入浴剤
グリーンの入浴剤。
あなたと散歩する夢を見るための。
ブルーの入浴剤。
あなたと笑う夢を見るための。
兄が家を出た日に、あの人の携帯にメールをした。
不安定気味だから会ってくれないと今すぐ泣くよ、と送信すると、困惑したような返事が来た。それはそうだろう。わたしは彼とそんなに親しい訳じゃない。ただちょっと、顔を知っているだけのバイト仲間だ。コンビニのバイトは時間交代で、夜勤の彼と早番のわたしはタッチ交代の時だけ顔を合わせ、ものすごく珍しくあるバイト先の飲み会で会った時も、挨拶ぐらいしかしない仲だったのだから。
「……なんだよ、一体」
呼び出したのはバイト先近くのゲーセン。
「俺、あんたと仲良かったっけ?」
わたしは黙って携帯を握り締めていた。ミニクマのストラップが、夜風にゆらゆら揺れる。
「……不安定って、なに」
わたしは知っている。彼が、バイトの女の子と付き合っているのを。彼女が直接わたしに言ったからだ。彼女の方とは時々一緒に仕事をする事があった。あの背の高い遅番の男の人私の彼氏になったの、と嬉しそうに言われた時、わたしはすぐに嫉妬した。わたしも、彼の事が好きだったから。
たとえば、短く切り揃えられた爪だとか、背が高すぎて猫背になってしまっている後ろ姿だとかが。
「お兄ちゃんが家出したの」
「は?」
「ううん、家族には話して行ったから、厳密に言うと家出じゃないんだけど、でも、なんか家族の生態系が崩れちゃったみたいで、不安定、なの」
「生態系?」
ジーンズの細い脚は、きっとわたしの脚より細い。
彼は、眼鏡の奥で静かな目をしている。
「それで、俺にどうして……」
欲しい訳、と彼が言うのと同時にわたしはその身体に抱きついた。
「……抱っこ、して」
「俺、あんたの兄貴に似てんの?」
「え、全然、」
似てないよ、と言った時、彼がちょっとだけかがんできて、わたしの唇にキスをした。力いっぱい抱き付いていたはずなのに、とわたしはすごく驚いた。
「女子高生が、そんなうかつに男に抱きついたりすると恐い目に会うぞ」
わたしの長い髪を、彼が撫でる。
笑っている、と思った。
他の女を彼女にしているくせに、わたしとキスできちゃう男って、なに。
キス、って、もっと特別な何かなんじゃ、ないの。
「お前、なんか可愛いな」
クールな眼鏡の奥でそんな風にちょっと馬鹿にされたように言われて、わたしは不安定なのはこの人を好きなせいだ、とやっと気付いて、今度は逃げようとしたのだけれど、手首を掴まえられて、結局もう一度キス、された。
ピンクの入浴剤。
あなたと幸せになる夢を見るための。
オレンジの入浴剤。
あなたの手を握る夢を見るための。
バイト先の人達とカラオケに行った。彼は、当たり前のように恋人の隣に座った。
でも、彼の右側はわたし。
「最近の子って何歌うんだろうね」
オーナーだけがはしゃいでいて、わたしはメニューに目を一通り通してから、飲みたくもないオレンジジュースを注文してもらった。
「電気消しちゃおうよ」
「賛成、明るいとこで歌ってもおもしろくねぇよな」
バイトの人達は大学生が多い。みんな、お酒を飲むんだな、なんて、ぼんやりと思っているうちに、みんな勝手に歌い出した。
「あんたは歌わないの?」
ぼんやり、を続行していたら、右側から声がかかった。他人の歌声に紛れているはずなのに、どうして彼の声は真っ直ぐわたしに届いてしまうのだろう。
「うたわ、ない」
苦手だから、と言ったのに、彼は暗い部屋の中でそっとわたしの右手を触った。
隣に恋人がいるくせに、と、思い切り睨んでやったのに、彼はまた眼鏡の奥でクールに笑っただけだった。
彼の人差し指が、わたしの手を撫でている。
彼の右側には、何も知らない彼の恋人が笑っている。
男って、なに。
どうしてこんな事ができるんだろう。
そして、どうしてこんなことをする男なんかに、わたしはドキドキしてしまって堪らないのだろう。
好き。
キスして欲しい、と思ったから、わたしは彼を部屋の外へ連れ出したくて仕方がない想いではちきれそうになっていた。トイレとかに引きずり込んで、ジーンズ引き降ろしてシャツのボタンも全部外して、身体中に滅茶苦茶キスしたかった。この人に犯されたいと思った。犯したいと思った。
処女なのに、なんの経験も伴わないのに、わたしは彼に欲情して、そして誰の歌声も耳に入らないまま、少し泣きそうになっていた。
乳白色の入浴剤。
あなたの真実を覆い隠す夢を見るための。
紫の入浴剤。
あなたに溺れてしまうわたしのための。
わたしの趣味は、入浴剤を集める事だ。
気分によって、色を変えてお風呂に入る。家族はわたしの趣味だからと納得してくれているので、あまり文句を言わずにいてくれる。
性欲の色は紫だと、聞いた事があった。
わたしはカラオケから帰ってくると、一旦お風呂の栓を抜いてお湯を張りなおす。紫色の入浴剤を入れると、大抵のその色がそうであるように、ありきたりなラベンダーの匂いがした。
セックスする時って、痛いのかな。
わたしの初めてが、彼であればいいと思うのは、思うのはきっと勝手だ。
キスしたいと思う事だって。
そして、多分望めば、彼はわたしとセックスしてくれるだろう。再びキスだってしてくれるだろう。恋人がいても、全然平気な顔で。
それをずるいと思って、でもそれでも彼を恰好良いと、思った。
彼を、好きだと、思った。
わたしが、背伸びしたいだけの年頃であろうとも。
彼は確かに恰好良くて、大人に見えた。
わたしは彼に欲情して、そして彼の恋人なんか、どうでもいいやと思っていた。裏切るのなんて、恐くも何ともない。
赤信号だって、みんなで渡れば車が停まる。
紫の入浴剤。
あなたに溺れてしまう、わたしの、ため、の。




