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Another Story《声だけが、迎えに来た》

 結城優花が消えたのは、三年前の夏だった。

 大学の夏休みに実家へ帰ったきり、彼女は戻らなかった。

 家族は「連絡が途絶えた」と言ったが、警察はすぐに「自発的な家出」の線で片づけた。

 彼氏だった俺 柴田湊は、ずっと納得できずにいた。


 優花の実家がある村。

 地図にも名前が薄くしか載っていない、山と川に囲まれた古い集落。

 優花はそこを「空気が濡れてる」とよく言っていた。

 電話越しでも、声がどこか遠くに感じられた。


 三年経っても、優花のスマホは電源が入らないままだ。

 SNSも、銀行も、まったく動きがない。

 完全に消えた。


 そしてある日、俺のスマホに非通知の音声メッセージが届いた。

 聞き覚えのある、優花の声だった。


 湊、ごめん。迎えに来ないで。

 わたし、ここにいちゃいけなかった


 録音のように淡々とした声。

 けれど、あの独特の語尾と間の取り方は、間違いなく優花だった。


 俺は荷物をまとめ、優花の村へ向かった。


 車を降り、記憶を頼りに歩く。

 木々の匂いが濃く、空気はねっとりと肌にまとわりついた。


 村人はほとんど見かけなかった。

 ようやく一人だけ、祖母だという女性に出会った。

 彼女は短く言った。


 あの子は、もう帰ってこないよ

 顔を、かえされたからねえ


 意味はわからなかった。

 だが俺は、優花が残していたメモの場所を目指した。


 村の裏山にある、誰も口にしたがらない池。

 水鏡の池とだけ書かれていた、地図にも載っていない場所。


 夕方、池にたどり着いた時、風が止んだ。

 音もなく、空気が重い。

 水面は鏡のように静かで、どこまでも深く見えた。


 そこで、誰かに名前を呼ばれた。


 みなと


 確かに、水の中から聞こえた。

 耳の奥に届くような、くぐもった声。


 水面には、優花の顔が映っていた。

 笑ってはいなかった。

 無表情で、じっとこちらを見ていた。


 おい

 優花か?

 そこにいるのか?


 問いかけると、彼女は口を開いた。


 逃げて

 ここに来たら、あなたも……


 その瞬間、背中に冷たいものが触れた。

 振り向いても誰もいない。

 でも次の瞬間、足首をつかまれた。


 水面の中から、手が伸びていた。


 水の中のそれは、俺の名前を繰り返した。


 みなと

 みなと

 みなと


 男の声

 女の声

 子どもの声

 いくつもの声が、重なって響いた。


 優花の声も混じっていた。


 ここから、逃げられない


 その言葉とともに、俺は池の中へ引きずり込まれた。


 冷たい

 暗い

 息ができない


 目を開けると、目の前にもうひとりの自分がいた。

 俺と同じ顔

 同じ声

 けれどそいつは、ゆっくりと笑った。


 今度は、俺が生きる番だ


 意識が薄れていく中、最後に聞こえたのは

 池の表面から離れていく足音だった。

 まるで俺の体を借りて

 そいつが地上へ戻っていく音だった。


 次に目を覚ましたとき、俺は東京のアパートにいた。

 ベッドの上、見慣れた天井、朝の光。

 クーラーの音も聞こえる。

 夢だったのかと、一瞬思った。


 キッチンから水の音がした。

 優花が、水を注いでいた。

 俺を見て、笑った。


 起きた? 湊


 声も、仕草も、昔のままだ。

 けれど、どこかその笑みに温度がなかった。


 俺は黙った。

 彼女の後ろの床に、濡れた足跡が二人分、並んでいた。


 俺の分と、彼女の分。

 どちらも、池の底から戻ってきた者のものだった。


 迎えに来てくれて、ありがとう


 そう言ったとき、俺の中の湊はもう声を上げられなかった。


 声も、顔も、名前も

 全部あっちに置いてきたまま、ここにいる。


 それでも朝は来る。

 部屋は明るく、冷たい水がコップに満ちていた。


 その夜、誰も知らないまま

 東京の、とあるアパートで、ふたりは静かに暮らしはじめた。


 もうあの夏を思い出す必要もない。

 すべては、取り替えられたのだから。

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