を取り直して言った。
「・・・かわいい猫ね。」
「お茶をご用意しました。こちらへどうぞ。」
振り向くといつの間にかソファの前のローテーブルには二人分の紅茶とクッキーが用意されていた。
私は用意していることに全く気付かなかった。
セバスの横にはティポットの載ったワゴンが置かれていた。大きく開かれていたドアも閉められていた。セバスは洗礼された執事のようで、動作に無駄がなく、何事も静かに行えるようだ。いくら物思いにふけっていたとしても、ワゴンや食器の触れ合う音がすれば、お茶の用意をしてくれることくらい気付いたはずだ。そう、食器を置く音も、紅茶を注ぐ音も、ドアを閉める音にも私は気づかなかった。さすが老齢の執事だ。
「ありがとう。おいで、コーデリア。」
セオドアが短い距離にもかかわらずエスコートをして私をソファに座らせた。そしてセオドアは私の向かいに座った。紅茶も向かい合って座ることを想定しておかれていた。
「ふふっ。」
私は思わず声を上げて笑った。
「どうしたんだい?」
セオドアが不思議そうな顔をして聞いてきた。
「ふふっ、ごめんなさい。ただ、すごく新鮮で・・・。ほら、いつも私たちお隣に座っていたでしょう。小さい頃から、お兄様の隣は私の席って言って。だからこんな風にお向かいの席に座るのがすごく新鮮に思えたの。あなたの顔が良く見えるわ。」
「君は僕の顔を好いてくれてたね。」
「ええ、とても優しくて安心できるのですもの。」
「はは、そうかい?僕はいつも向かいの席に座って、大好きな君の顔をこっそり見ていたんだ。小さく口を開け、美味しそうにクッキーを食べるんだ。かわいい仕草に目が離せなかったんだ。」
「やだ。食べるところ見ていたの?大口を開けていたでしょう。恥ずかしいわ。」
「いや、上品にいつも食べていたよ。君の所作はいつも洗礼されていてきれいだったよ。」
「・・・ありがとう。」
あれは・・・そう、彼を一人の男性と意識し始めた頃大口開けて食べていたら、彼に笑われてしまったの。それから行儀作法の授業を頑張って、彼の隣に立っても恥ずかしくないようにって、彼に見合う淑女になるんだって。でも・・・彼は言ったわ。
『■■■の美味しそうに食べる姿が大好きだ。だから俺といる時に無理に上品に食べることなんてないんだよ。ほらこのマカロン少し大きめだけど、何口にも分けるより一口でいった方が美味しいと思うよ。』
そう言って彼はピンクのマカロンを自身の口に放り込んだ。そしてもう一つマカロンを摘まみ上げると私の口の前に差し出した。
『ね、■■■も食べてみて。美味しいよ。ほらっ。』
私は隣に座った彼の手からマカロンをぱくりと一口で頬張った。頬は頬張ったマカロンで膨らんでいた。
『はは、リスみたいだ。かわいい。』
彼の笑顔は眩しかった。
ズキンッ。
頭の奥に痛みを感じた。あぁ、本当に疲れがたまっているのね。帰ったらゆっくりお風呂に入ろう。
「ミルクと砂糖はここよ。」
私は二つの器をセオドアに寄せた。
「僕はいらないよ。君は砂糖を一つだったよね。」
そう言って私の紅茶に砂糖を一つ入れた。
そう、そうだった。彼は紅茶はストレートで飲むのだった?わ。私は砂糖を一つ?・・・だったかしら。紅茶を飲むと甘ったるさが口の中に広がり、顔を顰めてしまった。あれ?私は砂糖をいつも一つ入れるのよね。砂糖を一つ?いつも・・・砂糖を一つ・・・。
『もう、入れ過ぎ!そんなに砂糖もミルクも入れたら紅茶の味が分からなくなるじゃないの。』
『いいだろう。これが好きなんだ。甘党なんだよ、俺は。■■■は何も入れないよな。苦くないか?』
『ふふっ、◇◇◇◇ったらお子様舌なのね。私より二歳も年上なのに。』
『言ったなぁ。悪い子にはお仕置きが必要だな。今日はこれはお預けだ。』
そう言って隣に座る彼はケーキの載った皿を取り上げ、にやっと笑った。
そう、彼は砂糖もミルクもたくさん入れていた。あれ?たくさん入れていた彼は誰?この記憶の彼は誰?記憶の中で私と親し気に話す彼の顔は黒いペンキのようなもので塗り潰され、誰だか分からない。そもそもこの記憶がなぜ呼び起こされたのか分からない。確かに私がいて、隣に親しい仲の誰かがいる。誰だっけ?
「そろそろ他の部屋も見て見ようか。」
セオドアは私の横に立ち、手を差し出した。
あれっ、いつの間に彼は立ち上がったのかしら。彼の座っていたところを見ると、空になったティカップと数枚のクッキーが残った皿が置いてあった。私は慌ててティカップを置いた。ガチャリっ。思った以上に食器の当たる音が室内に響いた。
「ごめんなさい。はしたなかったわ。」
「大丈夫だよ。気にしないで。」
セオドアの手に私の手を乗せた。彼の手はまだ冷たかった。お茶を飲んだくらいでは温まらなかったようだ。
彼のエスコートで廊下を進んだ。
それにしても静かな屋敷だ。私たち三人しかいないかのようだ。私の靴音がコツコツと響いた。
「本当に静かなお屋敷ですね。他の使用人の人たちは居ないのでしょうか?」
私は思い切ってセバスに尋ねた。
「おりますよ。キッチンに料理人が2名、メイドが同じく二名おります。コーデリア様が嫁がれましたら 侍女を数名新規で雇う予定です。」
セバスは細かく説明してくれた。
「そうなんですね。あまりに静かで私たち三人だけのように思えたもので聞いてしまいました。」
「皆、新しいご主人様と女主人になられるコーデリア様の来訪に緊張しているのでしょう。お二人のお邪魔にならないように、いつも以上に静かに行動しているのでしょう。」
「そんなに気を使わないで欲しいな。」
セオドアはそう言って微笑んだ。
コツコツコツ、私の靴音が廊下に響いた。私の靴音が響くように感じるのは静かすぎるからなのね。
応接室の窓から外を見たとき、雨が降っていたようだったが、雨音は今は聞こえない。雨足が強くなりそうだったが止んだようだ。
「こちらが食堂になります。」
セバスは扉をすっと開けた。中には長方形の机と椅子があり、壁には風景画が掛けられていた。窓の外にはリンドウが風に揺れていた。そして雨は先程より強くなったようで窓に強く当たっているようだった。
「あらっ、また雨が降ってきたのね。」
叩きつけるように見える激しい雨に私はため息をついた。
「今日は来た時からずっと雨だね。」
セオドアも顔を顰めた。
そう、私たちは馬車でこの屋敷にやってきた。この屋敷は王都のはずれにあり、中心部からは馬車で20分ほどかかる。屋敷に近づくにつれ家は減っていき、なだらかな野原が広がっていた。夏を前に少しの入道雲を抱えた青空のもと、野原には百合や昼顔が咲いていた。時折、土手の穴からのウサギが顔を出した。
『ねぇ、ウサギよ。かわいい。』
私は夢中になってウサギを目で追った。彼はそんな私を見て楽しそうに笑って言った。
『ウサギを見て喜ぶなんて、■■■はいつまでもかわいいな。』
ズキンっ。
また頭の奥に痛みが走った。
あぁ、本当に疲れてるのね。あんなにここまで来るまで何でもなかったのに。まるでピクニックに向かう子供の様にはしゃいでいたのに。そう、青空の下、しばしの馬車旅を楽しんでいたのに。そう青空の下・・・。青空?
ズキンっ。
また頭の奥が痛んだ。
「それでは次はお二階をご案内いたします。こちらへどうぞ。」
いつの間にか扉は開かれ、セバスは廊下に出ていた。
あれ、いつの間にドアを開けたのだろう。重厚なドアは開け閉めにそれなりの音がするはずなのに、気が付かなかった。今日はこのようなことが多い。ぼんやり物思いにふけってしまうことが多いからかな・・・。うーん、疲れって五感が鈍るのかもしれない。
セオドアは優雅に微笑みながらエスコートをしてくれた。ひんやりと冷たい手で。彼もかなり無理をしているのかもしれない。
そう、婚約者であり幼馴染の彼はよく私をからかうし、小さい子供の様に扱うこともあるが、私に対して基本紳士的でとても優しい。優しい上に私を喜ばせようとしてくれる。そして、そのために時々無理をする。そう、あの時も・・・。
三年前だっただろうか。私の好きな恋愛小説『明日は虹の向こう』が舞台化した。彼は私がその小説のファンだと知って公演のチケットを手に入れてくれた。しかもボックス席のペアシート。すごく嬉しくなってしまって思わず抱きついてしまったっけ。当日、二人で見に行き、終わる頃には彼は背もたれに身を預け、苦しそうに息をしていた。慌てて額に手を当てると、ものすごく熱くてびっくりしたのよね。
でも彼はこう言ったのよ。
『■■■が楽しみにしてたから、どうしても俺が連れて行きたかったんだ。』
荒い息を吐きながら、微笑んだ彼に感動したの。ああ、ただただ私に優しい◇◇◇◇。大好きな婚約者。舞台も感動したけど、彼の想いにより心動かされたの。
「ふふっ。」
「何か楽しそうだね。」
笑う声が思わず口から洩れた私に、セオドアは優しい目を向け聞いてきた。
「ふふ、三年前に一緒に見に行った舞台のことを思い出していたの。あなたったら熱があるのに無理して舞台を見に連れて言ってくれたのよね。私嬉しかったなぁって。」
「ああ、前に行った舞台のことだね。あの古典の名作『夏の夢』はとても良かったね。」
「ええ、素敵だったわ。『あし・・・夏の夢』だったわね。」
「そうだねコーデリアはあの古典をとても気に入っていたから、叔父上にチケットを融通していただいたんだ。前から五番目の席で、少し見上げなければならなかったけど、充分楽しめたね。」
「ふふ、あなたもあの話好きだものね。」
「古典だけど今に通じるところが気に入っているんだ。また他の舞台も見に行こう。」
「嬉しいわ。楽しみね。」
私がにっこりと彼に微笑むと、彼も微笑みを返してくれた。
そう、私は彼の笑顔が大好き。彼が笑うと私も温かい気持ちになる。それに彼は笑うと左頬にえくぼができて、とてもチャーミングなの。彼は年上だけど、えくぼ付きの笑顔は時々年下の男の子のように見えて、とてもかわいいのよね。私のお気に入り。えっ、えくぼがない。あの小さい頃から見慣れたかわいいえくぼが消えている?あれ、えくぼって消えるんだっけ。
「ねぇ、えくぼはどこ?」
「えくぼ?ああ、それならここにあるって君が教えてくれたよね。」
セオドアはそう言うと右の頬を指さした。セオドアがにっこり笑うと、右頬にしっかりとえくぼが現れていた。何だえくぼがあるじゃない。えくぼがあるって、彼を一層魅力的にしていると思う。
「ふふ、ごめんなさい。ちゃんとえくぼがあったわ。」
「君がここよって、つついてくれて、僕は初めて僕にえくぼができると知ったんだ。」
私が彼のえくぼをつつくと、セオドアは嬉しそうに目を細めた。
階段を上がり右奥の部屋へとセバスは二人を案内した。
「こちらが奥様のお部屋になります。」
示された扉は重厚な作りで取っ手を掴み開けると、ガチャリという金属音の後、ギギギィという蝶番の金具がこすれる音が響いた。あまりに大きな音で響いたので、私は肩をびくっと上げた。
私たちが部屋に入ると猫足の家具たちが目に入った。壁にはモスグリーンの縦縞に細かい花柄がランダムに描かれたクラシカルな壁紙が張られていた。全体に落ち着いた雰囲気の部屋だった。
セバスはいつの間にかクローゼットの扉を開け、中のドレスを私に見せた。ドレスは10着ほどあり、モスグリーン、紺、グレーといった色味のものが中心で、全て長袖で首元まで隠すデザインになっており、スカート丈も長めに見えた。
「ご主人様の指示でコーデリア様のドレスを用意しました。」
「ああ、ありがとう。コーデリアにドレスをプレゼントしたかったんだ。受け取ってもらえるね。君の好きな色を揃えたよ。気に入ってもらえるといいんだけど。」
セオドアはクローゼットのドレスを楽しげに見た。そして私にも見るよう、促した。
「まぁ、こんなにたくさん。ありがとう。」
私はモスグリーンのドレスを一枚手に取った。ドレスは首元が詰まったデザインで白いフリルの上に黒い細いリボンがつけられていた。そして袖は全体的にほっそりとしており袖口に白いフリルがあった。背中側に小さいボタンが一列に並び、一人で着るのが大変そうだった。スカートはAラインになっており裾が広がっていた。今の流行とは違ってクラシカルなデザインだった。体に当ててみると、スカートが引きずるほど長かった。
丈を詰めないと着られないわ。それに、デザインも色も私の好みとは違うのよね。私はどちらかと言えばパステル系の淡い色味が好きだし、普段からそれらの色のドレスを身に着けている。またスカートもくるぶしが見える動きやすい丈の物が今のトレンドだ。私が今日来ているドレスも水色の半そでのワンピースで、くるぶしもしっかり見えている。胸元も鎖骨が見えるデザインだ。このワンピースは以前彼がべた褒めしてくれたものだ。私のお気に入りだ。
「ねぇ、フィリップ。水色のドレスはないの?ほら、いつも言ってくれたでしょう。『君に似合うのは水色のドレスだね。僕の瞳の色が一番似合っていて嬉しいよ』って言ってくれたわよね。」
私がくるっと振り向くと、彼はいつのまにか私のすぐ後ろに立っていた。
あれ、いつの間に真後ろに来たのかしら。足音がしなかったから気が付かなかったわ。足音・・・。彼の足元を見ると編み上げのロングブーツを履いていて、靴底も厚く堅そうだった。そして部屋の中は一部毛足の短い絨毯がひかれていたが、多くは床板が見えていた。床板の上を歩かずに入り口からこのクローゼットまで辿り着くのは難しかった。彼の靴を見る限り、音もなく近づくのは不可能だ。そう、足音・・・廊下で響いていたのは私のコツコツという靴音だけだったわ。セバスも革靴だったはず。なぜ私の靴音だけ響いていたのかしら。
ズキンっ。
頭の奥が痛む。
そう言えばセバスはどこかしら?きょろきょろと辺りを見渡すとセバスは扉の前で控えていた。そして無機質な目でじっとこちらを見ていた。
ゾクッと悪寒が走った。こ、怖いっ、堪えきれずに目を逸らすと、何かが引っかかった。あれ、いつの間に扉が閉められたのだろう。この部屋も他の部屋同様重厚な扉で、私が開けたとき大きな金属音が響いた。あまりに大きな音だったのでしっかり覚えている。扉は開けたままにしていたはずだ。いくらセバスがいるからといって、いくら結婚間近だからといって、密室に年頃の男女が二人になるのは何かと良くない。彼と部屋で過ごす時は扉を開けておくのが習慣になっていた。もし誰かが閉めたのなら、あの金属音が再び響いたはずだ。
ズキンっ。
あれっ、何かがおかしい。
ズキンっ。
耐え切れずに額に手を当て壁に寄りかかった。
「どうしたんだい、コーデリア?」
頭の上からセオドアの心配げな声が聞こえた。
そう、私はコーデリア・・・コーデリアは私・・・コーデリア?誰?コーデリア・・・。どこかで聞いた・・・聞いた?私の名前のはず?なのに・・・はず?
ズキンっ。
顔を上げると窓を通して激しく打ち付ける雨が見えた。雨・・・さっき見た時より強くなったのね。あれっ、あんなに激しく振っているのが見えるのに、あんなに窓に打ち付けてる様子が見えるのに、雨音が聞こえない。雨の日は小雨ならともかく、普通に降っていれば屋敷のどこにいても大なり小なり雨音が聞こえるものだ。これはどこの屋敷でも変わらない事だろう。今、目に入っている激しい雨ならば何も聞こえないなんておかしい。そういえば応接室でも食堂でも、廊下でも・・・雨音を聞いていない。そう、雨音が聞こえないから止んだと思ったのだ。
ズキンっ。
また頭の奥に痛みが走る。私はその痛みを振り払うように頭を左右に振った。ふと、壁際のチェストの上に生けられたピンクのバラが目に入った。
「きれい。ピンクのバラを生けてくれたのね。あなたが飾るように手配してくれたのかしら?だって、あなたはいつもピンクのバラを贈ってくれたわ。『君の瞳の色で君の名前の花だよ。ローザ』って。」
そう言って私は彼、セオドアを見た。セオドアは無機質な目で私を見ていた。
「どうしたの?セオド・・・えっ。」
あっ、私は、そう私の名前はローザ。そうよ私はローザ。・・・コーデリアって誰?なぜコーデリアだと、私は思っていたんだろう?彼は私をコーデリアと言った。それにこの名前は記憶のどこかにある名前だと思う。でも私はコーデリアじゃない。ローザだ。
そして彼はセオドア。私の婚約者・・・婚約者?違う!私の婚約者の名はフィリップ。そうフィリップだ。優しい水色の瞳の愛しい人はフィリップ。
ズキンっ。
痛みと共に心臓がバクバクと激しく脈打つ。私は胸に手を当て、顔を上げた。目の前にセオドアの無機質な顔があった。血が通っていないかのように青白いその顔が不気味に見えた。
何かがおかしい。
彼は私をコーデリアと呼んだ。私もそう思った。
彼は婚約者でセオドア。私の記憶にもそうあった。
気付かなかった振り子時計の鐘の音。こんなに静かなのに。
ホールに飾られた花も窓から見えた花は秋に咲く花。今は初夏、私は半袖のドレスを着ている。
猫を飼いたいと言ったセオドアの婚約者。私にとって猫は三歳の頃ひっかかれてから恐怖の対象でしかない。飼いたい訳がない。
紅茶に砂糖を一つ入れるセオドアの婚約者。私はいつもストレート。
ストレートで紅茶を飲むセオドア。私のあの人は甘党。
向かいに座るセオドア。いつも向かいから私を見ていたと言っていた。彼の隣が私の指定席なのに。
廊下を物音を立てずに歩くセオドアとセバス。私の靴音だけ響いていた。
音もたてずに扉を開閉するセバス。お茶の用意も音は全く立てていなかった。
セオドアと彼の婚約者とが一緒に見た舞台は古典の名作。私が婚約者と二人で見たのは『明日は虹の向こう』。この本は現代作家の書いたものだ。
右頬にできるえくぼ。いつも右隣に座る彼の左頬にえくぼはできていた。
激しく振っているように見える雨。まったく雨音がしない。それに来たときは青空だった。
古いデザインで重めの色の丈の長いドレス。全く私の好みと合わないし、サイズもあっていない。
ズキンっ。
ドクッドクッ。
「あなたは誰?」
思わず口から零れ落ちた言葉だった。
そう、私の愛する婚約者は水色の瞳で左頬にえくぼのできるかわいい人、フィリップだ。そう、フィリップだ。
「私をコーデリアと呼ぶあなたは何者なの?私の名前はローザよ。コーデリアではないわ。そして私の婚約者はフィリップよ。今日はフィリップと結婚後に住む家を見に来たの。フィリップはどこ?ねぇ、彼はどこ?」
私は必死に涙を堪え、セオドア達に尋ねた。
二人は無機質な目の青白い顔で私を見ていた。
「ねぇ、黙っていないで何とか言ってちょうだい!ねぇ、何で私をコーデリアって呼んだの?何で私を婚約者だと言ったの?ねぇ、何で?ねぇ、フィリップはどこ?ねぇ、ねぇったら・・・フィリップはどこなのぉぉぉぉ!」
最後はヒステリックに叫んでしまっていた。はぁはぁと荒く息を吐く音が室内に響いた。ぐっとスカートの脇で手を握りしめて顔を上げると、ぐらっと部屋全体が揺れた。
「きゃぁっ。」
私は体のバランスを崩し、やみくもに手を動かし、近くにあったドレスを掴んだ。ゆれはいっそうおおきくなり、握ったドレスからぶちっと音がしたかと思うと手が離れ、倒れるしか選択肢がなくなった。私はぎゅっと強く目を瞑った。
「君はコーデリアではなかったね。」
セオドアの感情のない声が何故かはっきりと頭の中で響いた。
「お騒がせいたしました。」
セオドアの声に続きセバスの声も頭に響いた。
倒れこんだ後、揺れが収まった。恐る恐る目を開けると、私の愛した水色の瞳があった。フィリップは心配げに瞳を揺らしていた。
「大丈夫かい?」
「・・・フィリップ・・・。」
私がフィリップに向かって手を伸ばすと、彼は両手で私の手を包んでくれた。温かい。フィリップの手はやっぱり温かい。
「気が付いてよかった、ローザ。とても心配したんだよ。」
「私・・・ここは・・・。」
「一緒に家を見に来たのは覚えているかい?この家の門をくぐった後、君は急にいなくなったんだ。すぐに周囲を探していたらここに君が倒れていたんだ。何があったんだい?」
周りを見渡すと、ここは屋敷の庭の東屋のようだった。青空の下、雑草と共に真っ白な百合が風に揺れていた。
フィリップの手を借りて体を起こした。私はぎゅっと握られたままの手に気付き、手をを開くいた。手の中にはモスグリーンの布で作られた小さなクルミボタンが一つあった。
「えっ、嘘でしょう・・・。」
さぁっと血の気が引きクルミボタンを投げ出したいのに手が上手く動かせなかった。
「大丈夫かい。それにしても君が見つかって良かった。屋敷の呼び鈴を鳴らしても何の反応はないし、君はここで倒れているし、意識が戻らないようなら王都に戻って医者に見せに行こうと思っていたんだ。いったい何があったんだい?」
「今,何時かしら・・・。」
彼はポケットから懐中時計を出した。
「今は10時5分だよ。君が倒れていたのはおそらく10ッ分くらいかな。」
青ざめたまま体がガタガタと震えた。そして大粒の涙が次から次へと零れた。
「ど、どうした、ローザ。本当に大丈夫か?」
おろおろとフィリップは手を動かした後、優しく私を抱き締め背中をポンポンと叩いた。
「よしよし、俺がいる。大丈夫だ。落ち着け。」
「私はローザよね、フィリップ。」
「ははっ、君は間違いなく俺のローザだ。」
「ええ、ええ、私はローザ。あなたはフィリップ。」
「どうしたんだい?俺は君のフィリップだよ。忘れたのかい?」
「いいえ、いいえ、忘れたりしないわ。私のフィリップ。私の愛しい婚約者。」
「ああ、そうだ。」
フィリップはぎゅうと強く抱きしめた。
「愛しているよ、ローザ。」
「私も愛しているわ、フィリップ。」
少しの間フィリップの腕の中で彼の温かさをかみしめた後、ぽつりぽつりと自分に起きたことを話し始めた。話し終えた後、私は彼の胸に顔を摺り寄せた。彼は温かい。
「はは、ローザは悪い夢でも見たみたいだな。」
「夢ではないわ。私も信じられないのだけど・・・これがあるもの。」
私は手の中のボタンを見せた。
「ボタン・・・?」
「私、ぐらって足元が揺れたときにその場にあったドレスを咄嗟に掴んだの。これそのドレスのボタン、よ。」
フィリップは目を大きく見開き、大きく息を吐いた。
「屋敷に行ってみようか。歩ける?」
「ええ、大丈夫よ。」
フィリップに手を引かれて屋敷の入り口に行った。呼び鈴を鳴らすとバタバタと足音が聞こえて扉がギギギギィと開いた。そこには30過ぎかと思われる男性が立っていた。
「お待ちしておりました。フィリップ様、ローザ様。この屋敷を管理しておりますカリオと申します。本日は私がご案内させていただきます。」
カリオは胸に手を当て一礼した。
二人は玄関ホールに入った。ローザが玄関ホールを見渡すと、先程セオドアとセバスといた玄関ホールと同じだった。中央に階段、床は大理石、壁際に振り子時計・・・振り子時計は動いていなかった。
「あの時計は古いものなのですか?」
「あれですか?この屋敷が作られた当初からあると聞いております。今は動いておりませんが、ねじを巻けば動くはずです。」
「そうですか・・・。」
カリオは体の向きを変え言った。
「まずはこちらへどうぞ。」
「あ、あの、先に私の部屋になる予定の部屋を見せていただけますか?」
「えっ、はい。こちらです。」
カリオは一瞬困惑した顔をしたが、すぐ外向きの笑みを浮かべ階段の方に向かった。
私はフィリップの手を強く握った。
「大丈夫かい?」
フィリップは心配そうに私の顔を見た。
「ええ、フィリップが一緒だから大丈夫。」
私は無理やり笑って見せた。
二階の私の部屋になる予定の部屋は廊下の一番奥にあった。セバスが案内してくれた部屋と同じだった。部屋の扉の脇には何着もの古びたドレスが積み上げられていた。
「これはどうしたのですか?」
私はフィリップの手をぎゅっと握った。
「申し訳ございません。お見苦しいですよね。この屋敷は長いことどなたも住んでおりませんでしたので、定期的に掃除をする程度でした。今日はお二人がいらっしゃるということで早めに来て各部屋をチェックしておりました。この部屋を確認しましたらクローゼットの奥にこちらのドレスが残されておりまして、処分のため廊下に出しましたところ呼び鈴が鳴り、このままにしてしまったのです。申し訳ありません。ローザ様がお使いになるまでにはきれいにさせて頂きます。」
「どういったものなのですか?」
「何代か前の本家筋の方がこちらの屋敷をご結婚後に使う予定だったのですが、婚約者様にご不幸があり、使われなくなったと聞いております。おそらく、その時に婚約者様の為に用意されたものではないかと。ほとんどの物が片付けられたのですが、クローゼットの奥で見落とされたようです。」
「見ても構いませんか?」
「処分するものです。構いませんよ。」
私は手に握りしめていたボタンをフィリップに見せ、彼と一緒にドレスの元に行った。私はモスグリーンのドレスを持ち上げ、背中側を見た。一列に並んだ共布でできたクルミボタンのうち上から二番目のボタンがなく、引きちぎられたかのように糸が出ていた。
「にわかに信じられない話だったけど、君の話は本当にあったことのようだ。」
フィリップは目を少し見開きボタンとドレスを交互に見、口元を押さえた。
私はさぁっと血の気が引き、力が抜け立っていられず、その場に座り込んだ。
「大丈夫かい?」
フィリップは慌てて私の体を起こした。
「ええ、大丈夫・・・。」
私が声を振り絞ってそう言うと、フィリップの顔を見上げた。彼はさらに慌てて言った。
「顔が真っ青じゃないか!今日はもう帰ろう。カリオ、悪いが案内は後日改めてお願いできないだろうか。」
「はい、いつでもお申し付けください。すぐに馬車を手配いたします。」
カリオも私の顔を見るとすぐに一階へと去って行った。
私は屋敷を出たところでふっと意識が途切れた。
目を覚ますと自分の部屋のベットの上に居た。体を起こそうとするとすぐに肩に手が置かれ、再び寝かされていた。優しい安心する声が降る。
「今日はもうおやすみ、ローザ。あんなことがあったんだ。疲れただろう。」
ベットサイドには優しい目で私を見るフィリップがいた。倒れた私を心配して付き添ってくれていたようだ。
「うん、ありがとう。でもどうしてもお父様に確認したいことがあるの。」
「それならお義父上をここに連れてくるよ。待っていて。」
フィリップはさっと部屋を出た。しばらくして彼はお父様と部屋に入ってきた。
「もう、大丈夫なのかい?」
お父様にも心配をおかけしたらしい。
「ええ、ご心配をおかけいたしました。」
「無理をしてはいけないよ。」
「はい。ところでお父様にお聞きしたいことがあるのです。子供の頃に廊下の肖像画について説明していただいたことがありました。その時お父様のひいおじい様の妹様について聞いたかと思います。若くして儚くなったとか。」
「ああ、コーデリア様のことかい?」
「ええ、コーデリア様です。どうして若くしてお亡くなりになったのでしょうか。」
「んー、私も詳しくは知らないのだけど、何でも大雨の日に新居となる屋敷に向かっている途中、馬車の事故で亡くなったと聞いているよ。結婚間近で新居には婚約者が待っていたらしい。とても仲睦まじい二人だったそうだ。コーデリア様がなくなった後、お相手の方は誰も娶らず若くして亡くなったそうだ。おじい様が寂しげに話していたよ。コーデリア様がどうかしたのかい?」
「コーデリア様の婚約者の方の名前は分かりますか?」
「ええっと、おばあ様がおっしゃっていたな。私の弟と同じ名前よ、って。そう、セオドア様だ。セオドア様は生涯コーデリア様だけを愛しておられた悲しい方よって。何でそんなことを聞くんだい?」
私は今日の出来事をお父様にも話した。お父様は初めは困惑し、訝し気にしていたが、ボタンのことを言うと信じてくれたようだ。
「その家には住むのかい?」
お父様は苦笑いを浮かべた。
「俺はともかく、ローザは気が進まないでしょう。他の家にしようと思っています。その方がいいよな、ローザ。」
フィリップは私の頭を撫でた。
「ええ、せっかくいいお屋敷だったのだけど・・・今日のことを思い出すと怖くて。他の家がいいわ。ごめんなさい。我が儘言って。」
「いいんだ。俺は幸せに笑う君のそばに居たいんだ。怖い思いなんてさせたくないよ。」
「・・・ありがとう。私はフィリップのお嫁さんになれて幸せよ。」
「俺もローザを嫁にできるなんて夢みたいだ。」
私はフィリップと微笑み、見つめ合った。
お父様は苦笑いを浮かべて言った。
「仲が良くて何よりだ。安心しなさい。私も家探しを手伝おう。」
「ありがとうございます。」
「ありがとう、お父様。」
「さぁ、これで休んでくれるね、ローザ。君が眠るまでここに居るから、安心して眠るといい。」
「ええ、ありがとう、フィリップ。おやすみなさい。」
「お休み、いい夢を。」
フィリップは優しく微笑んで額にキスをしてくれた。
こうして私の長い一日が終わった。




