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第八話(完結)タイトル 《さいごの名前を呼ぶとき》

 それから数日が過ぎた。


 澄の姿は、もうどこにもなかった。

 祖母も何も言わず、ただ静かに日々の食事を用意し、朝には仏壇に手を合わせていた。


 私はというと、まだ完全には日常に戻れずにいた。

 ふとした瞬間、鏡の前で足を止めてしまう。

 窓に映る自分の姿に、わずかな違和感を覚える。

 まるで、顔がほんのすこし、ズレているような。


 あれから何かが返ってきたのは確かだった。

 けれど、それが本当に私なのか、自信はなかった。


 ある日の夕方、祖母が言った。


 もう一度、池へ行きなさい

 行って、名前を呼んでおいで

 それで、本当に終わるんだよ


 私は黙ってうなずいた。

 胸の奥では、まだ何かがくすぶっていた。

 あの水の底で、もう一人の私が笑っていた。

「ありがとう」と言った顔が、ほんの一瞬、悲しげだった。


 あれは、私だったのかもしれない

 あるいは、澄だったのかもしれない


 私は池へ向かった。

 風が涼しくなっていた。

 夏の終わりの空気が、肌にやさしくまとわりついていた。


 池は静かだった。

 濁ってもいない。

 揺れてもいない。


 私は池のほとりに立ち、深く息を吸った。

 そして、声に出した。


 澄

 かえっておいで


 風が吹いた。

 水面が、わずかに揺れた。


 私は続けて、もう一度、自分の名前を呼んだ。


 ゆうか

 ここにいるよ


 その瞬間、池の奥に何かが立ちのぼった。

 水面に浮かんだのは、少女の笑顔。

 どこか遠くを見ているような目だった。


 でも、笑っていた。


 ありがとう

 今度こそ、返すね


 その声は、心の奥に直接届いた気がした。

 水はすっと静まり返り、顔はもう映らなかった。


 私は静かにその場を離れた。

 振り返らなかった。


 あれから、私は鏡を怖がらなくなった。

 自分の顔が、ちゃんと自分のものに戻った気がしたからだ。


 それでもときどき、ふいに水面を見ると、澄の影が揺れることがある。

 それはきっと、忘れてはいけない記憶のかけらなのだと思う。


 水に奪われたもの、水が返してくれたもの。

 そのすべてに名前があり、顔がある。


 だから、私はこれからも忘れない。

 澄の名前も、自分の名前も、呼び続けていく。


 声が、届くかぎり。

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