八年前に私を捨てた養父が「育てた恩を返せ」と看取り係に呼び戻してきましたが、誓約書には署名いたしません
封筒の端をつまむたび、指が止まった。
三日前に届いた手紙は、薬草茶の缶と帳場の鍵のあいだに置いてある。朝は鍵を取るついでに裏返し、昼には茶葉を量りながら表へ戻した。夜になれば屑籠の上まで運ぶのに、手を離す前にまた帳場へ持ち帰った。
封筒には、折り畳まれた手紙と一枚の誓約書が入っていた。手紙の文字は八年前より細くなっていたが、書き方は変わらない。
『身体の自由が利かなくなった。育てた恩を返せ』
その下には、食事の支度、薬の管理、身の回りの介助を引き受けるよう記されていた。誓約書の末尾には、私の名を書くための空欄がある。
八年前、荷物をまとめる私の背中へ投げられた言葉は、もっと短かった。
『金食いを置いておく余裕はない』
折り目に爪を入れ、誓約書を封筒へ戻した。屑籠は帳場のすぐ下にある。腕を下ろせば済む距離だった。
「エルナ、乾燥棚の月桂樹、二段目まで終わったよ」
奥から職員の声が飛んできた。私は封筒を茶の缶の横へ置き、帳簿を開いた。
「ありがとう。三段目は私がやります。その前に朝便の荷を見ます」
「喉薬の瓶が二本割れてた」
「破片には触らないで。今行きます」
鍵を腰へ下げる。封筒はその日も屑籠へ入らなかった。
◇
四日目の朝、私は誓約書を作業台に広げた。署名欄へ落ちた薬草の粉を指先で払い、紙を二つに折る。
旅支度は長くかからなかった。着替えを一組、手拭いを二枚、細口の水筒。それだけを布鞄へ入れたあと、私は調剤棚の前で膝を曲げた。
柳皮を煮詰めた軟膏が、小さな陶器の壺に残っている。布へ薄く延ばし、乾かないよう油紙で包めば、腫れた膝に使える。手紙には湿布を持ってこいとは一言も書かれていなかった。
私は油紙を二枚重ね、麻紐をかけた。結び目を作り直し、布鞄の底へ入れる。
「持っていくのか」
いつからいたのか、院長先生が調剤棚の向こうに立っていた。私の手元を一度見ただけで、手紙については尋ねなかった。
「一度だけ、顔を見てきます」
「そうか」
院長先生は壁際の棚から、革紐のついた薬籠を下ろした。角は擦れて丸くなり、蓋には乾燥薬草の粉が染み込んでいる。
「行っておいで。ただし、うちの薬籠を持っていくこと」
「これは院で使うものです」
「だから持っていけと言っている」
院長先生は薬籠の中を開け、包帯、煎じ袋、軟膏壺を指で確かめた。どれも私が補充し、私が使ってきたものだった。
八年前、この籠は空だった。養家を出る朝、納屋の隅に残っていたものを、着替えを運ぶために拾った。底には枯れた茎が一本貼りつき、蓋の留め具は外れていた。
留め具を直したのは院長先生だった。最初の包帯を入れたのは先輩の薬草師で、初めて自分で調合した軟膏を収めた日の夜には、革紐が掌へ食い込むほど何度も持ち上げた。
「留守の往診は割り振っておく」
「院長先生、期間はまだ」
「今度だけ、あの家へ帰るんだな。三日後の夕刻には馬車を出す」
私の前掛けには、朝に量った薬草の匂いが残っていた。紐をほどんで畳み、いつもの引き出しへしまう。
「帰ります」
院長先生は返事の代わりに薬籠を私の足元へ置いた。
◇
養家の玄関扉は、少し持ち上げなければ開かなかった。八年前にも同じ場所で木が擦れ、冬になると甲高い音を立てていた。
扉を押し込むと、煮過ぎた豆と古い油の匂いがした。廊下の壁に掛かる燭台も、台所の欠けた水差しも位置を変えていない。変わったのは、私が毎朝磨いていた床に靴跡がいくつも残っていることくらいだった。
「エルナか」
居間の長椅子で、お父様が片脚を台へ載せていた。髪は白くなり、膝には厚い布が巻かれている。
私は薬籠を下ろして頭を下げた。お父様は私の顔から肩、布鞄へと視線を動かした。
「痩せたな。飯は作れるのか」
「台所を見てからになります」
「粥でいい。昼からまともに食っていない」
窓辺に立っていたロイドが、外套の襟を立てた。足元には旅行鞄ではなく、持ち手の固い仕事鞄が置かれている。
「来てくれて助かった。俺は明日の朝が早いんだ」
「今夜は泊まらないのですか」
「ここからでは職場へ遠い。父さんの薬は卓の上だ。食事は柔らかいものにして、夜中に呼ばれたらすぐ来られるようにしてくれ」
「私の部屋は使えますか」
「部屋?」
ロイドは眉を寄せ、廊下の奥を見た。そこには私の寝床があったはずだ。
扉を開けると、肩の高さまで木箱が積まれていた。割れた椅子、冬用の敷物、空の酒瓶が押し込まれ、壁際に残った寝台には鍋が三つ伏せてある。
「そこは物置にした。客間で寝ればいい」
「客間の寝具は?」
「棚にあるだろう。昔から家のことは分かっているじゃないか」
ロイドは仕事鞄を持ち上げた。私の返事を待たず、玄関へ向かう。
「明日の夕方には戻りますか」
「都合がつけばな。必要なものは家にある。父さんを頼んだ」
玄関扉が床を擦り、靴音が遠ざかった。お父様は長椅子から動かず、台所のほうへ顎を向けた。
「先に飯にしてくれ。腹が減った」
薬籠から油紙の包みを出し、私はお父様の足元へ腰を下ろした。巻かれていた布はずれ、膝の外側だけを圧迫している。
「少し冷えます」
「早くしろ。夕方から疼いている」
布を解く。桶の水で皮膚を拭き、腫れの具合を指の腹で確かめた。熱を持つ場所を避けながら柳皮の湿布を当て、細い布で二度巻く。
「締めすぎではないか」
指が一本入る隙間を見せると、お父様は鼻を鳴らした。巻き終えた膝を一度曲げ、すぐ台の上へ戻す。
「明日はもう少し早く替えろ」
「朝、皮膚の様子を見ます」
「朝食の前にな」
礼より先に食事の時間が決まった。
次に、煤のついた薬缶を洗った。薬籠から細かく刻んだ西洋薄荷と乾燥させた林檎の皮を出し、布袋へ詰める。湯気が立つまで火にかけ、苦みが強くならないところで袋を引き上げた。
「薬か」
「眠る前に飲める薬草茶です。今お使いの薬とは重なりません」
「甘くしろ」
蜂蜜の壺は底に固まった分しか残っていなかった。湯で溶かして杯へ落とすと、お父様は一口飲み、卓へ置いた。
「ぬるい」
「熱すぎると喉を傷めます」
「昔はもっと熱く出した」
八年前の私は、熱い杯を持てないお父様のために、冷めるまで台所で立っていた。卓へ運ぶころには、それが最初から望まれた温度だったことになっていた。
私は杯を火のそばへ戻さず、粥の鍋を出した。米を洗い、水を多めに張る。塩漬けの葉を刻んで水にさらし、煮崩れたところへ少しだけ混ぜた。
粥ができるまでに、客間の棚から寝具を出した。布団には湿った匂いがついていたが、日が落ちていて干せない。窓辺の椅子へ広げ、私はまた台所へ戻った。
お父様は匙を口へ運び、二口目で眉を上げた。
「肉はないのか」
「今夜は胃に残らないものにします」
「明日は肉を煮ろ。昼は卵もつけてくれ」
「卵は見当たりませんでした」
「ロイドに買わせればいい」
そのロイドは、翌朝になっても来なかった。
◇
二日目の昼過ぎ、ロイドは紙包みを一つ抱えて現れた。中身は卵ではなく、乾いたパンだった。
「職場の近くで買った。これで足りるだろう」
「お父様は柔らかいものしか召し上がれません」
「浸せば食べられる。俺も忙しいんだ」
私は紙包みを台所へ置いた。ロイドは外套も脱がず、お父様の長椅子の前へ進む。
「昨夜はどうだった?」
「三度起こされた。湿布は朝に替えました」
「なら問題ないな。薬草師がいると助かる」
「今夜は、あなたがこちらに?」
「俺は仕事があると言っただろう。家族なんだから、そのくらいやってくれ」
「私にも仕事があります」
「しばらく休めばいい。王都の薬草院には他にも人がいるんだろう?」
ロイドは早口のまま、卓の引き出しを開けた。中から昨日のものとは別の紙を出し、私の前へ滑らせる。
「掃除は週に二度でいい。洗濯は溜めると父さんが困る。買い物は午前中に済ませて、午後は家にいてくれ。夜は呼ばれたら起きる。それから薬代の管理も頼む」
「あなたは何をなさるのですか」
「俺は外で働いている。金のことは相談に乗る」
「こちらに泊まる日は?」
「今は俺の話じゃない」
お父様は長椅子に座り、薬草茶の杯を指で叩いた。空になった杯を持ち上げる代わりに、卓の端まで押してくる。
「家のことを知っている者がやるのが早い。ロイドは男だからな」
私は杯を受け取り、台所へ運んだ。背中で紙の擦れる音がした。
「これが介抱誓約書だ。手紙に入れたものと同じだが、こちらは証人欄も埋めてある」
戻ると、ロイドが紙の向きを私へ合わせていた。お父様の名とロイドの名はすでに書かれ、最後の署名欄だけが空いている。
「今日中に書いてくれ。俺も何度も来られない」
私は椅子へ座った。誓約書の端が卓の染みに触れ、薄茶色に変わっていく。
「八年前のことを、お父様は覚えておいでですか」
お父様は杯が戻っていない卓を見た。次に私の手元を見て、膝の布を指で押す。
「古い話をして何になる」
「そうですか」
「育てた恩は老後に返すものだ。お前には食わせてやったし、寝床も与えた」
廊下の奥には、鍋を載せた寝台がある。私の着替えは客間の湿った椅子に畳んで置いたままだった。
ロイドが卓上のペンを取り、蓋を外した。
「父さんもこう言っている。署名すれば済む話だ」
ペン先から落ちた墨が、署名欄の横に小さな点を作った。私は紙を押さえ、染みが広がる前に布で吸い取る。
「明日の朝は卵を焼け」
お父様が言った。
「粥ばかりでは力が出ん。昼は肉を柔らかく煮ろ。それと、湿布は冷たすぎないようにしろ」
私は一度だけ、お父様の顔を見た。
窓の外で荷車が石を踏み、戸棚の皿が触れ合った。お父様は膝をさすりながら、空いた杯の来る場所を卓上に作っている。
「聞いているのか」
「はい」
「なら書け。ロイドも待っている」
ペンが私の前へ置かれた。
◇
三日目の夕刻、私は自分で替える最後の湿布を巻いた。
腫れは昨日より引いていた。布の端を指で押さえ、緩まない位置で結ぶ。残った湿布二枚を油紙ごと卓へ置いた。
「明日の分です。皮膚が赤くなったら外してください」
「お前が替えればいい」
私は薬籠の蓋を開け、使った軟膏壺を収めた。包帯の残りを巻き直し、蓋を閉じる。
卓の上には介抱誓約書が置かれていた。ロイドが昼に持ってきた新しいペンも、その横に揃えてある。
「出かけるのか」
「王都へ戻ります」
「何を言っている。署名はどうした」
私は誓約書を手に取った。二つに折らず、署名欄が見える向きのまま、お父様の前へ戻す。
「署名いたしません」
ロイドが椅子を引いた。脚が床板を削り、乾いた音を立てる。
「待て。では誰が残るんだ」
今まで一度も出なかった主語だった。
「お前が来たから、俺は仕事へ戻れると思っていたんだぞ。父さんを一人にするつもりか」
「湿布は二枚あります。薬の飲み方は紙に書きました」
「そういう話じゃない。毎日の食事や洗濯はどうする」
ロイドの声が大きくなるたび、お父様の指が誓約書へ近づいた。署名欄を見て、私を見上げる。いつも次の用事を待っていた顔が、そこで止まった。
「エルナ」
お父様の口が開いた。
玄関扉が床を擦った。廊下へ夕方の光が入り、革靴の音が二つ近づいてくる。
「薬籠を取りに来た」
セドリック院長が居間の入口に立っていた。旅埃のついた外套を着たまま、私の足元の薬籠を見る。
ロイドが院長先生と私を交互に見た。
「あなたは薬草院の者か。だったら話してくれ。エルナは家族を置いて帰ると言っている」
「そうか」
「そうか、ではない。そちらには他の薬草師がいるだろう」
院長先生は答えず、私へ片手を差し出した。理由も、誓約書の中身も尋ねなかった。
私は薬籠を持ち上げた。革紐が八年分の形で掌に収まる。
空いたほうの手を、院長先生の手へ重ねた。
「帰ります」
院長先生の指が一度だけ閉じた。玄関へ向き直ると、私の歩幅に合わせて廊下を進む。
背後で、ロイドが私の名を呼んだ。お父様の声は聞こえなかった。
玄関扉はやはり途中で床につかえた。院長先生が取っ手を持ち上げ、私は外へ出る。扉が閉じるまで、手を離さなかった。
◇
王都へ着いたころには、朝便の荷車が薬草院の裏口へ入っていた。院長先生が馬車を片づけているあいだに、私は薬籠を持って帳場へ回った。
「エルナ、乾燥棚の三段目、まだ残してある」
「今日やります」
「咳止めの注文が六件。帳面は右に置いたよ」
「先に瓶を確認します。朝便の荷札もください」
職員は頷き、束ねた荷札を私へ渡した。誰も三日間のことを尋ねず、誰も私の椅子へ荷物を積んでいなかった。
前掛けは、出発した朝と同じ引き出しに入っていた。腰へ巻くと、布についた月桂樹の匂いがまだ残っている。
薬籠を調剤棚へ運び、使った分を補充した。湿布を抜いた空きには、新しい包帯を二巻き入れる。軟膏壺の蓋を拭き、留め具をかけた。
「その籠、午後の往診で使うからな」
外套を脱いだ院長先生が、帳場の奥から言った。
「補充しました。包帯が残り少ないので、昼までに巻いておきます」
「先に飲め。冷める」
私の椅子の前に、薬草茶の杯が置かれていた。湯気は細くなっていたが、まだ指先を温めるだけの熱がある。
杯の横には朝便の帳簿、乾燥棚の鍵、使い慣れた秤が並んでいる。薬籠を戻す棚にも、八年前から少しずつ増えた道具のぶんだけ場所が空いていた。
私は自分の椅子へ座り、朝の薬草茶を飲んだ。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
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作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




